Oh, my God!! ~降りれない~

うたた寝

第1話



 遅刻~遅刻~、と。彼女はパンこそ咥えていないものの焦っていた。陸上部顔負けの綺麗なフォームで街を駆け、道行く人たちを次々と抜いていく。家を出る直前、フリフリの可愛いスカートを投げ捨てて、スポーティなズボンに履き替えた甲斐あって、走るのがとても快調である。

 寝過ごしたわけではない。ちゃんと余裕を持って朝起床した。普通に家を出ていれば全然余裕のハズだった。誤算だったのが、朝何気なく観ていたテレビに好きなアイドルが出演していたこと。あともうちょっと、あともうちょっと、と。出演が終わるところまでテレビを観続けた結果、彼女は駅までの全力ダッシュを強いられることとなった。

 時間的に次の電車がラストチャンス。その電車が『間に合う可能性のある』最後の電車。その電車に乗ってもまだセーフかは分からず、駅に着いた後、再び大学までの全力ダッシュが待っている。

 テストがある、とかではないので、正直遅刻したところでどうということはないのだが、前回、諸事情により授業に遅刻し、提出物も一応提出扱いにはなったがあやふやな感じなので、今回も続けて遅刻というのは避けたいところである。先生に目を付けられていいことなど何も無いのだ。

 彼女の視界に踏切が映り、その踏切が鳴り始めたのが見える。鳴り始めた、ということは電車が来る、ということ。マズい! と彼女はさらに速度を上げる。駅のホームへと続く階段を豪快に数段飛ばしながら駆け上がっていく。

 幸か不幸か、家を出る時間が遅かった関係で、通勤や通学のラッシュが終わったか、人通りが少ない。人にぶつかる心配も無いためスピード出し放題。改札で止められてはただのロスなので、そこだけ慎重に定期を通した後、電車に乗るため階段を数段飛ばしで駆け降りる。

 階段の下ではもう電車が着いており、ドアを開けて待っている。もういつ出発してもおかしくない。その焦りから、まだ階段の半分くらいまでしか降りていなかったが、そこから一番下の床目掛けて一気にダイブ! 着地時、足裏から脳に掛けて強烈な衝撃が駆け抜けるが、ドアが閉まり始めたのが見えたため、躊躇せずに電車に向かってもう一度ダイブ! 迫りくるドアを体を捻って躱し、間一髪望みが繋がる電車の中へと滑り込んだ。

 ヘッドスライディングのような形で滑り込んだ彼女を乗客が見ているが気にしない。何なら手でも振ってやりたい気分だ。

 パンパン、と彼女が服を叩きながら立ち上がり、ふぅー、と一安心した瞬間、


 ぎゅるるるるぅぅぅぅ…………っっっっ!!


 と、彼女のお腹から嫌な音がした。



「あら?」

 彼女の母親は冷蔵庫を開けた状態で小さく首を傾げる。

「捨てようと思ってたヨーグルトが無いわ」



 女の子はトイレなんて行かない、と本気で信じている男の子は居るだろうか? では夢を壊すようで申し訳ないが、一つ残酷な真実を伝えなければならない。女の子だってトイレくらいする。好きな子が居るのであれば、一日中監視してみるといい。どこかのタイミングでトイレへ行くだろう。トイレに行ってもマシュマロが出てくるんだ、とまで夢を見ているのであればもう何も言うまい。

 では純真無垢な男の子の夢を壊さないため、女の子はトイレでマシュマロを出していると仮定するが、それでもやはり、マシュマロを出すならトイレに行く必要はある。逆に言うと、トイレ以外でマシュマロを出すと色々問題なのである。いや、まぁ、本当にマシュマロが出てくるならギリセーフかもしれないが。

 我慢が体に悪いなんて百も承知。だが、多少体に悪かろうが我慢しなければいけない時というのが大人にはあるのである。これがまだ子供であれば、最悪の事態が起こった場合でも周りの人たちが駆け寄って助けてくれるかもしれないが、大人だとみんな一斉に距離を取るか、動画でも撮ってSNSに晒すかのどちらかだろう。もっと大人に優しい世の中になってほしいものである。

 鶴の恩返しではないが、女の子がマシュマロを出す姿というのは決して人に見られてはいけないのである。いや、別に女の子に限った話でもないだろうが。

 脂汗さえ浮かべながら彼女はお腹を押さえて腹痛に耐える。電車に飛び乗った罰だとでも言うのか。何でよりによって腹痛が来るのが電車に乗った後なのだ。

 しかも、運が悪いことにこの電車は快速。各駅停車と違って止まらない駅が間にあるため、次の駅に止まるまでは10分弱かかる。普段であればさして気にするような時間ではないが、腹痛の状態で10分我慢は普通に地獄である。特殊なプレーでもあるまいし、生理現象は我慢するものではない。

 変な物でも食べただろうか? 思い当たる節はある。それは朝食べたヨーグルト。口に入れた瞬間、確かに何かの酸味がした。初めて見るメーカーのヨーグルトだったため、そういう味付けなのかと思ってあまり気にしなかったが、ひょっとして、痛んでいたか?

 正解、とでもいうように、ぎゅるるるるぅぅぅぅ…………っっっっ!! とお腹が唸る。はうあっ!? と彼女は小さく悲鳴を上げ、お腹を押さえながら前傾姿勢になる。効果があるのかは定かではないが、体を真っ直ぐ立てているとそのまま真っ直ぐ何かが出てきそうである。

 ドア近くの手すりを握りしめながら前傾姿勢になり、何かを紛らわせるように体を小さくクネクネしている彼女の様子は他者からは滑稽に見える姿かもしれないが、彼女からすれば大真面目の抵抗なのである。電車内の治安を守るために頑張っているのだから、むしろ応援してほしいくらいだ。まぁ、みんなスマホに夢中でこっちなど見ていないが。

 立っている方がラクなのか、座っている方がラクなのか。座ることによって物理的に栓をすることも考えたが、座る姿勢というのは便器に座った姿勢を彷彿とさせる可能性がある。今、トイレへの欲求が120%に膨れているこんな状態で、少しでもトイレを意識させる行動でも取れば、その瞬間、体が出していいと勘違いし、せき止めている何かが決壊する可能性がある。

 よって彼女は手すりを握りしめ立っていることにする。何か気でも紛らわらせようとしたが、こんな腹痛時に考えられることと言えば、今だけ瞬間移動が使える超能力者になって、トイレへ瞬間移動したい、ということくらいである。後1割くらいずっと頭の片隅に過り続けるのは、これこのまま漏らしたらどうしよう? という最悪の事態への想定である。

 背中にリュックサックがあるから最悪そこに……、という、被害を最小限に抑える方向に考えをシフトし始めたら、限界が近付いて若干諦めに掛かっていると思った方がいい。もしも私が~、大統領なら~、まずはやりたいことがあるのよ~。電車内にトイレの設置を義務付けます! という現実逃避まで始めたなら、決壊はもう近いと考えてよい。

 と、言うか、マジで危ない。大抵この手の腹痛は恋のように押しては引いてを繰り返す波のようなものだが、引いている時の波でさええげつない。立っていることも怪しくなってきて、膝が小刻みに震え始めている。限界が近づき幻覚が見えるようになったか、電車から見える景色が全く変わらず、電車が止まっているようにさえ見える。

 …………というか、えっ? これ本当に止まってね?

 駅でもないのに電車が止まっている、ということに彼女が気付くと、それに対するアンサーが電車内のアナウンスとして流れる。

『線路内に人が立ち入ったため……』

 よし、ひき殺せ。線路内に立ち入ったのだ、それくらい覚悟の上だろう。

 些かモラルに欠けることを考える彼女だがこの瞬間だけは許してほしい。それくらいもう余裕が無いのである。人の命。それはもちろん大事だが、彼女の乙女としての尊厳だって大事なのである。

 お願いだから止まらないでぇ~~~~っ!! 彼女がおでこをドアの窓に押し付けながら必死に腹痛に耐えて祈っていると、祈りが通じたのか、安全確認が取れたので電車を動かす、というアナウンスが流れた。

 はぁ、やっとか、と安堵したのも束の間。止まっていた電車が急発進した。予想外のところから衝撃を受けた彼女はぐっ、と唸ったがその後、はっ、とどこか青ざめた表情を作った。

 今彼女は生理現象という、神に抗うことと同義と言ってもいい熾烈な戦いを繰り広げているとてもデリケートな状態なのである。そんな状態で急発進なんて刺激を与えられると、拮抗状態が一気に崩れるかのような、何かをずっとせき止めていた壁にひびが入ったかのような、そんな感覚があった。ひびが入ると決壊は早い。そこから一気に流れ込んで壁が崩れるからである。

 え……? ちょっと待ってよ……? え……? そんな……? ねぇ……? と、そんなことはあるわけないとは思いつつ、一応念のために下着を確認したい程度には今いやぁ~~な感覚があった。

 ま・ず・いっ! ま・ず・いっ!  彼女はその場で足踏みして流れ落ちてこようとするものを必死に我慢する。ぴょんぴょんとその場で跳ねたせいか、乗客がスマホから目を離してこちらを見始めたが、今このタイミングで見るんじゃねぇ! と彼女は逆ギレモードである。っていうか何でみんなこっちに近付いてくるんだ?

 みんなで寄ってたかって彼女を囲って、彼女の痴態をあざ笑う気か、と彼女は若干半狂乱になっていたが、みんなが近付いてきた理由に遅れて気付いた。もう駅に着くのである。視界に映る、砂漠のオアシスかのような駅。このタイミングで着いてくれるのであれば、まだ間に合う。

 電車が速度を落とすと同時に彼女は準備運動を始める。電車が完全に止まり、ドアが少し開いた瞬間、彼女は徒競走をする選手かのように僅かに開いた隙間から駅へと飛び降りた。この時の瞬発力は恐らくオリンピック選手にも負けていなかったろう。

 降りる人優先、とはいえ、些かマナーに欠ける行為ではあるが、今だけは許してほしい。もう本当に余裕が無いのである。

 ピーンチ! ピーンチ! と彼女は階段を駆け降りる。朝の遅刻~遅刻~、どころの騒ぎではない。遅刻なんかもうどうでもいい。今は乙女の尊厳のピンチである。

 人をかき分けて走り、視界に待望のトイレが見えたが、彼女は複雑な心境で一旦固まる。このトイレとは前回ちょっとした因縁があるのである。だが、

 ぎゅるるるるぅぅぅぅ…………っっっっ!! そんなことを言っている場合ではない。トイレだけに前回のことは水に流そうじゃないか、と彼女はトイレに向かって全力疾走する。

 念願のトイレへとようやく辿り着いたその感動は、例えるなら24時間マラソンのランナーか、天竺に辿り着いた三蔵法師のよう。ああ、ようやくゴールだ、と彼女はどこか達成感さえ持ちつつトイレへと入ったのだが、不意に彼女はトイレの床、ということも気にせず、その場に崩れ落ちた。

 やはり、トイレには魔物が居る。

 一体何が起きたのか? その答えは彼女の視界の先にある。

 トイレにある個室が、全部、使用中だったのである。

「ふっ……」

 彼女は何かを諦めたようにそっと笑ったのであった。

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