第11話 女王様と王妃様



 泉に近づいた私に、幽霊のような白い手が伸びていることに気が付いたレナード殿下は、声をかけようとした。

 しかし間に合わず、白い手は私の背中を押して泉に突き落としてしまった。

 レナード殿下は急いで泉に飛び込んだが、私の姿はもうどこにもなかった――


「ふうん」


 なぜ今までそれを黙っていたのかしら。

 白い手、ということはあの泉の精霊さんが悪戯いたずらをしたということか。

 それなのに『ゴメンネ』ひとつで終わらせているのは正直納得いかないわ。


 ……でも、どうしてわざわざ私の前にひざまずいて、その話をしているのだろう。

 第一王子ともあろう者が。


「誤解を解いておきたかった」

「も、もういい……です」


 絶対に許せないと思っていたけれど、こんな風に謝られたら、いくら私でもさすがに気まずくなってくる。

 ちょうど執務室に誰もいなかったからいいようなものの、こんなところを他人に見られたら何を言われるかわからない。


「……いいのか?」


 レナード殿下は椅子に座っている私を見上げて、謎の威圧感を出してきた。

 良いとか悪いとかではなく、とにかく早くひざまずくのをやめてほしいのよ。


「焦って泉まで連れて行ったのは私だ。謝罪の証として何でも言うことをきこう」


 大変気前の良いレナード殿下のお言葉に、私は椅子から転げ落ちそうになった。

 今、この人、『何でも』って言った? 


「そ、そういうことを簡単に言ってはいけないわ。一国の、王子様なんだから」

「…………」


 レナード殿下は難しい顔をして黙り込む。

 ひょっとしてこの人、自分が何を言ったのか理解していないのでは……。

 どうすればわかってもらえるだろうか。


「じゃあ、もし私が靴を舐めろと言ったら――」


 突然、レナード殿下の目がカッと開いた。

 その眼光が一瞬私の足元に向いたように見えて、慌ててつま先までスカートの中へ引っ込める。


「今のは違うから! 足を見ないで!」

「舐めろと言ったが」

「言ってません!」


 レナード殿下の視線が光を放ちながらこちらへ向く。

 なぜここでこいつが怒る必要があるのか。私はぐっと目に力を込めて睨み返した。


 こんなに近くで言ったのだから絶対に聞こえていたはず。なのに、彼は目にも留まらぬ速さで私の足首をつかんだのだ。


 ――ま、まさか本当に舐めるつもり!?


 今なら足をつかんでいる手を、もう片方の足で蹴れば……でも、ケガをさせてしまうかも……。

 そうやってオロオロしている間にも、レナード殿下の顔が私の足元に近づいていく。


「イヤぁっ、舐めないでぇー!!」


 私は思わず大声で叫んでいた。


 執務室の扉がガチャ、と開いて王妃様が姿を現したのは、ちょうどその時だった。


「…………」


 王妃様は彫像のように固まっている。


 そりゃあ……そうでしょうね……。



 #########



 ローズさん、一緒にお茶でもいかが――

 固まっていた王妃様は、腹話術のように唇を動かさずに声を出した。




 レナード殿下と同じ髪の色に、茶色の瞳。

 実年齢よりもはるかに若く見える王妃様は、どこか疲れて見える。


「…………」


 白を基調とした豪華な部屋の高そうな椅子に座り、私は冷や汗を流していた。


 ――たぶんこれからメチャクチャ怒られるんだわ。このピリピリした空気がそう言っている。

 自分の息子になんてことをさせるのかと罵られ、熱いお茶の入ったカップを投げつけられるんだわ……。


 そう思うと、とても目の前のお茶を飲む気分にはなれなかった。私の正面に座っている王妃様は優雅にお茶を飲んで、おもむろに口を開く。


「国王陛下の意向で、レナードには他国の王女を娶らせる予定でした」

「そ、そうですか」


 いきなり何の話を始めたのかしら。

 私には想像もできない世界の話なので、ついつい相槌が適当になってしまった。


 外国の、たくましい感じの王女様ならレナード殿下と気が合うかもしれない。いい案だわ。でも今現在そうなっていないということは、何か事情があったのだろうか。


「その王女とレナードは幼い頃から何度も顔を合わせていましたから、問題はないはずでした。ところが、そろそろ結婚をという段階になって、王女が亡くなったと連絡がありました」


 王妃様は拳をぐっと握りしめる。


「わたくしが調べさせたところ、亡くなったというのは嘘で、あの娘は逃げたのです。お気に入りだった護衛騎士を連れて。置手紙にはレナードのことを『目が光っていて怖かった』だの『喋らなくてつまらなかった』だの書いてあったと」


 王妃様は丸テーブルを拳で叩いた。


「……あの娘、見つけ出してぶっ殺す!」


 聞いてはいけない言葉を聞いてしまった。

 ただ、レナード殿下の目から光線が出るのと喋らないのは本当のことだ。だからといって逃げていいわけではないけれど、蝶よ花よと育てられたお姫様には無理だったのだろう。

 私は許嫁いいなずけの王女様に少し同情した。


「わたくしは侍女以外の女性をレナードに近づけさせないようにしていました。もう結婚する相手は決まっているのだし、それに何より……国王陛下のようになっては困るので」

「…………」


 またそんな、相槌も打てないような話題を……。

 今の王様がかなりの色狂いだという噂は私も知っている。おきさき様が三人いるのに愛妾が五人もいて、王宮で働く女性の中には王様にナンパされた人がたくさんいるとか。


「だからレナードは女性のことを知る機会がなかった。悔やんでいますわ。たとえあの子が間違った選択をしたとしても、わたくしにはもう止めることはできません」


 王妃様は額に手を当てて首を横に振る。


「――あなたとのことも、そうです」


 王妃様の茶色の瞳がチラリとこちらを向いた。何かを言いたそうな目つきだ。いよいよお茶をかけられるのか、と私は身を固くして衝撃に備えた。


「あなたには婚約者がいたでしょう。そういう人を選んでしまったら、あの子はきっとわたくしと同じように苦しむと思って」

「……?」


 お茶が飛んでこない……じゃなくて、王妃様が何を言っているのかわからない。

 レナード殿下が苦しむ? ……何に?


「それで、泉の精霊に指輪を授けられれば、という条件を付けたのですわ」


 王妃様のその言葉で、私はソフィアさんが純潔がどうとか言っていたのを思い出し、何かひらめくものを感じた。


「…………ほぉ」


 思わず変な声が出てしまい、私は慌てて咳ばらいをしてごまかす。


 ――なるほど、そういうことか。


 感じていたモヤモヤが急に晴れたような気がした。

 王妃様は連れ添った相手に浮気され続けたから、自分の息子は裏切られないように……と思ったのだろう。


 その気持ちは理解できなくはない。でも、ちょっとイライラしてきたわ。

 この王妃様もだけど、あの王子様にも。

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