第2話 清らかな泉には白い手が
身支度もそこそこに玄関ホールへ向かうと、ソフィアさんが待っていた。
背が高く、濃い茶色の髪をお団子にまとめてメガネをかけた知的な美人だ。立ち襟の黒いブラウスと黒いスカート、胸元には役職を表すブローチを付けている。
「ごきげんよう、ローズ様」
「ごきげんよう……ソフィアさん」
ソフィアさんは第一王子付きの侍女だ。
とても親切な人で、今回の婚約者候補のお世話をしてくれている。
この人の前では「婚約者候補をやめたい」と思っているのが後ろめたくなってしまうくらい、私はお世話になりっぱなしだった。
王家の印のついた派手な馬車に乗り込んで、私はふう、と一息ついた。
いつの間にかソフィアさんがこちらを向いている。
「昨日は具合が悪かったとお聞きしていましたが、やはり少し顔色が悪いですわ」
「ええ、熱が出まして……」
「まあ」
ソフィアさんの目が丸くなった。
昨日の朝、急に熱が上がってベッドから起き上がることができなくなったのだ。
たぶん風邪……だと思うのだけれど。
「あの泉に入られたからですわね……」
「……ええ」
気遣ってくれているソフィアさんに、あなたのお仕えしている方に突き落とされたんですよ、なんて私でもさすがに言えない。
「レナード様も心配されていました」
「そ、そうなのですか……?」
――絶対に嘘だッ!!!
ソフィアさんと話すことさえ億劫になり、私はうっかり目を閉じてしまった。強い眠気が押し寄せて、気が遠くなっていく。
昨日の晩も、変な夢を見たような……。
あの日、王宮の近くにある森へ行くと言い出したのは、レナード殿下だった。
よく覚えていないけれど、彼は「大事なことだから」という意味の話をしていたと思う。
森の中はきちんと手入れされていて、貴人が散策するには良い場所だった。数分歩いただけで大きな泉が見えてくるのも気分転換にうってつけだ。
空が曇って少し寒いような天気の日だったから、泉は黒く濁って見えた。こんな泉にどうして清らかな精霊がいるという伝説があるのかしら……などと考えていたら、背中をドンッと押されたのだ。
ぐるんと天地が入れ替わる感覚と、水を叩く音。
開いた口から空気が漏れ出ていく。
ドレスは水を吸ってどんどん重くなる。
焦りと苦しさの中で必死に目を開けると、泉の中は驚くほど澄んでいた。
外から見た時は真っ黒だったのに。
水底は優しい光に照らされていて、中央あたりに小さな箱があった。
可愛らしい装飾の……宝石入れのような。
誰かがここに落としたのだろうか。
そう思った瞬間、何者かが左の足首をグッとつかんだ。
「!」
気が動転した私は、残していた空気を吐き出してしまう。
足首には細くて白い指が巻き付いていて――
「ぎゃあぁぁーー!!」
自分の叫び声で目を覚ますと、ソフィアさんの驚いたような顔が見えた。
私は浅い呼吸を繰り返しつつ周りを見る。
馬車の中だ。まだ王宮にはついていない。
夢だったんだ……良かった。
「な、何かあったのですか? 少しまどろんでおられたようでしたが」
「いえ、あの……怖い夢を見て……」
「夢を?」
ソフィアさんは怪訝な顔をした。夢くらいで騒ぎすぎだと思ったのだろう。
チクッと鈍い痛みを感じて、私は服の上からそっと左の足首を触ってみた。
手が当たるとひりひりする。痛い。
――あれは夢じゃなかった……?
ぶるりと身震いする私を見て、ソフィアさんはまた驚いていた。
「まあ、すごい汗ですわ」
いつの間にか私は冷や汗でびっしょりになっていた。
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お風呂で汗を流した後、用意されていた新しいドレスに着替えさせてもらった。
薄い水色のシンプルなデザイン。しっかりとした造りでサイズもぴったりだ。
婚約者候補になった最初の頃、やたらと採寸されていたのはこのドレスを仕立てるためだったのだろうか。王室専属の職人が作ったものは我が家で仕立てた服とはレベルが違った。
でもまだ『候補』の段階でこんなドレスを作るなんて、王族は贅沢しすぎだわ。
「よくお似合いです」
ソフィアさんは満足そうにうなずくと、私の手を取ってずんずんと歩き出した。
妙だわ。いつもならレナード殿下の執務室に行くはずなのに、今日は違う通路を使っている。
背筋がゾワゾワして、私は思わず足を止めてしまった。
「ソ、ソフィアさん。今日はどこへ……」
「訓練場ですわ」
屈託のないソフィアさんのいい笑顔。
私はずーんと胸が重くなるのを感じた。
――今日の苦行はこのパターンか……。
「さあさあ、急ぎませんと」
ソフィアさんに引っ張られた私は、足をもつれさせながら歩くしかなかった。
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