第9話 ケラル

 施設の門を出たとき、リンカとマキアは付近の清掃をしている青年を見つけた。

 リンカはマキアの方を見ないまま指示を出す。

「彼に少し話があるんだ。悪いが、先に車に戻っててくれ」

「はい」

 マキアは素直に従う。助手が駐車場に向かうのを見送ったリンカは、掃除中の青年に声をかけた。

「ケラル、久しぶりだな」

「リ、リンカ……」

 施設長と歩いている際にすれ違った青年だ。

 気弱そうな青年はおっかなびっくりといった態度で掃除の手を止める。

「元気にしてたか?」

「うん、リンカは?」

「まあまあだ。せっかく会えたんだし、少し話さないか?」

「少しだけなら、いいよ。他の職員の人に見つかるとサボってると思われちゃうし」

 そう言ってケラルは施設側に背を向けてリンカと話をする。

「リンカ、背伸びた?」

「どうだろうか、ケラルと最後に会ったのはもう二年くらい前だろ? そのときと変わらないんじゃないか?」

「そ、そうかな。そういえば、これ覚えてる? リンカが子どもの頃くれたハンカチだよ」

 ケラルは上着の内ポケットから折り畳まれたハンカチを取り出す。

「まだそんな物を持っていたか。まさか、昔みたいにわたしの汗を拭くって口実で胸に触ろうとしてるんじゃないだろうな」

 からかう口調のリンカ。ケラルは困った声をあげる。

「しないよ……」

「……ホントか? どっちにしろ汗は拭くから貸してくれ」

 そう言ってリンカは折り畳まれたハンカチを受け取る。ハンカチに触れたとき、布地ではありえない感触が手に伝わった。リンカはケラルが書簡の送り主だと確信する。

 ハンカチを掴んだリンカはジャケットの下に着ているスーツのボタンを外して胸元を少しだけ露わにする。

 ハンカチで胸元の汗を拭くような素振りをしているため施設側からは死角になるが、近くにいるケラルには胸元が見えた。

 リンカの胸元には『わたしの指を見ろ』と小さく書かれていた。

 汗を拭く動作を済ませると、リンカはそのままスーツのボタンを手早く止めて何事もなかったかのように会話を再開させる。

「ふう、山間は涼しいと思ったが今日は少し暑かったな」

 ケラルは視線だけ動かしてリンカの腰に当てられた手を見た。

 彼女の指は小刻みにタップを繰り返している。

 ケラルはこの動き、正確にはタップのリズムの意味を知っている。無線電信の符号だ。

『見たら唇を噛め』

 ケラルは唇を噛んで知らせる。リンカは指の動きとは全く関係のない話を始めた。

「それにしても、ケラルがここの職員だとは知らなかったぞ。教えてくれればよかったのに」

勿論リンカはケラルがここの職員になっていたのを知っている。軍警察を辞める直前に手紙を寄こされたのだ。

『事情教えろ』

 ケラルは掃除に使っている箒の柄を掴んで、軽く指先でタップする。

『子どもが売買されている』

「いろいろあってね。僕もここ一年くらいなんだ、ここに来たのは」

 あまり時間がない。いくら友人との再会という体裁であっても今は勤務中だ。これ以上二人で居続けると疑われる。

「そうか。せっかく会えたが、今日は内務官の仕事で来たからあまりゆっくりできないのが残念だ。今度は個人的に来るさ。汗を拭いたハンカチは洗って返す。いつ頃ならいい?」

 これが救援のタイミングを訊ねているのだとケラルは瞬間的に理解できた。

「明後日はダメだ。来客が来るからその対応をしないといけない」

 明後日では間に合わない。

『明日の夕方、門を開ける』

 明日の夕方なら施設周辺の掃除という名目で門の開閉ができる。軍警察にしろ内政省の職員にしろ、リンカの救援はしやすくなるはずだ。逆に言えば、明日がリミットだった。

「わかった。日を改めて伺うことにするよ。ではまた」

「またね」

 ケラルはリンカの後ろ姿を見送る。彼は夕陽に照らされるリンカの背中に向かって再会と救援を祈った。

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