5. 新しい伝統は本と共に 後編

 櫻子と約束したとおり、私はお昼ご飯を急いで食べて図書室へ向かっている。

 早食いは身体に良くないと分かっているけれど、少しでも長く櫻子と一緒にいたいと思うと、食べるスピードがどんどん速くなっていってしまう。

 「図書室に行くんでしょ? 琴葉が急いで食べた後はだいたい図書室だもの。藤枝先生に会いに行くんでしょ?」

 とは、昨年から相変わらずお昼を一緒に食べている美登の談。

「うん、そうだよ。ごめんね。」

 いつか美登、もしかすればあやめにもバレてしまうかもしれない、と不安を覚えながら私は図書室へ向かっている。

 図書室に着くと、先に櫻子が9類の書架にいた。

 書架の間に立ち、その中の本たちを見つめる櫻子の横顔は、少し上を向いているのに伏し目で、悩んでいるように見える。

 その長い睫毛とローズピンクの唇に彩られた表情に私は見入ってそわそわしてしまう。

 綺麗。ずっと見ていたい。

 昼休みという短すぎる時間がもどかしい。

 櫻子……。

 ガッ! 痛っ!

 鈍い音と同時に足の小指に痛みが走る。

 ううう……。

 しゃがみこんで呻いてしまう。

「琴葉!? 大丈夫!?」

 驚いたような櫻子の声がしたと思うと、私の背中が優しく撫でられている。

「ううう……。足の、小指を、書架に、ぶつけちゃいました。ぼーっと……してました……。」

「大丈夫? 立てる?」

「立てます。骨とかは折れてないはず……。」

 櫻子が綺麗すぎて見惚れちゃって、前をしっかり見てなかった。

 でもそんなの言えないや。櫻子のせいみたいだもの。これは私の不注意!

 でも、櫻子は本当に綺麗だった。

 昨年の12月からお付き合いを始めて、これでもう5か月目だけれど、こんなにどきどきしちゃうなんて。

 私は頑張ってすっと立ち上がり、櫻子に目を合わせる。

「もう大丈夫です。……櫻子が撫でてくれたので。」

「それなら良かったわ。実は黒木さんのお願いのことで悩んでて。気が付いたらそっちの考え事で頭がいっぱいになってたみたいで、大きな音がしたからびっくりしちゃって。そうしたら、琴葉がしゃがみこんでたから、琴葉が何処かに身体をぶつけちゃったんだと思ったの。」

「はい、ぶつけちゃいました。私もぼーっとしちゃってましたけど、もうこうして立ってます! ……銀河ちゃんの件、悩んでるんですか?」

「まあ。立ち直りが早いのね。ふふ。ええ、そうなの。琴葉のためなら、吹奏楽部のためならと頼みを受けてみたけれど、昨年のコッペリアよりも難しくって。」

「え、私のため? 今回は銀河ちゃんの……」

「琴葉のためならもっと頑張れるから。」

 当たり前よと言わんばかりに櫻子はそう言い放ち、私はドキッとしてしまう。

「……照れちゃいますよ。……こふん。難しいんですか。コッペリアよりも。」

「ええ、そうなの。コッペリアはバレエとして解説の本があったでしょう? 調べてみたのだけれど、シェヘラザードそのものについて語られる本ってそんなにないのよ。いろいろ探してみたけれど、結局アラビアンナイトのストーリーからシェヘラザードについて、黒木さんたちに読み解いてもらうのが一番だ、と私は思ったわ。……琴葉、これでいいのかしら。」

「え?」

「もっとわかりやすく、シェヘラザードはこういう女性、ってまとめてあげたほうがいいのかなあ、とも思ってしまうの。」

「それはしなくていいと思いますよ、櫻子。」

「どうしてそう思うの?」

「それだと、去年の千利のやり方と変わらないと思うんです。銀河ちゃんは、『自分たちで考えて欲しい』って言ってたじゃないですか。あの子は、それが大変だってわかっててもそうしたいんだと思いますよ。」

「黒木さん、部員みんなに読んでもらうのも、そうして出来たいろんな考えをまとめるのも、すごく大変だと思うわ。……コンクールまでの短い期間で、彼女がそうしたいと思っていても、それが正しいことなのかな、って私は悩んでしまったの。」

「櫻子、私はあの子のやり方を支持したいです。私も、部のみんなに呼びかけてみるし、きっと千利も支えてくれると思いますよ。」

「琴葉。貴女も先輩になったのね。」

 そういう矜持は持ってるつもりだったけれど、櫻子に言われると照れちゃいます。

「そりゃそうですよ! だから、櫻子。」

「……なあに?」

「私と、2人で。あの子を支えてあげたいです。」

 言いながら、私は櫻子の両手を自分の両手で包む。

「もう、琴葉。黒木さんの力になりたいのか、私と一緒にいたいのか、どちらなのかしら。」

 櫻子が笑いながら照れて、可愛らしい。

「どっちも、ですよ。」

「ふふ……欲張りさん。」

 書架と書架の間の狭い空間で、櫻子は私をそっと抱いてくれて、私達は寄り添う。

 この狭さが、櫻子をより近くに感じさせてくれて、私達を隠してくれる。

 櫻子の部屋で寄り添うときより、ドキドキしてしまう。

 空間の狭さも、隠されているとはいえ誰か来るかもしれないという緊張感が、ドキドキを加速させるのかな。

 今はお昼休み。あまり時間もないけれど。もう少しだけ。もうちょっとだけ。

 櫻子を感じさせて。ドキドキさせて。櫻子の甘い香りで包んで。

 櫻子が私の額にそっとキスをして、ゆっくりと、私を離す。もう、そんな時間なんですね。

 と、櫻子に額をハンカチで拭われる。

「キスしたら少しリップグロスがついてしまったわ。拭っておかないと。」

「バレちゃいますものね。」

「さて、琴葉。方針は決まったから、本を用意しましょうか。たくさんあるから手伝って?」

「たくさん?」

「どうしてもたくさんになってしまうのよ。なんせ、アラビアンナイトの全集ですもの。」

「全集!? 1000夜分!?」

「そう。1000夜全部。シェヘラザードはアラビアンナイトの始まりと終わりがメインの出番なの。だから、せっかくなら全集を貸し出そうと思って。文庫本で全13冊ね。シェヘラザードのメインの出番だけなら1巻と13巻だけれど。せっかくだから面白いお話や有名なお話をピックアップして一覧を付けとこうかなって。お話が面白くなってきたところでシェヘラザードは『続きはまた明日』ってお話を止めちゃうから、そういうところも読むと面白いかもしれない。」

「1000夜全部読むのはしんどそうですけど、ピックアップしてくれるなら読みやすそうですね。」

「もっとも、この1000夜って、最初からアラブのお話に全部あったわけじゃなくて、ヨーロッパに伝わった時点で話が盛られたり付け加えられたりして、アラビア語の原点がないお話も結構あるのよ。その辺りも注釈ついてたりするから、深堀りしてみると面白いかもね。」

「へえ。」

「さて、この13冊ね。私が7冊、琴葉が6冊お願いするわ。」

「はい。」

 櫻子と一緒に本をカウンターへ運ぶ。

「取り置きしておくから、部活の時間に貸し出しカードを持ってまた来てちょうだい。今貸し出ししても、置いておくところがないでしょう。」

「その通りですね。今日、銀河ちゃんとまた来ます。」

「ふふ。お願いね。さて、そろそろ時間じゃないかしら?」

「……はい、名残惜しいですが。」

「また来てちょうだい。今日は、キスしてあげたでしょう?」

「……おでこも嬉しかったですけれど。……その。」

「欲しいんでしょ……?」

 櫻子が人差し指をぴんと伸ばして、私の唇を指す。

「……だーめ。ここだと見られちゃうから。また今度、私の家で、ね。」

「……はい。」

 そもそも今はまだ普通に日中だ。私は登校中だし、櫻子は仕事中だ。誰かに見つかる危険もある。……仕方ない。

「櫻子、またうちに行かせてください。」

「もちろん、待ってるわ。……もう時間、そんなにないわよ。」

「はい……それでは。」

 カウンターに入っていき、席に座って佇む櫻子を後ろに私は教室へ戻った。

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