第3話 ♪鐘楼が繋ぐ釵子(さいし)の報恩譚-本草御厨に咲くラベンダー-

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ―― 



名古屋・熱田あつた-約十年前

 区役所にある隣接小ホールでは「熱田と時代装束」というイベントが行われていた。


 名古屋の熱田は江戸期には宮宿みやしゅくとも呼ばれた。古くはヤマトタケル、その后のミヤズヒメの記紀神話の時代、平安の頃、源頼朝の母ゆかりの地としても名を馳せ、そしてその後の江戸期に更なる繁栄を誇った時代が知られている。


 東海道五十三次の四十一番目、その道中最大の宿場である宮宿。そして同時に熱田神宮の門前町でもある。奉行所も置かれ、七里しちりの渡しの渡船場とせんばを兼ねた交通の要衝であった。今も昔も自由と繁栄を象徴する町である。それにあやかっての、このイベントだ。


 奈良、平安時代の烏帽子えぼししゃくを持つ男性と飛鳥時代のシャーマニズムの装飾品で身を包んだ貫頭衣かんとうい装束の女性、平安時代の十二単じゅうにひとえ装束の女性、江戸期のお伊勢参りの旅姿男女と五人のモデルさんが舞台上で往時のファッション、風情を再現している。


 横にはパネリストとして、近隣の大学の先生や教育委員会などの発掘メンバーなども登壇していて、専門家の立場から芸術や学問にいそしむ大人たちに歴史の楽しさを教えている。


 そんな中の裏方もいる。舞台袖でお披露目が終わって、戻って来たモデルさんたちを世話する人々だ。そのまま控え室に戻れば、十二単で姫君に扮した地元のタレントさんも重いエクステンションと押しつぶされそうな平安の重ね着をようやく脱ぐことができる。秋の柔らかな日差しの日だというのに、モデルさんたちは汗でびっしょりである。水分補給のためにペットボトルの水やお茶が欠かせない。


 スタイリストさんの両手の中で、モデルさんの頭上から外された光り輝く装飾品を優しく眺めるひとりのスタッフ。年輩女性だ。白髪を染めもせずに、その姿からは臆面無く初老の風貌を甘受し、受け入れる気概が見て取れる。彼女の身につけるこげ茶色系の独特な女性用のスーツと、当世よりひと世代前の首に巻くスカーフの柄もまた、凛としたお堅い雰囲気に拍車をかける。流行廃はやりすたりに左右されない堅実な職業の人間だったことが窺える。


「お前さんは今日も大事なイベントで綺麗に輝いてくれたね」

 会場でその女性は、十二単を着たモデルさんの頭から外された金釵子きんさいしを受け取ると、丁寧に桐箱のケースに入れながら撫でる仕草で言い聞かせる。まるでものに魂が宿っているような接し方である。


 金釵子は平安時代の高貴な女性やそれ以降の公家社会の公式行事の際に貴族女性が髪留めとして使っていたもの。わかりやすい例えとしては、雛人形の女雛めびなの頭の中央に冠のようにして髪を留めている、今日で言うバレッタのような形状したものである。デザインは多種様々なので一概には言い切ることが出来ない。平安時代はわりと女性は髪を装飾したり、留めたりせずに、長い黒髪の地毛自慢する傾向にあったので、装飾品を頭につけることは公の場所以外では求められていなかったようだ。勿論庶民にいたっては布を頭にかぶるような時代なので言うまでもない。


 その金釵子に語りかける女性は、そっと桐箱の蓋を閉める。閉める手前で、金釵子は窓からの光線の加減からなのか、返事をするようにきらりと光を反射した。まるで「ありがとう」と返事をしているようだった。


 彼女の名前は山村愛珠やまむらあいす元神職もとしんしょくで、ご老体ながら現在は日本の伝統文化をコーディネートする仕事をしている。彼女はその桐箱を、更に大きな厚紙のケースにしまい、それを丁寧に白とも銀とも見えるシルク製の小さなサイズの風呂敷で包み、上蓋の中央でぎゅっと結び目を作って縛った。もともとは彼女の私物ではあるが、公の保管場所を借りる必要がある一品である。


「さて、この金釵子さんをそろそろ熱田の博物館から自宅近くの一宮さんの蔵にお移しないとね。もう許可は下りているから」

 そう一人呟くと彼女は、学芸員さんやイベンターのスタッフの人々に頭を下げて、遠慮がちにイベント会場の通用口から駐車場に向かって歩き始めた。


 表に出てからすぐのこと彼女の隣には人影がついて回る。その風貌、体格から女性のようだ。まるであやかしの類いのようにスッと沸いて出た。

 その影は人の目にも見える姿となる。巫女舞で使うかね製の冠の類い、八重桜の花を掲げた前天冠まえてんがんを頭上にまとい、舞の衣装である千早ちはやを巫女装束の上から羽織った美しい女性だ。千早には、すかしのように「五七の桐竹紋」がうっすらと見える。熱田神宮の神紋である。


 彼女は愛珠に並ぶように歩いている。衣装だけで見れば、まるで神事の巫女そのものである。彼女はどうやら釵子の持ち主の女性にしか見えていないようで、すれ違う人間は、誰もその巫女姿の彼女を気に留めない。

「なんだ、出てきてしまったのですか?」

「はい」

「愛珠さんにお姿を見せられる場所に折角いるのに、お話が出来ないのは寂しいし、残念ですから」

 律儀な性格の精霊である。


「そうね。今日から鈴鹿が原に二人とも引っ越しだからね。なかなか出てこられなくなるわね。ミヤさんがそういうのなら、途中までお話ししていきましょう。熱田御師を退いてから、ますますあなたと会う機会が減ってしまったしね。ちょうど良いイベントだったね」と愛珠は笑っていた。


 舞姿の衣装の女性はミヤと呼ばれている。そう、あの釵子は既に百年以上を経過しているので、魂の宿った付喪神つくもがみとなって、人間と会話が出来るようになっていたのだ。ただし彼女は持ち主にだけ、それも生まれ故郷である熱田付近でだけ、姿を見せることが出来る付喪神だった。


「なんか最近お疲れ気味ですね」

「わかるかい?」

「お歳のせいだけじゃ無い気がします」


「そうなんだ。例の明治初期のタイムゲートの修復を終えてから、どうも調子が良くない。一緒に仕事した連中も同じらしいよ。榛谷御厨はんがやみくりやの三井も私と同じ事を言っていた。変な疲れがたまに出る。なにかあるのだろうか? でも南伊勢の朱藤あかふじ神戸鎌田かんべかまた春華はるかちゃんは何ともないからなあ。まあ、彼女たちはまだ私より若いから、こんなお局とは違うか」と肩をとんとんと叩く仕草をする。


 車の助手席にミヤが乗ると、エンジンをかけながら、

「まあ、たまたまなのだろう」と苦笑いをする愛珠だった。

「大事にして下さいね。お体」とミヤが言う。

「ありがとう」



 車は熱田駅近くのお役所の駐車場を離れ、大津通を神宮前方面に向かって走る。左には名鉄の神宮前駅、右手には熱田神宮を見ながら車は快調に走っている。

 やがて熱田から離れるほどにミヤの声に途切れや雑音が多くなる。彼女の姿自体も薄くなり始める。


 大津通から国道一号線を右折すると、道なりに行けば四日市方面だ。三重県に出る一番わかりやすい道である。二人はたわいも無い会話をしていたが、やがて荒子川の橋を過ぎた辺りで、自然とミヤは姿が消えてしまった。


「そうか、この辺りまでで霊威は届かなくなるんだな。また熱田に来たときにお話ししようね。釵子の付喪神、ミヤちゃん」

 彼女はそう言って、かつての東海道の脇往還である佐屋さや街道に近いルートの国道二十三号線に沿って車を走らせていた。




名古屋・熱田あつた-現在

「美味しかった。ごちそうさま。満月の日に満腹。なんて良い日なんでしょう!」

 満面の笑みを浮かべて、暖簾を潜り、木の引き戸を閉める朱藤富久あかふじふく。本作の主人公ヒロインである。二十二歳を越えて、

マンガのように、頭には大きなリボン。キュロットに合わせて、エンジと黄色の格子柄のチュニックのような貫頭衣といったラフでカジュアルな服装だ。だが端から見ればちょっとイタい気もしない感性豊かな女性である。


「それはなによりで良かったね。お月見までにはまだ時間があるね」

 言葉とは裏腹に、オケラ同然となった自分の財布を寂しそうに眺めながらバッグにしまう神代持彦しんだいもちひこ。本日のお月見のために熱田名物のきよめ餅とお団子をはるばる名古屋まで買いに来た二人。夜のお月見のお供に食べるスイーツを買うだけと思っていたのに、お昼時の富久の空腹が思いがけない出費を生んだ。


 持彦は彼女の遠縁の幼なじみにして、恋人もどきの少々惚けた美形男子である。綿パンに長袖のTシャツ。髪は洗い立てにデップでかためた当世の若者風貌。

 ここ熱田の森の参道にはひつまぶしの有名店がある。名古屋名物の中でも人気の高い名店だ。なんちゃって学生、つまりはフリーターの持彦には少々敷居の高い店である。それを太っ腹にも、数週間前の彼女の誕生日のお祝いとして、幼なじみの富久にごちそうしたのだ。遠慮を知らない富久は、一番安いお重を食べる持彦の横で、最高級品を口にしていた。弦楽器リベアの工房に勤め、そこで稼いだ一日のバイト代がウナギに化けたかたちだ。


「近いうちに、私が中華麺の手料理ごちそうするね」とウインクする富久。

 ジト目で信用しがたい表情の持彦は、「ひょっとして熱湯三分のやつかな?」と眉を曇らす。長いつきあいの彼はお見通しだ。

「うん! よく分かったね。美味しいよ」と臆することもなく言い放つ富久。


「あれって、手料理なの?」

 バグる寸前の持彦はぼそっと呟く。


 二人が歩く熱田参道。熱田神宮は、JR東海の熱田駅でも最寄り駅とされているが、名鉄神宮前駅での下車が便利だ。この駅を使えば、駅前のバスターミナルを兼ねた広場と大津通という大通りを渡ると直ぐ前に境内が広がっている。


だが本来の参道は富久たちのいる美濃路という通りである。旧東海道からの分岐した道である。神宮と反対方向に、まっすぐ行けば旧東海道と合流する道となる。

 要は地図上で言えば、神宮前駅から、地元では名駅めいえきと言われる名古屋駅とは逆の方に名鉄線に並んで、神宮の垣根を右に見ながら大通り、大津通を歩き、大きな交差点を右折した辺り、それが彼らの現在地だ。


「つぎ、コメヤ珈琲のクロノすワールがいいな」と富久。

「まだ食べるの? しかもウナギの次にアイスクリームは食べ合わせの面でどうかな? おなかの健康のためにも、少し時間をおこうよ」

 あきれ顔の持彦は、富久の食欲を諫めた。


「分かった。まあ、いいわ。折角だし、熱田神宮をお参りしましょう」

 これには持彦も賛同して、

「うん、それがいいね」と頷く。漸く分かってくれたか、と胸をなで下ろす持彦だった。

 そこに狙いすましたように、

「境内で和菓子も食べられるしね」と余計な一言が富久の口から追加された。

 富久のその言葉に、『全然分かってない。その和菓子をお土産で買いに来て、お月見で今晩食べるという計画なんだけど!』と、彼の心は大撃沈。しかめっ面で半べその持彦だった。



熱田神宮の境内

 縦長に境内を縦断するように、二人はまっすぐ歩いて行く。緑豊かな境内だ。


まもなくのこと、毎年秋には、この神社と伊勢神宮の間を、大学生たちが駅伝で襷を繋ぐ。中京地区の人たちにとっては大きなスポーツ大会の舞台のひとつでもある。俗に言われる、出雲、箱根と並ぶ三大駅伝のひとつだ。


 草薙くさなぎの剣がご神体ともいわれる熱田神宮。そして天照大神や日本武尊命などが祀られる古社である。歴史的には皇室は勿論、弘法大師、源頼朝や織田信長とも縁が深い。宝物殿を右手に、左には大楠を見て、さらに茅葺き屋根の西舞殿と立派な鉄筋コンクリートの会館が見えれば、正面には伊勢神宮と似た作りのご本殿である。蓬莱ほうらいの地という別称に値する風格も納得だ。


 お参りを終えた二人は、駅前に続く左手にコースを取る。丁度その時だった。この物語ではすっかりお馴染みとなった、時間が止まる気配を感じた。


 富久と持彦はすぐにモノクロームに色あせ、時間の止まった景色を目の当たりにする。さすがに何度か経験しているので、二人ともそれほど大騒ぎはしないが、何度経験しても不安にはなるものだ。

 本殿の方を振り返れば、お参り中のおじいちゃんも、すぐ脇のベンチでお団子を食べている女児も、みんなビデオ画像の静止画のように止まっている。流れる水は、サランラップのように波打って凹凸のまま止まっている。まるで模型のジオラマ風景だ。


「ちょっと誰よ、時間止めたの」

 遙か熱田神宮会館のほうで女性の大きな声がする。非日常にありながら、完全に日常モードで今の状況に決して臆することの無い声だ。ある意味頼もしい。勿論、依然として、その向こうにある駅前の車道、交通も全て止まった無音常態である。軽やかな足音とともに、誰かが富久たちの方に近づいてきた。


「私じゃありません」

 相手も分からないその声に返事をする富久。どのみち、この止まった時間の中にいるのは暦人だけである。


「あ、その声、聞き覚えあるぞ」と声の主。

「ええっ?」

 知り合いなどいないであろうこの場所で、そんな台詞に驚く富久。やがて人影がこっちに近づいてきた。

 と、見覚えのある顔に遭遇。会館前のロータリー近くで、声をかけてきたのはあちらだ。

「こら、朱藤富久! お前、こんな時間の狭間で何やってんだ。しかも頭に馬鹿みたいな大きなリボンして」


 先に正体の確認したのは先方だ。薄紫色のややカジュアルな、パーティードレスに身を包んだ、二十代半ばの女性が名指しで声をかける。


「晴海先輩!」

 驚いたことに、富久の大学時代の上級生である阿久晴海あぐはるみがフォーマルに身を包んで駆け寄ってきた。入学したての時のキャンパス案内役だった四年の上級生、阿久晴海である。時間の狭間のなかで、移動してこちらにすたすたと歩いてくる。出会い頭に『馬鹿みたいな』と言われて少しへこむ富久。


「あんた暦人なの?」

 遠慮も前置きも無く、晴海はいつもの直球ストレートで質問をぶつける。『久しぶり……』なんて、挨拶代わり、社交辞令、そんなお決まりの筈の一言も彼女には通じない。

「あ、はい。最近知ったんですけど」

 呆気にとられて、反応する富久。


 モデル稼業が板につき、折角その綺麗なファッションセンスは決まっているのに、毒づいた言葉と性格。そんな残念な性格の晴海がかまわず続ける。

「いつの間になったのよ。親戚の結婚式が終わって、二次会に流れるって時に大変なことになったわ。あんたじゃ無いのね。この時止ときどまりの原因は」といて言葉を発する。

「はい」

 訳も分からず巻き込まれたことは間違いないため肯定する富久。

「あんたも巻き込まれ組か……」

 納得するとすぐに晴海は視点を隣に移して、

「誰? この見かけ倒しそうな男」とまたもや歯に衣着せぬ言動で訊く。次から次へと出る悪態。失礼極まりない性格である。喧嘩売っているのかと言われても仕方の無い振る舞いだ。まあ、晴海らしいと言えばらしいのだが……。


 ところがこれに威圧された持彦は、へらへらとひきつった笑顔を浮かべながら自己紹介を始めた。メンタル面で先に負けたのである。彼から見たら、今の晴海は、ただのおっかないお姉さんである。おまけに後ずさりの姿勢、及び腰のままで名刺まで出している。

「神代持彦といいます」

 すると、「あんたのことも名前だけは知っているわ。しかも工房の名前も」とからからと笑いながら晴海が言う。こういうときは男前な振る舞いである。

「ええ、なんで!」

 富久と持彦は、彼と初対面の晴海がどこで知ったのかと不思議そうだ。


「私、趣味でバイオリン弾くのよ。以前に、愛器をリペアに出した検査証にあんたの名前が書いてあった。ハンドメイドのリペア工房にお願いって、近くの楽器店に言ったら、伊勢まで運ばれたんで焦ったわ」


「なるほど」と持彦。

 良く覚えていたものである。彼の方は、いちいちお客の名前など覚えていないが、相手には自分の検査証が行くのだから覚えていて当然、そう納得した。


「さて、この、時を止めている張本人のあぶり出しよ」

 さすがに慣れた段取り。このテンポの良さと、自分勝手な進行と、独自の状況判断に、釈然としない思いの富久はストップをかけた。

「ちょっと待って下さい。なんで晴海先輩が暦人なんですか?」


 すると本当に面倒くさそうに晴海は、

「えっ? そこからなの……。私この業界では意外と有名人なんだけど」と肩を落とす。


 その落胆の原因は、素人同然の質問をしてきた、と言うことは、富久が間違いなく足手まといになると感じたからである。

「私は暦人ではあるが、神社のゲートは使わないタイプなのよ」

「ん?」

 人差し指を加えたまま、ドングリ眼で富久は思考停止状態に入った。


「あんた、カレンダーガールを知らないの?」

「ヒットソングですか?」

 漫才なら『なんでやねん!』と間違いなくドつかれそうな程の、立派で見事なボケである。


「誰が止まった時間のこの状況で、能天気にアメリカン・ポップスの話してんのよ。カタカナ語なのよ。和訳すれば、分かるでしょう」

「カレンダーガール……こよみのおんな、暦女れきじょですか……」

「そうよ。教会を使う暦人って事ね。しかも未婚女性のみの特権でね」

「まあ、通常、世の中では歴女れきじょって歴史好きな女性のことなんだけど……。この暦人のルールでは、そんな役割もあるんですか?」

 驚く富久は、またまた想像以上の世界観に目まいを感じていた。


 富久と晴海が、ふと横を向くと、二人の女性が地面を丁寧に凝視しながら、何かを探し回っている。十メートルほど先の門扉の際、神社と大通りの境目辺りだ。


「あの人たちも動いているわ」と富久。

「本当ね。あの子たちが原因かしら?」

 そう言うと晴海はすたすたと、いつものように、彼女らしく、お構いなしにその二人の女性に声をかけた。

「ねえ、ちょっとあんたたち! この止まった時間はあんたたちの仕業なの?」


 二人は顔を見合わせると、驚いて立ち止まった。一人はチェック模様の薄いブルーのワンピース、もう一人は晴海と似たシンプルな銀色、いやシルクホワイトにも見えるパーティドレスを着ている。ハーフ丈ではあるが、色合いだけ見れば、ルノアールが好んで描いていた真珠色時代のシルクのドレスのようだ。


「ごめんなさい。私たち以外の人も止めちゃったのね」

 その素直な口ぶりからすれば、それほど悪い人間でもないようだ。むしろ訊ねた側の晴海の方がよっぽど厄介者っぽい。

「あたしは阿久晴海。横浜のカレンダーガールなの。でも出身はこっち、松阪」


 その言葉に体を起こした一人が、

「私は海束弥栄かいそくみえといいます。ちょっと変わっていて、御厨ではなく、椿一宮っていう神社付きの暦人です」

「椿一宮って、鈴鹿が原市の大きな神社?」

「はい。普段はそこでお手伝いをしています」

「まあ、有り難いことで」

 そう言った後、シルクドレスのもう一人もしゃがみ込んでいた膝を伸ばして、立ち上がると、

「私は島菜実しまなみ。弥栄の幼なじみで名古屋の主悦しゅえつ教会のカレンダーガールをやっています」と自己紹介した。


「へえ、久しぶりにカレンダーガールに会ったわ。ところで二人して何しているの?」

金釵子きんさいしを探しています」

「それって何ですか?」と富久。

 横で持彦が、

「十二単なんかで女性が頭の中央につけている冠兼髪留めでしょう」と教える。

「そんな古風なものを」

「落とし物なのね」と晴海。

「ええ、割と小型な部類なので……」

「私はその捜し物をしている弥栄と、今し方ばったり出会ったので、一緒に探してあげています」


 どうやら島菜実は通りすがりに偶然知人の弥栄と出くわしたようだ。

「その落とし物と時間を止めたことは関係しているのかな?」

「分からないんです。ただ釵子さいしが消えるときは決まって、名古屋に来たときで……。今日みたいに時間が止まるんです。そして今日もそうなんですけど、その時に限って、何回かは、ばったりと昔なじみの知り合いに会うことも多いんですよね」

「ふーん。度々あることなのね」

 晴海は、常態化しているその事件に少しだけ興味を持った。

 その昔なじみの友人である島菜実も、その横で何度も縦に首を動かしてもっともらしく頷いている。

 そんな中、持彦だけが、弥栄の名前をどこかで聞き覚えがあることにジレンマを感じている。遙か記憶の彼方、かすかなその響きを、彼はこの時は思い出せず、その記憶を取り戻すことを諦めた。


 晴海の言葉の後に、満を持するようにもうひとり動いている人物が現れた。建物の影から黄緑の膝丈のスカートに、ツーピースとなるニットを着込んだ角川栄華かどかわえいかが顔を出した。現役のピアニストにして、横浜の桜ヶ丘の暦人御師だ。いつになく格好いい登場である。彼女に限っては、こういう機会はあまりない。


「もう、島菜実さん、お上手ね」と笑う。

「あ、栄華さん。そうか、今日の披露宴の二次会でピアノ弾いて下さるんですよね」と晴海。


 富久は憧れの栄華の突然の登場で、舞い上がってのぼせている。鼻血を出していないのが不思議なくらいだ。

「お上手って、どういうことですか?」

 栄華の言う『お上手』が気がかりな持彦は渋い顔で彼女本人に訊ねる。


 栄華は緩いたて巻きカールがかかったブラウンの髪を後ろに払いながら、

「本当の島菜実さんって、今日の披露宴二次会で使う演目の譜面を、私に貸してくれるから、いま近くの職場まで取りに行ってくれているのよ。この場にいるはず無いわ。私の知人だもの」

「ええ?」


 全員が驚く中で、シルクの女性がほくそ笑む。

「さすが、元飯倉殿ですね。桜ヶ丘殿」と頷く菜実。

「さて、あなたは誰でしょう? 隠すのであれば、私が当ててみましょうか? 付喪神さん」

 優しく微笑む栄華。こんな格好いい栄華を拝めるのは本当に希である。旦那さんの夏見に見せてあげたいものだ。


「済みません。騙すつもりは毛頭無かったんです。のっぴきならない事情があり、時間を止めました」


 全く状況をつかめていない富久と晴海は、

「結局、島菜実さんは誰なの?」とか、「どうして時間は止まったの?」と口々にする。


「さる事情にて、薬膳院やくぜんいん御園みそのに行くために時間を止めました」と付喪神。彼女はくるりと回って姿を変えた。


 彼女の本当の姿は舞の際に羽織る上着、まばゆいばかりの金箔をちりばめた千早ちはやを、一般的な巫女装束である白衣びゃくいの上から纏い、朱色の行灯袴あんどんばかま姿をしている。そして頭には舞楽でお馴染みの前天冠まえてんがんを被り、その天冠の両端は八重桜が飾られている。そう、冒頭で山村愛珠と一緒に登場した時と同じ格好である。


ちなみに五月に行われる熱田神宮の舞楽は有名である。

 弥栄は、

「ええ? あなた、菜実じゃないの?」と驚く。



 弥栄の知人に化けていたことに悪気を覚え、付喪神は少々済まなそうに、うつむき加減で話を始める。


「済みません、弥栄さん。いつもあなたの記憶の中にある人物のお姿をお借りしておりました。私は釵子の付喪神でミヤと言います。実はここ熱田の生まれで、この土地が蓬莱ほうらいと呼ばれていた頃に、ここの御宮御用達おんみやごようたしの鍛冶職人によって作られました。九十九年の時を経て魂を頂くと、熱田の土地の神さまと時神さまの間で御用聞きを賜る特別なお役目を頂きました。でもここ最近、いつの頃からか、椿一宮に住まいを移し、そのお宮の蔵の中でひっそりと過ごしています」


 腕組みをして興味深く聴き入る持彦、首を傾げて半信半疑の富久。当の弥栄は呆然として放心状態。その姿は三者三様である。


「その後平成、令和になって、弥栄さんが椿一宮のお蔵番になってから、修理などで私を持ち出してくれるようになりました。そこでなんとか名古屋に来たときだけ、故郷と言うことで霊威が増すこともあって、あなたの記憶の中の人物の姿をお借りしてきたのです。そして今回は、仕入れた情報をもとに、なんとか薬膳院の御園に行く機会をうかがっていました。ここ熱田にはその入口があると聞くからです」


 その言葉に栄華は、「『時守の里』のお庭にある本草薬草園ほんぞうやくそうえんの事ですね」と頷く。

「ご存じでしたか。やはりもと飯倉殿は格段お目が高い暦人御師なのですね」


 栄華は数少ないお褒めの言葉に舞い上がりそうになったが、ここは押さえて彼女の言い分に再び耳を傾けた。


「私が人の姿をしているときは、釵子は消えます。体を二つは持てないようです。他の付喪神は分かりませんが、私の場合、今のように人の形で現れているときは、本来の体、釵子は無くなってしまうのです。それで毎回、弥栄さんは探し始める。そして知人が横に現れるというからくりになっています」


「なるほど」と頷き、合点のいった弥栄。

「そして探している間に、知り合いの付喪神が境内に沢山いるので、情報収集しておりました」

「薬膳院の?」と弥栄。

「はい」


「それで何故そんな薬草園に行きたいの?」と富久。いきなりストレート、直球勝負で訊ねる。それでも晴海よりはやわらかい物腰だ。


「『刻越病こくえつのやまい』というのをご存じですか?」


 首を横に振る弥栄、富久、持彦だが、晴海と栄華は声を揃えて、「タイムゲートによる時差ぼけ」と答えた。

 その言葉にありがたさをにじませるミヤ。

「はい。その通りです。それを繰り返すと偏頭痛による疾患へと発展します。暦人御師に多い病気です」


「保土ケ谷で以前に聞いたけど、数年前他界されたみずほのお父さんがそれの重症なやつだったらしいわ」と晴海。

「ああ、榛谷のみずほちゃんのお父さんね」と頷く栄華。

 晴海の言葉に、眉を曇らせるミヤ。

「それって、まさか榛谷御厨はんがやみくりやの三井さんのことですか……」

「うん」

 晴海の言葉に、肩を落としながら、

「そうですか……。間に合いませんでしたね」と俯くミヤ。そして「急がないとあと二人も大変なことに」と加えた。

「どういうこと?」と晴海。


「今から十年以上前、やらなくてはいけない託宣が四人の御師に珍しく文書で届きました。一人は榛谷はんがや殿、一人が神戸鎌田かんべかまた殿、そして六カ所殿です。順に神奈川県の保土ケ谷の三井、静岡県の磐田いわた谷島屋春華やじまやはるか、三重県の南伊勢の朱藤、ここに熱田宮宿あつたみやしゅくの熱田御師、つまり私のご主人様を加えた四人が明治初めの東海道の旅人を時間のひずみから守るために時越えをしました」

 固唾をのみ、聞きいる富久たち。


「その文書には、もちろん暦人特有の、いつもの謎解きが入っていましたが、無事に解読をして、明治初期の東海道に向かいました。時間のひずみ、時空穴の出来た場所で旅人が行方不明になる事件が頻繁に起きていました。巷では都市伝説のように、やれ、井戸落ち説、追いはぎ説、神隠し説、心中説といたずらに噂が立ちました。とにかく多くの旅人たちが不自然に行方不明になったのです。その時代はまだ暦人御師が今のような隠密行動になる直前の時代で、表だって伊勢御師に混じって動くことの出来る大らかな時代でした。暦の版木を彫りながら時間旅行タイムトラベルの案内をしていたということです。それが中央政府の命で隠密行動に変わってしまったために、タイムホールの管理が上手に手際よく出来なくなった空白期が生まれました。明治とは言っても、まだ鉄道のない時代です。ほとんどの旅は徒歩で行われており、江戸時代と何も変わっていない頃です。道の途中や、境内にあいた時空穴を興味本位で覗いてうっかり落ちてしまい、そのまま『時の迷い人』となって、自分の時代に帰れぬ人が続出したと言います。また郵便配達人が追いはぎや山賊、獣対策で拳銃を持ち歩いていたほど、道中が物騒な時代です。時空穴以外にも多くの危険や困難も多く、ここに選ばれた四人の暦人御師たちは死にものぐるいで現代から持って行けることを許された道具だけを使って、時空穴の補修や修復を試みたと聞きます」


「時空穴にまつわるお話にも、そんな黒歴史があったのね。御師の役割の大変な部分だわ。カレンダーガールやっていると分からない事実ね」と晴海。


「そこで託宣を受けた皆が仰せの通り、道中の時間のひずみの場所に庚申塔や不動明王の石仏、そして祠を設置することで、タイムゲートを物陰に隠し、人の立ち入りを防ぎました。もっと大きな穴は富士塚や石碑、見付け小屋設置などにしたそうです。そうして構造物の中にタイムホールを閉じ込めて穴を塞ぎ、人の出入りを不可能にしました。直接何かを設置しなくても良いタイムホールの場合は、日光穴のゲートがある場所の時は、日陰を作り、月光穴の時は『時御簾タイムゲート』自体が出来ないように常夜灯をすぐ横に設置して、その光で月光を弱めました。そうして不要なタイムゲートは人工的に消されたのです」


「それで託宣は終了したの?」と栄華。

「全て完了しました。かなり大がかりな仕事だったようです。四人でやれる仕事量とは思えないものでした。でもそのおかげでむやみやたらな時空穴は埋まり、それ以後道中で行方不明者は出なくなったようです。その数年後には鉄道も開通して、歩き旅をする人もいなくなったと言います」

「よかった」と富久。

「すごい時代があったんだね。そしてそれを現代の暦人に任せるというのもかなり大胆だ」

 持彦の言葉に、

「確かに。科学の発展した二十六世紀とかの未来の人に任せた方がもっと色々な面で好都合だったのに」と晴海もその意見に続く。

「そうだったかも知れません……」

 彼らの言葉を少し寂しげな表情で頷くミヤ。その言葉の後で彼女は、眉を曇らせながら続ける。


「困ったのは全てを終えて日常に戻ったその後でした。彼らはひとつだけ託宣の読み違いをしていたのです。それを悟ったのは私のご主人様だけ。それも随分後になってからのことでした。最後の時空穴を埋め終わった場所から、なぜか二枚の和歌のようなものが記された短冊が出てきたそうです。でも書かれていたのは頭の五文字だけ、訳が分からなかったようです。そしてその後すぐ、その短冊の意味を解読できないまま、私のご主人様と榛谷はんがや殿が突然、めまいを起こし倒れます。病のふちに身を置いたご主人様は、枕元で私に、『刻越の病』について調べていることを教えてくれました。でも熱田以外の場所では、私はただの髪飾りですから、枕元で聞くことだけしか出来ません。そのお話によれば、一日に何十回も時間を越えるというめちゃくちゃな行程をこなしたことによる因果応報だと教えてくれました。数回程度の往来なら、軽い症状で終わるのですが、百回以上の往来を何ヶ月にも渡って行った無茶は、すでにご主人様たちの体を蝕んでいたようです。付喪神や時巫女とは違い、生身の人間であるご主人様には過酷なお仕事でした。その後すぐに私は、寄贈という形で鈴鹿が原にある椿一宮の地に転居させられました。霊威の高い場所、神社の社殿の中にいた方が私にとっても幸せだというご主人様のお心遣いでした。嬉しい反面、熱田を離れて、『刻越の病』を調べられなくなったのです。私が人の姿を借りられるのは、ここ宮宿の近くにいるときだけ。少し困りました。弥栄さんにお供しながら、熱田の方へと上手く誘導させて頂いて、何度となく、記憶の中の人物のお姿をお借りして、この界隈でその病の対処法を、他の付喪神に聞いて回りました。それで漸く、『時守の里』というのが、止まった時間世界の中で暦人御師の管理下にあり、その花園で栽培されている異次元の植物に効能があると知ります。昔のカレンダーガールが明治頃に持ち込んだもので、南蛮渡来の薬効のある七色のラベンダーの花がその場所にあると突き止めたのです。カレンダーガールに一度手にしてもらえると効能が倍増すると聞きます。そしてその世界を訪ねるべく、実行したのが、今日の今日というわけでした。ご主人様のお話から実に十年近くを費やした日々です」


 そう言い終えると、数枚の短冊を彼女は袖下から取り出す。紙面には墨汁を使って、『秋の田の』と『花の色は』の毛筆文字が走らされていた。

「これが薬草園、現地に行かないと解読できないと聞いている託宣の短冊です」と半ば困惑した表情で皆の前に提示した。


「なんであたま五文字しか書いてないの? 普通は上の句下の句で分けるよね。変な札」と持彦。


「ちょっと見て! この下にある小さな数字は何?」と栄華。細部まで見落とさない入念さは夏見譲りだ。

「ほんと。なんかある」と富久。

 よく見ればそこに『秋の田に』には『1』と『花の色は」には『9』という数字が薄墨で記されている。

 持彦と弥栄は頷くと「小倉百人一首!」と声を揃えた。

「そう、カルタの歌番号だわ。確か1と9は天智天皇と小野小町、それぞれの歌の頭、これらの出だしの五文字よ」と弥栄が加える。

「良いヒントが見つかったね。今のうちに二つの歌のことは調べておこうよ」と持彦。

「そうしましょう」と弥栄。

「じゃあ、準備はOKね」と不敵な笑いを浮かべる晴海。やる気が出てきたようだ。



 すると、持彦は「うーん」と唸る。顎に手をやり、もう一つの手で頭の後ろを掻きながら、

「及ばずながら、僕はその場所、『時守の里』への入口を知っています」と言う。

「『時守の里』へ行く入口ですか?」とミヤ。

「はい」

「お願いします。私を連れて行って下さい!」

 とても真剣な眼差しのミヤ。オーラを纏って、鬼気迫るものがある。


「でもね、今聞いた昔の話で、カレンダーガールがラベンダーの花を持っただけで効能が倍増、っていうのはありえないわ。魔法使いじゃ無いんだから、話しもられすぎよ」

 不審そうな顔の晴海。長年やってきたカレンダーガールの技や習慣にそんなものはないと疑問を呈する。

「違うの?」と落胆するミヤ。

「がっかりするのはまだ早いわ」

 晴海の言葉に、「打つ手はあるのね」と弥栄。

「うん。おそらくの話しだけどね。推測は出来るの。当時のカレンダーガールが何をやったのか」

「そうなの?」と栄華。

「試してみる価値はあるね」と持彦。


「私がその場所にあるラベンダーにちょっとした細工するだけで効能が倍増するわ。きっと略儀の聖餐式をやれ、ってことね。それでこの止まった世界に託宣として、私もいざなわれたんだわ」と晴海。

 富久は晴海に「具体的にはどのようなことをするんですか?」と訊ねる。


「何、たいしたことじゃ無いわ。カレンダーガールがいつも持ち歩いているこのミニチュアのパンと葡萄酒を対象物に交わらせてから、この聖水をちょちょい、って振りかけるだけよ。そのラベンダーをちょっとしたアミュレットの類いに変えてあげるだけ」と言って、持っていた小袋からホーリー・マスと記された乾パンのようなデザインの印刷された缶とミニボトルのワインを取り出した。そして次に化粧品に使われるような小瓶を見せた。


「やっぱり、ヨーロッパからのお花だからですか?」


 富久の言葉に、

「私は言われたとおりの指示どおりに動くだけだから、その真意は図りかねるけど、確かに『時のシステム』の中ではこれをやると霊力が増すんだわ。聖水の振りまきという作業だけなら、何度かそういった経験はあるわよ」

 晴海の言葉に頷くミヤ。そして持彦の方を再び振り向くと、

「薬膳院の御厨はこの近くですか? 熱田にありますか?」と訊ねた。

 ミヤの言葉に、

「まあ、ゆっくり歩いても三十分はかかりません。ちょうど時間が止まっている世界にいるので、入口も開いているはずです」と返す持彦。その言葉に胸をなで下ろすミヤ。

「よかった。私が人の姿でいられるのは、この周辺だけなんです」

「それは問題ないと思います。でもその前に、ひとつ訊きたいことがあります。さっきのメンバーの中で六カ所村の暦人御師、朱藤って言っていたけど、それって土の御師をやっている朱藤家の人ですか?」


 場所案内の前に疑問をぶつける持彦。

「よくご存じで」

「朱藤福一郎さんですか?」

「ええ、いかにも。福一郎さんをご存じで?」

 ミヤの言葉に頷く持彦。

「勿論。そして何を隠そう、ここにいる朱藤富久の父親が、福一郎さんです。ご本人は、今も体を壊して床に伏せっています」


 ここで鈍感な富久の脳裏にも、ピンと走る物があった。

「じゃあ、お父さんの病気って、時間越えの病で、都会の空気のせいじゃなかったのね」と呟く富久。

 持彦は無言で富久に頷く。


 ミヤは嬉しそうに、

「何というご縁でしょう。時神さまのご意志を感じることが出来ます。そしてまさに不幸中の幸い。そのお花を福一郎さんにも届けるべきです」と言葉を発し、もう一つの問題の解決の糸口もつかめたことに安堵の笑みを浮かべた。


「おじさんもやっぱり暦人だったのか。じゃあ、なんで東京に住んでいたんだろう?」と持彦。

「そこが私にも、おじいちゃんにも、おかあさんにも分からないところなの。本人は頑として口を閉ざすのよ」

「でも暦人一家であることは間違いない」

「まあ、系譜です。順番に行けば、福助さんの次は、福一郎さんですから。そうなりますね」とミヤ。そして一息、大きな深呼吸をすると、

「ではご案内頂けますか? 『時守の里』への入口を」と持彦に瞳を向ける。



七里の渡し-時の鐘と『時守の里』

 大津通を徒歩でまっすぐ南下する。持彦を先頭に、富久、ミヤ、晴海、栄華、弥栄と続く。大通りに沿った歩道は相変わらず人も車も止まった状態である。郵便局を通り過ぎ、一号線を渡る。律儀なのは、いくら止まった時間の中を歩いているからと言っても、皆はちゃんと大通りの交差点では歩道橋を使うのである。これが出来るか否かが、暦人になれる素質の一つとして計られる。


 一行はそのまま新堀川にぶつかるまで歩く。あとは川沿いを右に折れれば、尾張藩家老の犬山城主が設置したとされる「時の鐘」の鐘楼しょうろうが見えてくる。今は勿論レプリカのものである。その緑地一帯が東海道五十三次の四十一番目の宿にある宮の宿、七里しちりの渡しの渡船場とせんばである。

 その昔、江戸の頃はこの船着き場の前には大海原が広がっていたのだろう。いまは対岸も埋め立てられているので、四方は陸地だ。川として残った運河のほとり、見た目は単なる川辺の船着き場がある公園である。


「渡しの渡船場が入口なの?」とミヤ。

「はい。そこの、時の鐘の鐘楼のはいくちが、時が止まっている時だけ亜空間への入口になります。通常は時の鐘の鐘撞き台に上がる階段の扉なんです」


 持彦の言葉に、

「どうしてそんなことを知っているの?」と不思議そうに首を傾げる富久。


 持彦はノビをすると、

「実は僕は神社のタイムゲートは余り知らないけど、今ここに来るとき、大通りで通ってきた集配局の宮宿みやのしゅく郵便局のタイムゲートを時々使わせてもらっているんだよ。だからこの辺の暦関係の事情はよく知っているってわけ」と伝える。

「だから私より時間移動に詳しいのか」

 納得の富久に持彦は付け加えた。

「僕のおじいちゃんは、楽器工房を開く前に、ここで楽器メンテの仕事をやりながら時空郵政の仕事をしていたんだ。だからその影響もあるね」

「時空郵政の職員か。そもそも暦人の関係者という訳ね」

 晴海もやけに詳しい彼の知識に納得した。


 持彦は慣れた手つきで、鐘楼の一階部分にある階段への扉を開ける。不思議なことに、本来の扉は閉まったままで、取っ手を引くとインターレースのような半透明の扉が開く。ここが亜空間への入口というわけだ。そして持彦は開いていない本来のドアに吸い込まれるように入っていく。後ろのみんなもそれに続いた。


 中はプリズム色の眩しい世界が広がっている。そこを通り抜けると、異次元の書庫の時と同じように、温かな日差しを感じる野原のような空間に出た。しかも入った筈の「時の鐘」の鐘楼の同じ扉から出てきた仕組みになっている。振り返れば、七里の渡しの渡船場の「時の鐘」が見える。


 目の前には三軒の古い家屋。一軒は大きな茅葺きの農家で、伝統的な日本家屋だ。線路の枕木のような木材で敷地の境界に垣根が作られている。建物は無機質な景観で、見た感じ誰も住んでいるようには思えない。その隣には木造の町屋造りである。入口の横には『本日会合なし』の札が下がっている。何かの会議を暦人たちが行うときに使っている建物だ。


「あの鐘楼の建物が亜空間と現世界の両方に跨がって立っているランドマーク的な構造物なのね」

 感慨深く栄華は出てきた扉を見つめている。

 日本家屋の向こうにはうっすら霞がかかっているが、洋館が見える。見覚えのある洋館だ。

 それを見た富久が

「あれがこの間の書庫ね」と持彦に確認する。

「そうだね。あの建物にはこちら側からは、行くことが出来ない、って前に聞いたよね。ずっと不思議に思っていたけど、先日の乙女さんとの一件で、ようやくこの亜空間の仕組みが少しだけ合点がいったよ」

 そう富久に返事をしてから、向きを変えると、

「さあ、一刻も早く刻越の病に効く薬草を探そうよ」と富久に親指をたてて田畑の方に目をやる。

 その横で「とうとう、パーティドレスで亜空間まで来ちゃったわよ」とあきらめ顔の晴海に、栄華は同情の笑みを送る。


「確か、あの門の内側が『薬膳院の御園』という本草御厨ほんぞうみくりやになります。今風に言えば、薬草園です」

 持彦が指さす方向に、木の柵が作られている。簡素な農場敷地にはいるゲートが置かれている。やはり同じような材料、古い線路の枕木に似た木で作られた柵だ。その中に百花繚乱の植物が顔をのぞかせている。

「すごい量のお花ね」


 弥栄は目を見開いて驚く。そこには本草学で有益とされる植物が案内板と一緒に植えられている。

「誰がこんな沢山の植物を植えているの? バーネット夫人もびっくりの花園だわ。しかも季節がばらばらな開花時期の植物も一緒に咲いているし、一体全体、どんな亜空間なのよ、ここは」とさらに晴海が加えた。


「選ばれた暦人御師が手分けして、ここで活動しています」と栄華。

 持彦も笑顔で頷く。

「ただ詳細を申し上げることは出来ないの。今回は時神さまの託宣があるので、特別に部外者が入れるようになっているみたいだけど、本来は選ばれた数名の暦人たちだけが、この亜空間と現世の往来が出来るわ」

 栄華の説明が済むと、

「では行きましょう。『勝手知ったるよその家』のような振る舞いで恐縮ですが、この農地に関しては、今は僕しか分かる者がいないので、出過ぎていたらご勘弁下さい」

 持彦の言葉に、

「でももっちゃんはこの『時守の里』の維持運営メンバーだから、全く関係が無いわけじゃ無いわ。それに資格もあると思うけど」と富久は肩を持つ。

「むしろ有り難いくらいね」と晴海。

 晴海は持彦に、薬草園の片隅にある東屋を見ながら訊ねる。

「あの東屋は何?」

「あれは通称『刈り穂のいおり』と呼ばれる作物を貯蔵しておく建物です。園内には四カ所あり、それぞれ春夏秋冬の名前で呼ばれています。それは『春庵はるのいおり』と言います」

「ふーん」と栄華と晴海。この手の古語関連の話しは知識も無く、ついて行けない。借りてきた猫のように、ただ聞くだけだ。そして疑問だけはぶつける。

「本草御厨の意味は?」と晴海。

「本草は、薬草を扱う作業や知識、その植物を指します。御厨はそれを神に献上するための土地や畑ですね。だから時神御用達薬草園って感じですよ」

 手際の良い持彦の説明に、再び「なるほど」と頷く晴海と栄華。


 そこでミヤはあることに気付く。それは持彦も同時だった。

 二人はさっきの札の番号を考慮すると答えが出る。同時に声を揃えて、

「小倉百人一首の最初の歌!」と言う。そしてミヤは再び、出だし句の記された短冊を取り出すと、『秋の田の 仮庵かりほいほとまをあらみ わが衣手ころもでは 露にぬれつつ』と歌う。


「天智天皇の農民歌だ。近江神宮さんが大事にしている歌だよね」と調べたメモを読み上げた持彦。

「そうです。これが何かのヒントかも?」

「この場所の庵には秋庵あきのいおりもありますね。苫って、枯れ草の束ってことだしね。まとめた束がありますか?」とミヤ。

「はい。この奥にあります」と持彦。


 しかめっ面の晴海。

「なに自分たちだけで完結しないで、私たちにも教えなさいよ」

「そうよそうよ」と、とりあえず晴海に便乗する富久。まるで分かっていないが、言うだけ言ってみるという野次馬根性だ。


 畦道を歩きながら説明を始める持彦。


「ミヤさんの持っていた短冊には『秋の田の』という出だしの句があったでしょう。『仮穂』は『刈り穂』でもあるので、摘み取った花房が秋の庵にあるよ、と言うメッセージにも読み取れる。もしかしたら七色のラベンダーの花房がその庵の中にあるのかも、って思ったんだよ」

「なるほど」と富久。


 たどり着いた一行は、簡素な作りの庵の中を覗く。手前には青草のまま摘んで使う薬草も置いてあるが、その奥に藁や稲穂のように束ねた枯れ草がある使い方も様々だ。枯れ草色の植物の束は無造作に積んである。

「どれがラベンダー? 見分けが付かない」

「ラベンダーは小さな花の集合体、花房を作る藤や菜の花、ルピナスのように咲いているからそれを探せば……」と言いかけた持彦に、気むずかしい顔で晴海は、吟味した後ひとつの結論にたどり着いた。


「有り難いことに、ここに束ねてある枯れ草は全部それだわ。ラベンダーよ。でもどれを取れば良いのよ。迷うわね」とお手上げのポーズで晴海は立ち止まる。



「もうひとつの短冊は?」と弥栄。

「これも有名な歌で小野小町おののこまちのものだ」と持彦。


『花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』


 今回もミヤが歌を詠む。


「まあおおざっぱに訳しちゃうと、長雨のせいで、さくらの花は色が変わって、誰も相手にしてくれなくなったよ、って女性の心境を歌っていると言われるよね」と持彦。

「あら、若さ以外にも女性の美しさはあるわよ」と栄華。


「現代社会ではもちろんです。でもこの当時は二十歳で行き遅れの時代、人生は五十年以下の時代ですから」と別世界の出来事であることと念を押す。こんな忙しいときに古典文学作品相手に問答して、ムキになられても困る。


 しばらく顎を摘まんでいた弥栄が、

「その軒先近くで半生はんなまで束ねたものがいいわ。長雨で変色したという和歌の心情を加味すると適当な物は乾燥した物の一歩手前の雨ざらしの色変わりした物かも? つまり色の変わった花を、過ぎた時間を嘆いて伏せる病気の『刻越病こくえつのやまい』のために使いなさい、ってことよ」と推測する。

「要は『ふる』って掛詞がスパイスで、軒先にある物は見る限り状態としても、長い時間放置されて、置き去りに伏せっていることを『ふる』、天候の雨や雪『ふる』が鍵言葉で、僕らの目的でもある『刻越病』処置に当てはめても意味が通る、ってことだ」と持彦。


「はい」


 静かに頷く弥栄に対して、お手上げの栄華と晴海は、小首を傾げながら、二人についていくことにした。顔を見合わせて『なんのことだかさっぱり』という顔だ。

「さすが」と富久は持彦たちの推理に感心する。


「こっちの束には英吉利イギリス、こっちの束には仏蘭西フランスと札がかけてあるわ」


 富久の言葉に、

「じゃあ、ひと束ずつ持って帰ろうよ。きっとフレンチラベンダーとイングリッシュラベンダーのことだね」と持彦。

「賛成だわ。詳しいことは、自分たちの世界、時間の流れに戻ってから考えましょう」

 冷静に栄華も納得した。


「じゃあ、やっちゃいますか」

 そう言って晴海は真剣な面持ちになると、自分のバッグからさっきの略式な聖餐式セットを取り出す。そしてそれらをその半生で乾燥した花束の前に並べた。お決まり通りにお祈りした後で、十字を切る。最後に晴海はラベンダーの二つの束に聖水を振りかけた。


「ありがとう。晴海ちゃん」と栄華。

 弥栄もペコリと頭を下げる。

「こんなのお安いご用だって」

 晴海は笑って答えた。


「折角、亜空間の中に入れたのに、今回は時守の里の母屋には入らないの?」と富久。

「富久。お父さんの病気とどっちが大切かな?」と真面目に諭す晴海。

 富久は、はっとして、至極当然という晴海の言葉に、

「そうですよね。もっともです」と返す。

 半ば後ろ髪を引かれる思いなのは決して富久だけでは無いはずだ。でもやはり仲間である暦人を助けたい、そしてこんな思いまでしてご主人様のご恩に報いたいと思うミヤの気持ちをくんだら、時間を一刻とも無駄に出来ないのが、今の彼らである。急いで来た道、もとの鐘楼のゲートへと足を運んだ。



相南市・山崎宅

 神奈川県相南市にあるギャラリーカフェ『さきわひ』の電話が鳴る。店の固定電話だ。この物語では言わずと知れた大庭御厨おおばのみくりやの山崎夫妻の住居兼店舗である。初めてのかたに説明すると、相南市あいなみしは多摩急行江ノ島線と東海道線が交わる交通の要衝にある神奈川県湘南地方の海沿いの都市まちである。


 ジーンズにセーター姿の美瑠が大声で伝える。

「ごめんなさい。凪彦なぎひこさん、いま慶喜けいきくんのおむつ換え中なの。手が離せないわ。紙おむつとお尻ふきで手がふさがっているのよ」

 二人には待望の第一子、慶喜が誕生した。生後五ヶ月である。妻、美瑠の声に、店着の黒エプロンに綿パン姿の凪彦は小走りで店舗の電話を取る。

「もしもし、お待たせしました『さきわひ』です」と山崎。


 ぎりぎり切られずに取れたというタイミングだ。


「こんにちは、栄華です」

 電話の向こうは、熱田で託宣実行中のピアニストで桜ヶ丘御師の角川栄華。いつもの笑顔で話す山崎。

「ああ、お久しぶりです」

「ご無沙汰しています。今お店、お忙しいですか?」

「いえいえ、開店以来忙しかったこと無いのだけがこの店の自慢です」

 余りしゃれにならないジョークで、返答に困った栄華は、適当に愛想笑いをすると、

「それはなによりで? ……でいいんですか?」と逆に聞き返す。

「はい、ありがとうございます」

 いつもの挨拶と妻の先輩と言うことで、手短に配慮して、

美瑠みるさんですか?」と妻への用事と察する凪彦。

「はい。今、大丈夫ですか」

「ええっと」と言って、受話器を耳に当てたまま、店の奥へと続く通路の方に目をやると、ベビーベッドに子供を戻して、手を洗った美瑠が笑顔で頷きながら、そっと凪彦の手から受話器を受け取る。

「もしもし変わりました。美瑠です」

「ああ、もしもし美瑠ちゃん」


 独身時代と変わらない美瑠スマイルである。もっとも電話口の栄華には見えていないのだが、長年のつきあいからか、美瑠の笑顔は声の雰囲気だけで栄華に伝わった。

「栄華さん。ご無沙汰してます。先日は出産祝いありがとうございました。大事に使わせて頂いてます」

「いいえ。その辺のことは後々ゆっくりと……」という栄華の丁寧ながらも慌てた言葉に、

「お急ぎのようですね。暦関係かな?」と察する美瑠。

「ええと、そうなの。実はラベンダーの効能を上手に引き出すには、体に摂取する際には、どんな方法での飲食が良いのかを知りたくて」

 ストレートな質問だ。

「ううんと……。ラベンダーはハーブの一種なので、一般には紅茶に乾燥した花びらを混ぜたり浮かべたりするラベンダーティが良いです。他にも、ハーブは皆同じで、ビスケットやクッキー、ケーキのスポンジなど、生地に練り込んで混ぜるなど、香り付けに使います。またはジャムを作る時の香料に使うのも最適です。一般にフレンチ系が香味料に適して、イングリッシュ系が健康効能などと言われていますが、必ずしもそうでは無いという人もいますから最後はお好みですね」

「ふんふん。なるほどね。ちょうど都合良いことにどっちの種類もあるわ」

 メモを取りながら頷く栄華。

「じゃあ、ミックスしてみるのも悪くないですね」

「なるほど」


「ハーブは紅茶の他にも、ハーブそのものを茶葉に見立てて、生ハーブを揉んでほぐしたあと、ティーポットで五分程度蒸らして、甘みを出したものを飲むことも出来ます。乾燥ハーブティは、細かく手でちぎって茶こしに通すのもアリです。どちらも最後に蜂蜜や柑橘系の果汁を入れると、爽やかになって慣れていない人でも飲みやすくなります」

「さすがカフェのあるじね」と栄華。

「あはは。ありがとうございます。でも主は私のダンナサマなんですけどね」と苦笑いする美瑠。

 その言葉が届いたか否かは定かでは無いまま、

「ありがとう。助かったわ。近いうちに、慶喜君の顔を見に行くからね」

「はい。首を長くして待っていますね」

「じゃあ、またね」


 そう挨拶を終えて、栄華は電話を切った。


 美瑠は山崎の横に戻ると、

「栄華さん、今、名古屋か三重みたいね。忙しそう」と微笑んだ。

「なんで分かったの?」と凪彦。

「電話の途中で、近くのテーブルの人の注文したクロノすワールがテーブルに届いていたわ。名古屋訛の店内の会話の中で。ウエイトレスさんが注文の確認をしていた声が聞こえた。それにピラナポなんて注文していたお客さん、首都圏にはいないと思う。炭水化物プラス炭水化物は関西か中京圏の十八番おはこメニューよ」

「さすが暦人の感は、錆びていませんね。どんなことにも注意を払う。いまだ脱帽です。クロノすワールですか。するとコメヤ珈琲にいるのか。美味しそうです」と凪彦も笑った。




コメヤ珈琲熱田店

 美瑠の察したとおり、神宮前の駅からほど近い喫茶店、時計を模したアイス菓子、クロノすワールで有名なコメヤ珈琲の店内。七里の渡しの渡船場から駅前に戻ってきた一行。ゲートを出たとたんに時神の霊威が消え、待っていたかのように、時間は動き出した。

 喫茶店の玄関先で携帯電話を終えた栄華は、そのスマホを片手に握ったまま、皆のいるテーブルへと戻り座る。

 ミヤは、出会ったときと同じ、弥栄の友人である菜実の姿を借りて、再びシルク調のハーフドレス姿へと戻っていた。

「美瑠さん、なんて言ってました」と晴海。

「たぶん、色々教えてくれたけど、ハーブティが私にも出来そうなヤツだったわ。勿論、絶対富久ちゃんにもそれが良いと思う。ジャムとかクッキーとか手が込んでいるヤツは難しそう。美瑠ちゃんならお手の物なんだろうけどね」

 話しそっちのけでクロノすワールを頬張る富久。念願のデザートである。

「おい、朱藤、聞いているのか?」と先輩風をふかせる晴海。いまいち彼女の目には富久の行動に真剣みが足りないと映っているようだ。

「ふぁい?」

 口の周りをチョコレート色にした富久が不思議そうな顔で晴海を見た。全く聞いていないようだ。


 栄華はクスッと笑うと、

「まあいいわ。それより答え合わせが先。ミヤさん。あなたが助けたい人のことをまだ聞いていなかったわね。教えてくれる?」と話題を変える。自分が先頭に立っていなければならない立場なので、その間にやるべき事は終わらせたいという感じである。

 栄華の優しい眼差しがミヤの張り詰めている心をほぐした。


「私のご主人様は暦人ですが、もと神職で、若いときは舞楽ぶがくの舞人でした。舞楽って言うのは、雅楽の演奏に舞をつけて、高舞台で踊るものです。熱田でも、伊勢神宮でも四月から五月にかけての大型連休近くになると見ることが出来ます。女性なので、迦陵頻かりょうびん胡蝶こちょうなどの演目の女性舞はもちろんですが、その枠に収まらず、鉾舞えんぶという鉾を振って舞台を清める重要な舞の演目もつとめていました。また舞楽を退いてからは、プライベートで十二単の保存活動に従事していた方で、そのお手伝いを、というより伝統装飾品としてその価値を認めてもらい、いつも私を使って頂きました。とても大切にしていただいたんですよ。もちろん十二単には釵子は付きものということもありますが……」とミヤが言った途中で、ハッと気付いたのが弥栄だ。


「ひょっとしてあなたのご主人て、椿一宮におつとめだった、山村愛珠やまむらあいすさんですか?」

 ミヤは静かに頷いて、「はい」と言った。

「私の職場の大先輩。もう八十を過ぎておられるはず。結構なお歳だわ」と弥栄。続けて、「床に伏せっているとは、聞いていましたが、まさか刻越の病だとは……」と言う。

「多方面で活躍していて、素敵なご老体ね」と栄華。ストローに口をつけて、アイスティーを含む。

「でもどうして、付喪神のあなたがご主人様の病状を考えていたの?」

 弥栄は色々なことが気になる中で、付喪神と持ち主の関係性に興味を持った。


「愛珠様は、人への慈しみを沢山の出会いを通して、行ってきました。身寄りも少ない彼女は、気丈に振る舞いながら他人に心配をかけまいと、無理をしました。あの一連の時空穴の事件の時も、実は他人の心配などしている状況では無かったんです。でも体調を崩しながらも、残りのおつとめを全て果たし終えました。そのおかげで無理が祟ったのです。既に最近は、毎日が寝たりおきたりの繰り返しで、僅かながらの収入で、やりくりをしています。あんなに人々のために陰で働いておきながら、誰も彼女の体調を気にするものなどほとんどおりませんでした。また気にする人も若干、数名おられましたが、人一倍弱みを見せない気持ちが強い愛珠様は結局、全てを自分ひとりで抱え込んでしまい、ついに先週から起きられなくなっています。時間が無くなってきています。暦人として世のために尽くしてきた人の末路がこれでは世知辛いで済まされません。私は蔵のなかで、時神さまがお通りになるときだけ、お話をしました。すると、先月のこと、ひとすじの光を与えると言って下さったのです。その翌日に熱田から移動して海束弥栄さんが当社にお見えになりました。時神さまの言うとおり、弥栄さんは備品係、蔵の係となりました。そして連絡係も兼ねていたので、熱田に出向くことも多く、私も勝手にこっそりと弥栄さんの鞄の中に忍び込むことも何回かありました。熱田のご神域にさえ入れれば、私はひとりで自由に動き回れます。そして今回、漸く薬膳院の御厨を知る皆さんとお知り合いになれたというわけです。だから時を止めたのは私と言うより、愛珠様のお体を気遣った時神さまの恩恵、お慈悲と考えてもらったほうが良いです。単なる付喪神の私に、皆さんを集めるというような、そこまでの霊力はありません。皆さんを巻き込んで済みませんでした。おかげであと少しとなりました。本当にありがとう。どうしてもご主人様を救いたかった……」


 この長い台詞の後半で既にミヤの瞳には潤むものが溢れていた。そして彼女の両手、軽く窄んでいたはずの握り拳は無意識に力がこもっていた。

「そこまでしてでも、持ち主を救いたかったのね。随分と大切にされていたんでしょうね、愛珠さんに」と栄華。あふれ出る彼女の涙に応える言葉を投げた。

「それはもう。愛珠さんは十二単の普及イベントなどに行くときは、私を丁寧に磨いてくれて、いつもピカピカな状態で観客の前に出してくれました。イベントの後は何時間もかけてまた磨いてくれたんですよ。いつも気持ちよい状態で蔵に戻れるんです。そして今日もありがとうと言って、桐箱のベッドに私を納めると、またね、と友達のように優しく挨拶してくれました。そんな優しい心の持ち主がピンチの時に、何も出来ないのでは、付喪神たるミヤの思いが晴れません」


「律儀ね」と栄華。


「でも弥栄さんに蔵の番が変わってから頻繁に熱田に来てくれたので、調べ物も出来たし、宮の宿周辺の知り合いの付喪神にいろいろと訊くことも出来ました。おかげで今回は皆さんのような心強い暦人さんたちからも協力を得られましたから」

「本当に優しいのね」と栄華。なにかくすぐったいような気持ちに駆られている自分がいた。もしかしたら自分を愛してくれるグランドピアノの付喪神たちも、愛情を持って接してあげると、親友や親子のように強い絆で結ばれるではないかと感じていた。道具は仲良くなるほど、自分に馴染んでくれるというのは各方面で聞くことだ。そのからくりを見せられた思いだった。



「暦人のお友達の付喪神、って、陰陽師の式神みたいね」

 弥栄の言葉に晴海は、

「でも式神は仰せを守ることに徹するけど、私が見た限りでは、付喪神は家族のように持ち主を大事にしてくれるわ」と喫茶店の前で返す。

「それは持ち主がちゃんと愛情を注いでいたからでしょう。持ち主の愛情あっての絆のようにも見えたけど」

 栄華は今回の例が全てに当てはまるものでは無いことも付け加えた。

「確かに」と持彦。

「そうね。ものにも感謝をしないといけないわよね。ついつい乱暴に扱ったり、無理な使い方を強要するって良くないものね」

「特に僕の場合はPCとかスマホかな? 待っていられない短気な性分で、指示した命令が遅いと何度もクリックやタップしちゃう」

 頭の後ろを掻きながら持彦は身に覚えのあることを述べる。誰もが一度は経験した思いのある話しだ。調度品や化粧品を粗末に扱うこともしばしばの富久にも少々耳が痛かった。

「でも今回。実は、愛珠さんがものを大切にしたことで、付喪神のミヤさんから思わぬ情報を仕入れることが出来た。そこから富久ちゃんのお父さんの具合や、その原因が昔の無謀な時間越えの代償だったってこと、さらにはその対処法にまでたどり着けて、ある意味助かったよ。まだ見ぬ大先輩の愛珠さんに感謝だ」

「うん」

 短く頷く富久の顔は満面の笑みだった。


「ストレスのための内臓障害とも言われていたし、精神的な圧迫から呼吸器疾患とも診断されていたけど、ある意味それも症状としては本当だけど、どれも本質では無い部分もある、って担当の先生もおっしゃっていて頭を抱えていらしたわ。その原因がまさかの暦関連とは想像もしなかったし、意外だった。そして明白になって本当に良かった」

 富久は自分に言い聞かせるような、噛みしめるような言葉を丁寧にゆっくりと発した。自分の話したいことを話すのではなく、人に伝えるための言葉を心がけている人間の話し方だ。二十歳過ぎの娘さんが習得するのは早い方である。


「なんか富久ちゃん、栄華さんの言葉遣いがうつってすこし上品な話し方に変わった」と持彦。

 両頬を押さえて、

「まあ、嬉しいわ。今度リストとショパンの鍵盤さばきもを覚えて、ファッションもエレガントにしなくちゃいけませんね」と栄華の口調をまねてみせる。

「私、そんなわざとらしい話し方しますか?」

 栄華の言葉にここにいた全員が「します!」と口を揃えた。


 その言葉を聞いて、そっぽを向きながら頬を赤く染め、「そうですか」と腑に落ちないような顔つきで角口を見せた。

「じゃあ、僕は夏見さんの口調を真似しようかな?」と持彦。


 すると持彦の真正面で栄華は、

「それだけはおやめになった方が良いと思います。性格を疑われます。とくに八雲さんに。粟斗さんの暦人としての仕事を真似なさるなら奨励しますけど、あの話し方は……」と奥さんならではのあるあるネタでブレーキがかけられた。そしてその言葉に皆が笑う。


 その横で持彦は柔らかな眼差しで富久を見守る。最愛の女性の身内が助かる可能性が出たのだ。


『おじさん、待っていてね』

 心中で持彦は呟いた。


 皆の話を黙って聞いていたミヤは、最後に包括する。

「皆さんのおっしゃるとおりで、全ての付喪神が皆、持ち主に親切とは限りませんよ。私は愛情をもらった分、それをお返ししたく、そしてその絆を大切にしたかったのです。それは持ち主である愛珠さんが、かけてくれた愛情に報いるため、愛情に動かされた結果です。いわば持ち主の性格がすり込まれた結果、その人格が付喪神として私にも影響したと考えて下さい。だからもしかしたら、私は会ったことありませんけど、悪い付喪神もいるかも知れませんよ」と呟く。

「暦人になれた時点で、邪悪な者はいないからおっしゃるような付喪神もいらっしゃらないと考えます」

 栄華はテーブルに頬杖ついて、にっこり笑った。


「そう考えると、大須の商店街は道具街だから付喪神が沢山いるかもね」

「じゃあ今度名古屋に来たときは、あの観音さまもお参りしようよ。電気街も、玩具街もあって確かにある種の道具街だもんね、あの辺。『古事記』の写本を持つお寺さんだし、我々暦人には馴染み深いお寺だよね」

「よし今度オーディオ買いがてら、大須を訪ねてみよう」

 持彦の言葉に、「大須は何が美味しいの?」と富久。

「ういろ」と晴海が笑う。

「ええ、是非行かないと」

「あんた、確実に男が寄り付かないタイプの女子だわ。今の隣にいる男、だましだまし大事にした方が良いわよ」と晴海。この人にだけは言われたくないという人物に言われた感もある。いつもながら、単刀直入。言葉にクッションがない。切れ味の良い刃物並みである。鋭い眼光で妙に真実みのあるアドバイスをした。

「なんでですか、ういろ欲しがったダダッ娘だから?」


 富久の問いかけに優しく穏やかな言葉で栄華が、

「そうじゃなくて、『花より団子』、つまり色気より食い気、ってことを言いたいんだわ、晴海ちゃんは」と解釈する。

「そんなことばっかりやっていると、男は色気のある女にあっという間に取られちゃう、ってことよ」

 おろおろと涙目で、持彦の服の袖を摘まんで、ぷるぷると首を横に振る富久。

「たとえ話でしょう」と持彦。話題の当の本人が宥め役に回っている。変なカップルである。


「神戸鎌田の春華ちゃん、って私、実は知り合いなの。彼女の実家は楽器店を営んでいてね、何度か店頭の屋外コンサートにお邪魔したことあるの。私より少しお姉さんでね、彼女。なので、彼女にも念のため、私が責任を持って、このラベンダーを少し回しておくわ」

 そう言ってから栄華は伝票を手にする。そして「ここは私が」と笑顔で皆にお辞儀をする。

「さあ、栄華さん、私たちは結婚式の二次会の会場に向かいましょう」と晴海。

「そうね。今回みたいに粟斗さんがいなくても何とかなることもあるのね」

 答え合わせが済むと、すぐに結婚式二次会に出席するために、栄華と晴海は神社会館の近くへ戻っていった。

 富久と持彦は弥栄について、愛珠のところまで行くことにした。愛珠と富久の父が知り合いだと判明したからだ。

 駅ビルで伊勢の和紅茶を買い、ラベンダーをしっかりと紙袋に詰め込んで四人で電車に乗る。ところが金山駅を過ぎた辺りで、ミヤは姿を消した。というよりも、元の釵子に戻って、魂ごと弥栄のバッグの中に収まってしまったのだ。

 近鉄名駅のコンコースがある地下へと潜り、三人はまずは、鈴鹿が原の愛珠の元に向かう電車を探す。今回のミヤのことも含めて、愛珠に報告をする義務もあったからだ。


鈴鹿が原市

 近鉄線の途中駅、市街地が途切れ始めた景色が始まるころに、伊勢若松という分岐駅に着く。そこから鈴鹿が原線という単線の行き止まり線が延びている。その途中駅の鈴鹿が原市駅が山村愛珠宅の最寄り駅だ。JRで来るなら河原田駅が最寄りとなる。


 駅前から官庁街とは逆の鈴鹿川の方に歩く。市街地を抜けると、古い住宅街がある。椿一宮神社はその近所にある。同じような名前の神社が山側にもあって、そちらのほうが一般的には知られている。ただ鈴鹿市民の憩いの場である当社も愛すべき古社である。ちなみに愛珠と弥栄はその少し離れた山側の神社に所属している。


 もと熱田御師、愛珠の自宅は円窓の美しい日本家屋である。生け垣に沿って歩き、木戸のある玄関に回る。庭には綺麗な秋の花、コスモスが植えられている。

 弥栄は何度かこの家を訪れているので、躊躇は無い。だが何度来ても暦人の大御所の個人宅というのは緊張するものだ。ましてや彼女はひとり暮らしのご老人である。驚かさないように丁寧な配慮も必要だ。

「ごめん下さい」

 言葉と同時に、弥栄が玄関を開けると奥から声がした。

「はい」

 その声に弥栄は、

「愛珠さん、椿一宮の海束弥栄です。付喪神のミヤさんのお遣いでここまで来ました」と家中に行き渡る声で挨拶をする。

「はい、あがって下さい」


 奥からか細い声が聞こえる。愛珠の許可にまずは弥栄が靴を揃えてから、畳敷きをあがる。奥の間に、蒲団を敷いたままで上半身起き出している愛珠をみつけた。床に降っていてても、髪を整え、寝間着の浴衣の襟元を揃えて出迎える装い、準備は万端整うといった感じに見える。白髪の毛髪に所々黒髪がすじをなす長い髪を後ろで縛っている。


「愛珠さん、そのままで良いんですよ」と労って肩に手をやる弥栄。起き上がるのを止めた形だ。

「でもお茶くらい出さないと」と言う愛珠に、

「お茶なら沢山持ってきましたから」と笑顔を返す。

「沢山?」


 不思議そうな愛珠の顔を余所に、

「先にお願いです。もう二人ほど知り合いがいるんです。暦人なんですけど、あがってもらっても良いですか? 愛珠さんもよくご存じの人の娘さんです」と外の二人の訪問の承諾を取る。

「ええ、勿論」と愛珠。そういいながらも『知り合いの娘さん』に思い当たることも無く、思案していた。

 玄関の手前、奥座敷から弥栄は二人に手招きをする。合図を読み取った二人は、行儀良く靴を揃えるとその風情のある日本家屋にお邪魔した。

 寝室の手前で二人は会釈をすると、

「初めまして、朱藤富久といいます。南伊勢の土御厨の家の娘です」と言う。


 その言葉、名字を聞いて嬉しそうに笑うと、

「それじゃ、福一郎くんの?」という言葉にすぐさま頷く富久。


 愛珠は「そう」と小さく呟き、「そちらは?」と持彦に目を向けた。

「伊勢市の楽器工房の孫で神代持彦と言います」


 すると嬉しそうに、

「神代……。ははは、あんたのおじいさんとも知り合いのようだね」とまるで懐かしさを噛みしめるように何度も頷く。


「神代家は生まれてすぐに未来に里子に出されるしきたりがあるから、あんたも大変じゃったろう。暦人の中でも異質な風習を持つ家の息子は気苦労が多い。そして遠く離れた時間の隔たりの中で二世代の家族を持つことになるお家柄だからな」


 愛珠の言葉にハッとして、持彦は自分の身の上が少し分かった気がした。だがお見舞いの場で自分の話をべらべらとするのもいかがなものかと思い、口をつぐむことにした。全ての進行役は弥栄に任せた。


 三人は蒲団の横に並んで座ると弥栄が事の顛末を話し始めた。

「実は今日、付喪神のミヤさんと時神さまの霊威、霊力が私たちを止まった時間の中へ連れて行きました」

 穏やかながらも、真剣な眼差しの愛珠。

「そこでミヤさんが持っていた『時守の里』にある薬膳院の御園を示していた短冊に書かれた言葉の解読したんです。和歌の初句のような単語の示す場所に行くとそこはラベンダーの収穫小屋でした。そこで収穫済みの虹色ラベンダーを頂いてくることが出来ました。これが刻越の病の解毒に役立つとの情報を入手したミヤさんからの贈り物です。お茶と一緒に用意しますのでお飲み下さい」


 弥栄の言葉が終わると、

「お台所をお借りして大丈夫ですか? 茶具と茶葉、器もあるので、ガスか電気ポットだけお借りできれば」と持彦。


「ええ自由に使って下さいな。ここの隣の部屋が台所です」


 持彦は立ち上がると百貨店の紙袋に入った乾燥ラベンダーと和紅茶一式を持って台所に移動した。

「ミヤはここにいるの?」

 弥栄は静かに頷くと、自分のバッグから風呂敷に包まれた桐箱を取り出した。

「まあ、嬉しい。何年ぶりかしら?」

 そっと包みを開け、箱を開ける愛珠。

 きらめく美しい光に包まれた釵子がそこには入っていた。


「ミヤ、ありがとう。あなたを初めて見つけたとき、祖父の家の倉庫の片隅で泣いていたわねえ。もう半世紀近く誰も自分に気付いてもらえないって」

 そういいながら釵子を抱きしめる愛珠。そこにはものと人間と言う以上の、固い絆で結ばれた美しい信頼関係が育まれている。そのことをそこにいる皆が悟っていた。


 やがて盆にティーカップを載せた持彦が戻ってくる。

「さあ、愛珠さん。これが特効薬のようですよ。ついでに熱田名物のきよめ餅も本日のお月見用に買ったのがあるので、お裾分けです」と枕元に盆を置いて、ソーサ-ごと渡す。


 病人らしく、ほんの僅かなひとくちをカップの縁で味わう。ほとんど唇をしめらせる程度の量だ。

「ふー、温まるわね」とため息の愛珠。ところがその数秒後、

「えっ? 頭痛が和らいだわ。そんな覿面てきめんな効果ってことあるのかしら?」


 彼女は食欲が戻ったようで、お茶をしっかりとすすることが出来た。それどころか、お茶菓子のきよめ餅にも手を出して、「懐かしい味やね」と嬉しそうにほおばった。

 彼女の回復力、それはそばにいても分かるほどの効果だった。医学的な原因ではない体調不良はやはり亜空間の薬膳が効くと言うことだ。顔色がどんどん変化していく。みるみるうちに、自然な明るい色にほおが変わるのである。ひとくち、またひとくちと飲む度に愛珠は目をぱちくりさせていた。

「うちの祖父が、昔言っていました。時越えの病は患部が自分の体内では無く、四次元から来るもなので、そことのつながりを切ってしまうとすぐ治るんだということを……。実感したわ」

 合点のいったように呟く愛珠の様子を見て、弥栄は少しだけ安心していた。


「でも聞いたことはあっても、どう痛みと体を断ち切って良いのか、その方法が分からなかったのよ。飲めちゃったわ」

 愛珠は飲み干したカップを見て、自分で驚いている。

 安心した愛珠は富久の方に顔を向けると、

「お父さんも具合が悪いと少し前に手紙を頂いたんだけど、その後お加減はどうですか?」と訊ねる。

「見た感じでは、愛珠さんと似た感じの状況です。偏頭痛なのに、症状があるだけで、数値に異常は無いんです。今伊勢市の病院にいます」

「今聴く限り私と同じだわ。勿論このお茶を持っていってあげるのよね」

「あっ。父の分は別に用意してありますので大丈夫です」

「そう。春華も若いとは言え大丈夫かしら? あと榛谷はんがやの三井も……」


 黙ってしまった富久と持彦の代わりに弥栄が説明を始める。

神戸鎌田かんべかまた殿には、薬膳院にご同行頂いたさき飯倉いいくら殿が届けて下さるそうです。ご主人のやはり前の船橋殿共々お知り合いとかで……」

「うん。あの腕白三人組の船橋殿、夏見君か」と笑う。夏見とは面識があるようだ。


「僕たち二人は、夏見さんに暦人のイロハを教わりました。そして八雲さん、乙女さん、大那さんにもいろいろと教わる事が多かったです」と持彦。


 すると愛珠は目をまん丸にして、

梁田やなだ殿、寒河さんかわ殿、そして内宮前の小宅分家か。お前さんたちは、優秀な暦人御師にばかり教えを請うてきたんだな。なかなかいないぞ」と驚いている。だが逆に東西を問わず、その暦人御師たちをしっかりと把握している愛珠の方がすごいと二人は思った。


「夏見は小さい頃何になりたかったか知っているか?」と笑う愛珠。

「ライターじゃないんですか?」と持彦。

「いいや」と茶目っ気たっぷりの愛珠はすぐに答える。

「ガッチャマン」

 その答えに一同、目が点である。


「どうした、笑わないのか?」と言う愛珠の言葉に、

「ガッチャマンってなんですか?」と富久。どうやら富久の世代には通じないマンガのヒーローだったようだ。仮に催促されて笑えと言われても、そもそも現物を知らない世代なのである。

 夏見をダシに使って笑いを取ろうと思っていた愛珠の思惑は見事に外れた。


「で、三井はどうした? まだ伏せっているのか」という愛珠の質問に、誰もが口をつぐんでしまう。様子が変と感じる愛珠。言い出すのがはばかられるとはこのことである。最初に口にする勇気がある者はここにいない。

 暫くの、その沈黙が答えになっていると、愛珠は自ずと導き出した。半信半疑の言葉だ。

「このラベンダー、間に合わなかったのか……」

「はい」

 皆は蚊の鳴くような小さな声で一斉に返事した。

「うむ……」

 思いがけない事実に、愛珠は肩を落とす。震えが背中に悲しみを描かせている。愛珠の小さな、か細い声、それはとても大きな悔しさを表していた。

「もう七年以上前のことだそうです。ミヤさんもとても残念がっていました。いえ悲しんでいました。時間も力も及ばなかった、と」

「七年以上……」

 愛珠の目尻には頬をつたう熱いものが軌跡を描いていた。幾重にもその軌跡を落ちていく涙。

「無念だったな。三井……」と独りごちる愛珠。


 その時、愛珠の寝室に誰かいる気配がした。気付いたのは愛珠と富久だった。

「その柱の横」

 その台詞とともに皆が一斉に、富久の指した場所を見つめる。

 インターレースのごとく、徐々にその姿が見えてくる。

「多霧の時巫女さん」

 愛珠はすぐにその人影を読み取った。

「久しぶりだな、山村。いや元の熱田御師殿」

 珍しく多霧は巫女装束で現れた。頭には長烏帽子を被り、まるで舞をする静御前のような出で立ちだ。

「なんでまた正装で」

「おぬしに会いに来るのに、カジュアルというわけにもいくまい。私のせめてもの敬意と思ってくれ」

「また、もったいないことで」

 深々とお辞儀をする愛珠。


「実はその榛谷殿の話をしておこうと思ってな。この地は管轄外の場所だが、久しぶりに鈴鹿が原まで出向いたんだ」

 落ち着いた涼しい目が諭すように告げる。

「三井の話?」

「あれの娘を知っているか?」

「男手一つで育てていた行儀の良いみずほちゃんですか?」

「うん。その後、荒れてなあ。不登校になった」

 やれやれという口調だが、そこに悲しみの気配は無かった。


「身寄りの無い者の宿命ですね。私が知っていれば……」

「いや、苦労はしたが、なんとか元気に成人して、御厨の御師を継いでいるぞ」


 少しだけ優しさと嬉しさのある表情が時巫女と愛珠に戻る。


「その後に私と仲の良い大庭御厨おおばのみくりやの山崎という者が、生活も、資金も、暦人御師の知識なども協力して、私と一緒にあの子を立ち直らせた。もともとがしっかりした娘だったから、思ったほど時間はかからなかった。そして父の残した保土ケ谷宿、榛谷御厨の講元宿『ワンダーランド』の改装までしたんだ。高校だけはちゃんと出させてな」


「大庭殿。私は面識無いけど、夏見くんから良くその名前は聞きました」

「真面目を画に描いたような男だ。真面目の上に馬鹿が付くくらい真面目でな。融通は利かないが、指導者にはもってこいだった。それでみずほは何とか一人前の暦人御師としてやっているから大丈夫だ。あの子の父親も安心しているはずだ。託宣の解析や処理をする仕事の的確さとスピード感は父譲りでな、あの辺ではピカイチの暦人だ。気は強いが優しく育ったぞ」と時巫女でさえ、自分で話しながら涙目になっている。

「そうでしたか」

「今は夏見や山崎とその友人たちに囲まれて、ひとりぼっちでは無い。『あさの中のよもぎ』がごとく、心を通わせる仲間と世知辛い世の中に負けず、邁進を続けている。私は『時神節』の時にそれを確信した」

「前回の時神節は、確か足利、梁田でしたね」

「うん。今では、あれは父親よりも優秀な暦人になったと私は見ている。確実に新しい世代が世の中を、昨日より今日を良くしているはずだ」

 その言葉に、愛珠は救われたような気持ちになった。


「前を向いて行こう。忘れてはいけない偉業を達成した父親の素晴らしさ。身辺の困難を克復したその娘は、父の残した使命を、保土ケ谷の時間を守り続けている。お前さんがやがて三井と昔話をしたくなったときは、ヤツに会いに行けば良い。幸いにしてお前さんはもと暦人だ。会いに行く気になれば、過去の生きていたときのヤツに会うことが出来るのだ。その時に使うといい。私からのささやかなお礼だ。時神さまも承諾済みだ」


 そう言って時巫女は含み笑いをした後、「だがあと十年以上は使うなよ。長生きせい!」と但し書きのような台詞を残す。

 そして多霧の時巫女は、そのまま言付ことづけが済むと再びスッと消えてしまった。彼女の立っていた場所には、『桂花けいか御神酒おみき』と染め付け青の毛筆体で書かれた大徳利が置かれていた。

「ありがとうございます」

 目を閉じて、愛珠は徳利に向かって会釈をした。

 続けて「わたしもとうとう『キンモクセイタブー』の許可を頂く年齢か」としみじみと呟いた。

「これが噂に聞く桂花の御神酒なんですね」と持彦。急な展開に驚く。

「桂花の御神酒って何?」と富久。

「まだあなたたちには早い。もっと知識を得てからだな」と笑う愛珠。

 弥栄は明るい顔が戻った皆に安堵する。そして富久に、

「お言葉通り、前を見ましょう。富久さん、すぐにお父さんにも虹色のラベンダーを持っていってあげて。一刻も早く」と促した。


 弥栄のその優しさに満ちた目には、暦人特有の愛情が溢れていた。人生には優しさと悲しさが交互におとずれるからこそ、人は成長すると富久は感じ取った。そして富久は同じ病状に苦しんでいる父親を思い出す。

「はい!」

 元気よく彼女は立ち上がる。

「もっちゃん、行くわよ」

「おじさんにも、きよめ餅持っていこう。今日のお月見はおじさんの病室だね」と持彦。

「では愛珠さん、また近いうちにお見舞いに来ます。今日のところは父にこのラベンダーティを持っていくので失礼します」

 ゆっくりと頷くと「お父様によろしくね」と愛珠。

 すっかり顔色も良くなった彼女が優しく手を振る。そうは言っても、手の振りの動きはまだまだ弱々しいものだ。

「わたしはもうちょっとお話いていくから。ミヤちゃんのことも伝えたいしね」と弥栄。

「じゃあ、お願いします」

 二人に見送られながら、彼女たちは部屋を出て、玄関先に向かった。


 後の話だが、このお茶を飲んだ愛珠と富久の父親の二人とも、ひと月足らずで何事も無かったように回復したという。お医者様は不思議な顔をしていたそうだ。

 物の化身である付喪神のミヤが持ち主のために大活躍したこのお話は、まさしく現代の異類報恩譚。ものの精が持ち主に忠義を誓うというお伽話とぎばなしそのものとなった。

 その後、ミヤと弥栄も熱田に出向く度に、互いに幸せな関係を築きながら、暦人として、付喪神として研鑽し合っている。ミヤが自分を犠牲にしても守りたかった愛珠への慈しみ、それは愛珠がミヤに対して持っていた慈しみの裏返しだ。どちらも天秤で量れば均衡が保たれる深い愛情である。互いに同じ大きさの慈しみを持って支え合っていた証拠だ。


 ちなみに外来の植物であるラベンダー。ヨーロッパの地中海沿岸がそのふるさとと言われる。その昔、中世ヨーロッパでペストが大流行したときに、ラベンダー畑で働いていた人々やラベンダーを栽培していた人たちだけがその難を逃れたと言われるくらい抗菌作用の大きな植物だと言う。大昔には民間療法として医療目的で使われてきた経緯もある。そしてラベンダーの花言葉は「献身的な愛」。まさにミヤが愛珠に施した行為そのものであった。

                                             了

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