第2話 ♪カタバミで磨く銅鏡の扉-伊勢河崎の亜空間書庫-

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ―― 



 麦わら帽子に、貫頭衣のようなジャンパースカート。帽子の下では大きなリボンが髪を束ねている。屋台で買った焼きトウモロコシをかじる朱藤富久あかふじふく。花より団子といったふうの彼女。この物語のヒロインである。歳は二十歳を超えること数年。本気でメルヘンの格好を装うには少しイタい年齢だ。恋しい男性、神代持彦しんだいもちひことは危うく、大昔のフォークソングのヒット曲の題名のように、二十二歳で別れるところだった。それを暦人の奇跡ミラクルこうに転じさせた。


 デートの待ち合わせ場所。三重県は伊勢市。参宮線さんぐうせんの伊勢市駅前のベンチで焼きトウモロコシをかじりながら彼を待つ。たまたま屋台が出ていた駅前広場で、焦げた醤油の香ばしさに嗅覚が反応して、我慢できずにめでたく購入というわけだ。彼女の場合、いつものことである。


 誰にも咎められることもなく、何の遠慮もなく、自分の食べたいものをただひたすら食べ続ける。富久にとって幸せな時間である。オジサン・グルメマンガの主人公のようだ。


 そこにお馴染みの格好良い彼氏らしき人物の登場である。濡れた髪をデップで固めて、惚けただて眼鏡で富久に向かって、

「また食べているの? 飽きないねえ」と少々ひき気味である。


 麻のシャツに、短パンで駆けつけた持彦は改札を出るなり、横目で呆れた顔だ。今風に言えば、ジト目である。富久はトウモロコシにかぶりついたまま止まった。その言葉に凍りついている。

「駄目かな?」

 ひきつった笑顔の富久。少し鼻づまったような声で気まずい顔だ。


「だってこれから新規開店のカフェに行くんだよ。そこで、また何かしらの注文することになるのに……」

「そうよねえ」

 彼の言うことも分からなくはないので、しまったという顔で渋々トウモロコシを入っていた元の袋にしまい込む富久だった。


 彼はポケットからハンカチを出すと、富久の口元から頬にかけての醤油の汚れを拭いてあげた。

「あ、ありがと……」

 もじもじしながら、いつもの几帳面な彼の行動に少し胸のときめきを感じている。

「全くもう。行くよ」

 富久が勝手にひとりで舞い上がっていると、そんなことを気にも留めない持彦。いたって普通に歩き始めた彼に続いて、富久も参宮線との踏切を渡り、近鉄線のガードをくぐって伊勢河崎の河岸町かしまちへと向かった。




 橋の向かいには銭湯。勢田せた川の川沿いの道を歩く二人。目の前の川の流れはゆったりしている。河口が近いからだ。この辺りの町並みは、木造古民家の町屋まちや造り建築、店造たなづくり建築が多い。古くからの建物だ。伊勢商人が河岸の地の利を活かして商いを行った風情が未だ漂う。古き良き和の町並みを感じられる場所である。


 時を経た木材独特の乾いた香りと質感の家屋。タールや砥粉、ニスの香りに、赤茶けた色の材木が視覚的にも、嗅覚的にもノスタルジックな郷愁を呼び起こしてくれる。


 決して嫌な臭いではない。どこかでいつの間にか覚えた懐かしい香りだ。少々、時の経った木材の持つ安堵感が漂うエンバイロンメント。そして所々穴のように空白となった土地が、少しだけすたれた雰囲気と、喧噪を離れた場所のひなびた街角を演出している。


「ねえ、この建物、初めて見るけど何かな?」

 不意に川沿いに不自然にそびえ立っている廃墟のような洋館を富久は指さす。余り見覚えのない建物だ。


「こんな建物あったっけ?」

 富久の言葉に、「見覚えないねえ」と持彦。


 全体的にグリーンで統一された骨組みの木材。窓枠や梁は全て緑。漆喰の白壁に、ドーム型の屋根。道路に面した部分は塔になっていて、とんがり屋根だ。美しければ、神戸の異人館や横浜の西洋館のようにロマンチックな風貌だろう。だが何年も放置された上に、「キープアウト」の板をぶら下げた黄色と黒の二色紐がそこいら中に巻き付けられていて痛々しい様だけが目についている廃屋だ。


 塔の屋根の出窓下の破風には、止まったままの時計が六時六分の位置を指している。

「ここに、こんな建物あったかな?」

 持彦も腕を組んで、改めてその建物の前で立ち止まると首を傾げた。

 道路は反対側の勝手口の扉が突然開く。「ギギーッ」と渋いきしみの音だ。

「ん?」

 そこから出てきた人影が、二人には見覚えのある人物と分かった。小宅小夜音こだくこやね、内宮近くの土産物店店主、大那だいなの妻だ。

「小夜音さん……」

 髪をアップにして、かんざしと櫛で留め、そこに白と小紅色の留め袖訪問着。風呂敷包みを抱えて満足げに裏通りへと消えていった。


 呆気にとられている二人の視界に、再度開いた扉から人が出てきた。今度は二人だ。


 ぼさぼさ髪の丸眼鏡、下駄履きにジーンズ。横溝文学作品の登場人物である探偵、金田一耕助ばりに頭を掻きながら、カランコロンと音を出して歩く男性。マントでも羽織れば耕助そのものである。

 その横を和服姿でしゃなりと穏やかに歩く三十歳前後の女性。やはり胸に風呂敷包みを抱えての登場だ。

 残念なことに、女性の方は川沿いの道に立ち止まっていた富久と持彦の様子に気付く。


「見られているわ」と女性。小声で丸眼鏡の男性の耳元にささやく。

「装おう」と男。

 彼女は頷くと、わざと二人の方に意味ありげに視線を送りながら、聞こえるような声で言う。

「もうせっかちね、キスは後で」と男の唇に人差し指を当てる女性。まるで古い外国映画のワンシーンのようだ。

「仕方ないなあ」と彼女の頬にキスする男性。

 その姿を見て、富久と持彦は思わず目線をそらす。二十代前半、まだまだうぶな二人だ。


 二人が俯いて反対側に進路を変えたことを確認するカップルの二人。

「これで上手く廃屋の情事と察して、立ち去ってくれれば良いのだけれど……」

 丸眼鏡の男は小声で呟いた。

「もう、そうじゃないと、私、ここで求めちゃうわよ。あなたのディープキスを」と、女性はトロンとした瞳で男性を凝視し始めた。

「さあ、もう行こうよ」

 どうして良いか分からず、見つめられた男性は、困り果てたようで彼女の肩を抱きながら、すたすたと歩き始めた。

「もう、いけず」




 富久たち二人の目的地、県道沿いの新しいカフェは、不思議な魅力を持っていた。トロピカルなカクテルと、アメリカ人好みの甘いお菓子の山、富久は持彦との話しなど忘れて普段はなかなかお目にかかれないケーキやスナック食べ放題をいいことにトレイでたんまりと持ってくる。スイーツだけの食べ放題とは言っても、ハンバーガーやサンドウィッチなどの軽食も用意されている。若い二人には、十分なメニューだ。


「クロノすワールが美味しい喫茶店のコメヤ珈琲もいいけど、あれとはまた違った喫茶の在り方が良いなあ。お店の選択肢は多い方が良い」

 持彦も満悦している。付き合わされた身の彼も、今回はまんざらでは無いようだ。


 富久はオレンジと白の縦縞紙コップに山盛りのキャラメルポップコーンを盛りつけると、自分の席に戻ろうとした。その時、ちらりと横を見ると、さっきの古い洋館から出てきた三十代の和服女性が窓際の席に座っているのを見た。腕を組んでいた丸眼鏡の連れはいない。一人だ。後ろから来た持彦が富久の横に来て、同じように彼女に気付く。


「あの人……」と小声で富久に言うと、富久は無言で頷く。


 彼女はそっと持っていた風呂敷を半分だけ広げる、黒いなかに緑の筋が煤のように点在する円形の金属が見える。そして黄緑色のシールが目印のように貼り付けてある。

三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう……」と持彦。

 そう言って、眉間にしわを寄せた。

「何それ?」と小声の富久。


「『魏志ぎし』の史実では百枚が倭に下賜されたと言われているけど、国内で三百枚以上が出土されている不思議な青銅の鏡。一説では日本独自の様式とも言われる鏡。幻の三~四世紀の制作と言われている祭事道具の一つ。よく古墳などから出土される銅鏡だよ」


 持彦がそう言ったとき、神獣鏡の鏡面にひとすじの光が走り、映像が映し出された。

「なんだ、あの銅鏡、変な映像が映った」


 遠目からなので、少し見づらいが、彼の目には、踏切を走るオレンジ色のディーゼル機関車とそれに牽引される夜行寝台列車の走る姿が映る。そこには、不安そうにそれを眺める、赤紺白の野球帽を後ろ前にかぶり、カメラを抱えた少年の姿が見えた。年の頃は十代半ばといった風にも見える。


 鏡の持ち主、その女性に、その映像は見えていないようだった。

 持彦にはその場面の映像が何度も繰り返されて映っている。列車が通り過ぎると、再び列車のやってくる場面に戻って繰り返される。まるで鏡がその場面を二人に見せて、何かのメッセージを託しているようにも思えた。


『あの参道にかかる踏切、松坂の井伊乃高宮神山神社いいのたかみやこうやまじんじゃかな。覚えある景色だ』


 持彦は心中で呟いた。

「あの鏡、映像があるけど、実は新型のダブレットPC?」

 富久の質問に、「そんな馬鹿な」と眉をひそめる持彦。

「富久ちゃんも見えてるの? あの踏切の少年」

「うん。過去の映像だよね」

 鏡に映る画は、富久にも見えているようで、

「電車の動画サイト見てるのかな?」と加えて呟いた。

「いや僕はあの少年が気になったんだ」

「カメラに野球帽の?」

「うん」

 店内で立ったままの二人は目立つ。あまりじろじろ見ているのもていが悪いので二人は、互いに頷くとそのままトレイを抱えて自分たちの席に戻っていった。




 再び帰り道は、勢田川の側道。例の朽ちた洋館の前に差しかかった。

「ちょっと入ってみない?」と富久。好奇心に満ちた目で持彦を誘う。

「この洋館にかい?」

 眉をひそめる持彦。時空の揺れる臭いがするのだ。厄介ごとの予感がよぎる。なりたての暦人見習いでもそれぐらいは感じる。

「なんか、暦人の使命のような思念がはたらくのよ。だめ?」

 富久の質問に、「どちらでも……」と呟く。自分でも判断できない状況だ。知りたいという好奇心とやめておけという心の声が脳裏で共鳴し合っている。


 だが、その言葉と同時に二人は、打ち合わせたように「KEEP OUT」と書かれた黄色の帯をくぐり抜ける。するとどうだろう、廃墟同然の洋館の姿が、手入れの行き届いた、まるで見違えるような美しい洋館に見えるのである。

 塔の時計は何故かぐるぐると回っている。まるで自動修正で時刻を合わせる電波時計のように針が動いていた。

「止まっていないのね、あの時計」と富久。

「今度は必要以上に動いている。両極端だな」と持彦。


 そして彼は合点がいったように、

「そうか、リアル・レンチキュラー技術で、視点角度で見える物を廃墟のようにカムフラージュしていたんだ」と納得した。


「れんち……きゅうり」


 不可解な顔の富久は、渋った顔で眉間にしわを寄せる。

「二十六世紀以降の技術だけど、この時代にも似たようなものはあるよ。初歩的な技術で」

「うん」

「よくワッペンとか、缶バッジで見る角度によって、デザインや絵が変わるものがあるよね」

「右から見ると泣き顔、左からだと笑顔とかの子供のおもちゃなんかに使われているヤツね」

「そうそう。あれの実写投影タイプと考えて良い。キープアウトの場所からは廃墟に見えて、帯を越えて敷地内に入ると本来の姿に見える仕掛けだ」

「なるほど、やっぱり頭良いね。もっちゃん」


 感心する富久を余所に、持彦は緑色に塗られた一枚板のドアの前に立ち、金色のノブに手をかけた。


『がちゃ』


 ノブを回した彼は心中で『開いてる?』と発した。

 おそるおそる足を踏み入れる二人。窓からはやや傾きかけた日差しが差し込んでいる。夕日まではあと少しといった時間だ。

「すごい!」

 富久は目を見開いた。古い板張りの床、その部屋の壁面は隙無く本棚が設置され、全ての棚にびっしりと本が埋まっている。左手の出窓のそばには、ブリュトナー社の古いグランドピアノが置いてあった。


「図書館みたいね」

「時計の次は本か……」と驚きながらも、冷静に状況判断をする持彦。

 二人が本棚の書物を目で追っていると、ガチャリと音がした。

「誰か来た!」

 持彦の声とほぼ同時に、大男が入ってきた。身にまとう白装束しろしょうぞくと木製の背負子しょいこ、手には六角形の杖が握られており、毛筆で『六根清浄ろっこんしょうじょう』と書かれた、呪文のような言葉が並んでいる。


「明治期の密教修験道さん」と持彦。

 男らしい太い眉と、ほりの深い土のような色をした精悍せいかんな顔つきが豪快に笑う。

「ははは。いかにも、明治期の暦人、南方牛楠みなかたうしぐすという」

「あなた、明治の人なんですか?」

 その下割れのあごを親指と人差し指で挟みながら、「おお、いかにも。でも生まれは慶応年間だけどな」と普通に答える。

「修験道の格好をした暦人なんですね」

「おお、すまんな。高野山から那智を回って、そのままこの書庫に来るために沐浴斎戒もくよくさいかいを済ませるのに、二見に行っていたのでな」

「うわあ、それっぽい」と富久。

「ところで坊と嬢は?」

 今度は持彦たちにその男が訊ねてきた。


「二十一世紀、令和時代の暦人と、こっちの彼女は御師です」と紹介する持彦。

「未来人か。久しぶりに会ったな」

 相変わらず指であごを摘まんだままの牛楠は言う。

「未来人って、この建物は二十一世紀に建っていましたけど……」と問い返す持彦。


「いや、聞いていないのか? 入ってきたドアが違えば違う時代だし、違う土地だったりもする。それが異次元、亜空間だ。そして自分が入ったドアを出れば、元の時間、元の土地に戻れるように出来ている。ちなみに外観はその時代や地域に馴染むように、一体化して、不自然にならないような廃屋の姿が投影されている。時の館とはそういう、からくり屋敷だ」


 この男、豪快で、ぞんざいな性格かと思いきや、意外に親切である。

 持彦は、この人なら大丈夫と思い、昼間の彼女が持っていた銅鏡について訊ねてみることにした。

「あの牛楠さん、一つ質問していいですか?」

「ん?」

「この書庫の中に、三角縁神獣鏡ってありますか?」

 牛楠は首を傾げながら、

「さんかくしん……きょう?」

「大昔の銅で出来た鏡です」

 その言葉に、

「おお、出土品の鏡だな」と返す牛楠。そして「何色が必要なんだ?」と訊ねる。

 とっさに持彦は「黄緑色!」とあの女性が持っていた目印のシールの色を告げた。

「ああ、時の迷い人の捜索鏡だな」


 そう言って牛楠は、中央の柱に寄り添うように配置された戸棚を慣れた手つきでガラガラと開けた。

「ん? ないな。誰か持っていっているみたいだ。貸し出し帳で返却日を確かめよう」

 戸棚側面に打たれた釘に紐で下げられた大学ノートを手にする牛楠。その表紙には『銅鏡貸出帳』と墨汁の文字で記されている。

「今日貸し出しで、返却は明日だ。寒河御厨御師さんかわみくりやおんし思川乙女おもいがわおとめさんという人が持って行っているな。また明日来てみるといい」


「ありがとうございます。牛楠さんとはまたここでお会いできますか?」と富久。

「どうかな? 明治五年以降の高野山壇上伽藍前の参道にある南方豆腐店に来れば会えるよ。いつか機会があればまた会おう。坊と嬢のことは覚えておくよ」

 二人は丁寧に挨拶をすると、自分たちが入ってきた扉から、その書庫を出た。


 建物へと続くアプローチの渡し石の両脇には、異質な七色のカタバミの花が咲いている。地味な花で雑草としか思わない花がひとの手によって故意に植えられていることなど二人は気にも留めなかった。




 伊勢市駅前の喫茶店で二人はさっきの洋館での出来事を思い出す。

「あのグリーンの洋館は暦人の書庫なのね」

 グリーンのクリームソーダに刺さったストローから口を離して富久が言う。


「うん」

 漫ろな返事で返す持彦。

「何? その気のない返事」

 不思議そうに返す富久。

 ため息の後で、大きく息を吸ってから「実はそれよりもあの鏡に映った少年の事が気になる」と持彦。

 アイスコーヒーのクリームを落としたグラスをかき混ぜる富久。


「そうよね。牛楠さんだっけ? あの人、迷い人探査鏡って言っていたわ。迷い人って何?」

 富久は『時の迷い人』の意味がわからない。

「実は僕もよく知らなかったんで、さっき、夏見さんに電話したら、暦人たちが使う用語らしくて、託宣で違う時代に飛ばされて、帰れなくなった人、って言っていた」


 その言葉に、俊敏な反応を示す富久。血の気が引く思いだ。

「ええ、大変。じゃあ、さっき鏡に映っていたあのカメラの少年は……」

 二人は瞳を合わせて、無言で頷いた。


「きっと明日にはあの鏡は書庫に返されているから、明日、もう一度、あの洋館に行って鏡を確かめよう。もしかすると助けてやらないといけない人かも知れない」

 持彦、持ち前の優しさが言葉になる。

「うん」

 富久も真面目に彼の提案に頷いた。



 翌日、二人は再び伊勢市駅から河崎まで向かう。

 勢田川の川面は、あいも変わらずゆっくりと静かな流れを映している。向かいに銭湯のある橋の斜め横の材木置き場、その奥にあの廃墟のような洋館は建っていた。今日は動きやすい格好の二人。Tシャツにジーンズだ。迷い人を助けるために、動き回れるようにと考えてのこと。


 二人は昨日のように、立ち入り禁止のテープをくぐり抜けると、緑の扉を開けて中に入った。するとそこには二十代後半に見える美しい浴衣姿の女性があの鏡をテーブルに置いて、取扱書のような古文書を並べて読んでいた。傍らには和笛わてき横笛よこぶえが置いてある。


 その女性は富久と持彦に気付くと、静かに本を閉じた。そして怜悧な表情にも見えるその顔つきで言葉を発した。

「見慣れない顔だわ。許可証は?」

 そう言った後で、「しかもあなたたち見覚えあるわ」と加える。

 当然、許可証など持っていない彼らに答える術はない。そもそもそんなものが存在することすら知らないのだ。ただ固まっているだけの二人である。

「一般人?」


 その言葉に富久は、「六カ所村の土の御師、朱藤富久」と答える。

「六ヶ所村? 土の御師? 朱藤福助さんならその資格はあるけど、あなた誰?」

 氷のように冷ややかに見えるその長い髪、胸元から背中へと払いながら彼女は再度問う。

「孫の富久です」

「お孫さん? 聞いていないわ。あなた、御師として時の勘解由使から任命の書状をもらっているの?」

「いいえ」

 富久の言葉に彼女の顔は立腹の表情に変わる。素直に答えた富久に、鋭い目つきで、

「出ておゆきなさい!」と声を荒げる浴衣の女性。人差し指は彼らの入って来た扉を指す。

 事態を柱の陰から見ていた、丸眼鏡の男性が下駄の音をさせて近づいてきた。

「どうしたの? 乙女さん」

 穏やかそうな眼差しに、彼女は目をとろんとさせる。そしていきなり姿を変えた。彼女は昨日見た和装訪問着の女性に、くるりとターンして、変身したのだ。彼の視界に入る直前のことだった。


「ええ?」

 逆に驚かされる持彦と富久。魔法のように鮮やかな変身に驚きを隠せない。


「この子たち、許可証を持ってないのに、この時の館、亜空間書庫に無断で入っちゃったのよ」

 女性は甘えた声で男に説明する。

「でも入れちゃったんだろう? この亜空間の書庫に」

「ええ」

 頷く女性に、軽く微笑む男。丸眼鏡の縁を押し上げて続けた。

「じゃあ、時の番人ではあるということだ。ねじれた空間に配置されたこの書庫に出入りできると言うことは、時間移動を経験した者ということだ」

 男は向き直ると、

「暦人だね」と相変わらず無防備なまでに優しく微笑む。

「はい」と二人。


「僕は足利、梁田御厨やなだみくりやの御師、八雲半太郎やくもはんたろうっていうんだ。こっちは婚約者の思川乙女さん。もう妻と言っても良いんだけどね。栃木市の寒河御厨の御師だ。そして長慶子ちょうげいしの時巫女でもある。彼女は変化自在へんげじざいに二つの人物を使い分けている」と手を差し出した。


 握手の手を受けると、「朱藤富久、土の御厨の朱藤福助の孫です」と返す。続けて、「僕は暦人の神代持彦といいます」と持彦も手を差し出す。

「時巫女って、串灘くしなださんと同業者?」と富久。

 その名前を出すと、乙女の顔つきは氷が溶けるように柔らかになる。

「串灘の時巫女を知っているの?」

「割と助けてもらっています」と富久。

 乙女は「クスクス」と笑うと、「彼女に助けてもらうのね」と意味深な素振りだ。まるでポンコツ暦人とでも言いたそうに。


「乙女さん」と軽く咎めるような口調の八雲。

「ごめんなさい。だって、優柔不断でなにも決められない、心配性な串灘さんに助けてもらうなんて……」

 右手で着物の裾を掴みながら、左手を口元に当てて笑いをこらえる乙女。肩が小刻みに震えている。まるで同業者としての串灘の仕事ぶりを知っているかのようだ。


「ところで君たちは何故、ここに入ってきたの? なにか用事があったんだろう」

 話を戻した八雲の言葉に、

「昨日、乙女さんの持っていた鏡に、悲しそうな顔の少年が映っていたから……」と返す。


「あの黃緑シールの鏡かい?」と彼女の前に置かれた鏡を指す。

「はい」

「迷い人の鏡と知っていたんだね。それで迷い人と分かって、助けにやってきた。そんなところかな?」

「はい。昨日電話で夏見さんという、知り合いの横浜の時空御師の方に尋ねると、教えてくれました」

「暦人としては殊勝な心がけだ」

 八雲と乙女は顔を見合わせて微笑む。


「そうか、でも驚いたね。夏見君とも知り合いなの?」と八雲は加えた。

 富久は、「栄華さんもです」と加える。

「そっか、栄華ちゃんも知り合いか」

「八雲さんも知り合いなのですか?」


 持彦の言葉に、

「古くからの友人でね、わりと何でも言い合える間柄だよ」と嬉しそうに返す八雲。


「そうなんですね。夏見さんの友人ならよかった。僕は夏見さんを人生の師匠に考えているくらい、尊敬しているんです」

 まっすぐな目が一点の曇りもなく、彼の言葉をより際立たせている。


 どや顔の持彦の横で、困り顔の八雲は、少々済まなそうに、

「あのな、持彦君。師匠と呼ぶのなら、もう少しまともな人間を紹介するよ」と頭を掻きながら言う。

「えっ?」

 きょとんとした顔の持彦の横で、くすくすと乙女は笑う。夏見と八雲の関係性を知っている人間なら、皆が笑うのだろうが持彦には伝わらなかったようだ。


「では本題に入ろう」

 八雲は皆を鏡の前に集めると、黄緑色のシールが貼られた鏡を指さす。

「今も映像が見えるかい?」

 八雲の質問に、「はい」と答える二人。


「残念だが僕には、その景色は見えないんだ。おそらく映し出された場所に土地勘がないためと思われる」

「そっか、知らない土地を自分の記憶で結びつけることは出来ないんだ」

「うん。どんな景色が見えるのか教えてくれ」


 持彦は富久にアイコンタクトで頷くと、

「オレンジ色の機関車に牽引された青い色に白い帯の寝台列車が、神社の参道の踏切を通過していて、その横で赤紺白の三色の野球帽を後ろ前にかぶった少年がカメラのシャッターを切っています」と八雲に伝えた。


「鉄道ファンの少年だね。見えているのはブルートレインだ。一九七〇年代から九〇年代に人気のあった特急列車だ。最近まで北斗星などの北海道行きはあったなあ。このあたりには、その昔、寝台特急紀伊号というのが走っていた記憶がある」


 八雲の言葉に、「直ぐに助けにいきましょう」と富久。


 それに冷静な反応の八雲は、

「どこにどうやって行くの?」と訊く。少々意地悪な質問だが、場当たり的で何の考えもない富久の行動に賛同するわけにもいかない。


「それは……」と口ごもる富久。そして、

「……ここにいる時巫女さんなら、私たちをその場所に飛ばしてくれるから大丈夫かと」と続けた。

 おもむろに顔を上げた乙女は、「無理ね」と言う。


「いつかも分からなければ、どこの神社かも分からない。いつどこで、が分からなければ、時空瞬間移動テレポーテーションは不可能だわ」


「場所は分かります」と持彦。

「見覚えのある場所なのかい?」

 八雲の言葉に、

「松阪市の郊外、櫛田川くしだがわ祓川はらいがわの分流地点にある井伊乃高宮神山神社です。あの神社は境内参道に踏切のある珍しい神社なんです」と答える。

「そうか……」と八雲。そして「瞬間移動に必要なのは、あとは日にちだな。日にちまで分かれば、何時かは何とかなる。前日など早めに行ってその時間にその場所で待っていれば良いのだから」と加えた。


「その、日付の情報はあの映像では読み取れませんでした」と持彦。

「さっき寝台列車が九〇年代まで、って言っていたじゃないの」と富久。

「二十年間もその神社の周りをうろうろするのかい? もうそれはもう既に時間移動じゃなくて、移住だよ。野球帽もおそらくバッファローズのものだが、二〇〇四年まで存続した球団のものだ。どの時代で購入したものなのかも分からないし、販売期間も長すぎて歳を特定するヒントにまでは至らない」と持彦の代わりに富久を諭し、大胆な彼女の発想に苦笑いの八雲。


「それじゃ、あの少年を見殺しにするつもりですか?」

 富久は深刻な顔つきで八雲をにらむ。

「夏見さんの話では、迷い人になると永遠にタイムホールを自力で見つけるまで、自分の時代には帰ることが出来ない、って聞いています。仮に彼がそんなことになったら、知人もいない世界でひとりぼっちで心細い生活を送ることになります。運良く鏡を通して、彼の存在をキャッチできた僕たちが、助けに行ってあげなくて、誰が助けるというのですか!」

 持彦も加勢するように言葉を放った。


「感情的なお嬢さんたちですね。誰もそんなことは言っていない。同情や感情に表さなくたって、優しい心を持った人は沢山いるんです。安心なさい」

 見かねた乙女が富久と持彦を宥める。


「熱い若者たちだ。でも嫌いじゃないよ、そういうの」

 頷きとともにため息を吐いた八雲は、彼らの感情が静まってから話し合いを再開しようと考える。

「しばしの時間、妙案が浮かぶまで一時休憩としましょう」

 古文書をぱらぱらと読みあさり始めた八雲の声が書庫に響き渡った。


「ここって携帯電話の電波届かないんですね」

 ソファーに横になりながら、持彦が乙女に尋ねる。

「亜空間だから」

 さも当たり前のように乙女は返す。

「じゃあ、僕たちが入ってきた出口以外にある出入り口はあといくつあるんですか?」

「五つよ。その時によって行き先は変わるわ。今の配置は、一つが伊勢河崎と二見の境あたりに出来ることが多いわ。あなたたちが入ってきた入口ね。次は名古屋の熱田近郊、静岡磐田の御厨、奈良の春日野と桜井、これは冬と春が春日、夏と秋が桜井なの。そして東京芝、最後に南伊勢の六カ所村ね」


 その言葉に富久は『しめた!』と思った。しかし富久のその顔を察した乙女は、時巫女特有の心情思念読解テレパシーで彼女の思いを読み取った。


「無理よ。自分の入った入口からしか出られないのよ」

 口にも出していない妙案を、いきなり否定されて驚く富久。

「そうなんだ……」

 持彦は、「ここは『時守の里』と似た構造だ」と言う。


 乙女は少し驚いたが、直ぐに持ち直すと、

「あなた、『時守の里』を知っているのね。この亜空間にある建物は行き来は出来ないけど、『時守の里』の隣に位置しているわ。だから構造はほぼ一緒なのよ」と教える。

 富久からすれば、また理解不能な場所が増えたと言うだけだ。まだ時間移動だって納得がいってないのだ。


 沈黙が部屋を覆った時に、突然扉の一つが開く。

『カチャ』という音とともに、江戸期のお伊勢参りの旅姿の女性が現れた。被り笠を背中にしょって、裾上げした白い和服に姉さん被り、手には杖。もう一人の時巫女、串灘くしなだの時巫女である。見た感じは三十歳前後の姿だが本当の年齢はそんなレベルの年数ではない。


「ああ、あの……」


 相変わらず、おどおどしながら周囲を確認している。

「あれ? 富久さんと持彦さん。それに八雲さんと長慶子さん」


 済まなそうに、誰も訊いていないのに、「調べ物がありまして、お邪魔します」と来場目的を述べて俯く。ご丁寧な性格だ。

 小さく口元で僅かに笑みをこぼすと、乙女はくるりと回ると再度長慶子の時巫女に変化した。


「ねえ、串灘さん、あなた、迷い人捜索の鏡に映画のような映像があるの。その映っている時代に飛ぶ方法を知らないかしら?」

 いきなりの急展開に串灘は、状況判断に、頭の整理が追いついていない。

「あ、え、ううん……映画」


 言われたことを整理することもなく、「えいがあ~」と串灘は呟く。


 出窓のそばに置いてある古いピアノの鍵盤蓋がぱかっと開くと、その椅子の前に銀のドレス姿の角川栄華かどかわえいかがストンと落ちてきた。頭にはシースルーのボンネット型ヘアネット、と花の髪飾り、間違いなくコンサートの真っ最中である。

 真剣な顔をして、ベートーベン「月光」の第一楽章ファースト・ムーブメントを弾き続けている。自分が時間を飛び越えさせられたことさえも気付かないまま鍵盤に向かっている。『映画』と『栄華』では大違いである。


 ふと、彼女は鍵盤のタッチの違いに気付く。ピアノが変わっていることに気付いた。そして辺りを見回す。

「えええっっ!」

 演奏をやめて驚く栄華。自分がコンサート会場にいないことに漸く気付いた。マイペース、いつもながら愛すべき性格である。

 勿論頭を抱えているのは、串灘だけではない。

「なんと言うことを……」

 そう言い放った長慶子も両手で頭を抱え込んで、顔面蒼白のまま項垂れている。

 喜んでいるのは、憧れの栄華に再会できた富久ぐらいである。綺麗なステージ衣装をまとった彼女に目をきらきらさせてうっとりしている。

「託宣? 託宣なの?」

 驚いているのは栄華も一緒。

 申し訳なさそうに長慶子は、

「栄華ちゃん、ごめんなさい。串灘さんが呪文を間違えたようだわ。元の場所にお帰り下さい」と言う。そして長慶子の言葉で、栄華の姿は再び消えた。


「串灘さん。相変わらず歯切れ悪い霊力ね」

 落ち着いた様子で長慶子が肩をすくめる。

 おろおろした様子の串灘の時巫女は、「うんうん」と頷く。

 皆がやりとしている間、古文書に向かっていた八雲が漸く頭を上げる。


「どうやらこの古文書によると、緑の銅鏡は過去に飛んだ同時代の人間を映すと言うことだ。そして同時代の人にしかその映像は映らないし、見えないと言うことだ。従って、持彦君と富久ちゃんが見た少年は、二十世紀の人間ではなくて、今この時代を生きている僕たちと同時代の人間と言うことだ。つまり託宣ミスをした暦人の可能性が高い」


 すると乙女の姿にいつの間にか戻った長慶子の時巫女は、「時の迷い人の鏡に映る人だもの、当然だわ。その時代の人ではないのも既に分かっていると思うけど」とさも当たり前のように返す。


「いやそうじゃないんだ。例え一年前の人間でも同時代の人ではない。帰ってくると、我々とこの瞬間を分かち合う時代人ということさ」

 厳密さが要求される暦人の時間倫理である。

「さぞ不安な時間を送っているのでしょうね、彼は」


 富久は心中を察する。

「とにかく、本来この僕たちの時間にいないといけない人間と言うことさ」

「なるほど」と改めて納得する乙女。そして「それで救出方法は?」との問いに、「分からない」と首を横に振った。

 この何気ない会話の中で、一人だけ心中で疑問に思っている人間がいた。持彦である。


『じゃあ、なんで二十七世紀の人間の僕にあの銅鏡は富久ちゃんと同じ映像を見せたんだ?』


 彼のこの疑問は、今のこの場にはそぐわないと思い、気持ちを殺した。

 その時、串灘のあねさん被りの可愛らしいピンクの手ぬぐいから、はらはらと何かが落ちる。しかも三枚全部が銅鏡を撫でるようにかすめて床に落ちた。

「ハート?」

 串灘の時巫女は不思議な顔でそのこぶし大の紙切れを拾った。全部で三枚ある。

「託宣でしょうか?」

 持彦の言葉に、「うーん」としかめっ面の串灘。腕組みをして傾げている。思惟のポーズである。



 そこに東側の扉が『ガチャリ』と音を立てる。

「ごめんよ」と現れたのは、濃紺のジャケットにカジュアルタイ、偏光グラスで現れた男。そう先程の角川栄華の夫である夏見粟斗なつみあわとだった。

「夏見君」

 八雲の声に、「ハム太郎、久しぶりだね。妙なところで会ったね」と笑う。

 八雲はお決まりの言葉を発する。

「僕の名前はそんなネズミのマンガのような名前ではない」

「はいよ」とお約束の訂正文言に頷き笑う夏見。彼は挨拶に右手を挙げてから、部屋の中央に陣取った。


「持彦君から迷い人の質問を受けるわ、その後直ぐに栄華ちゃんからもSNSの連絡受けるわ、で何か異変を感じたんだ。納竿は心苦しかったけど、急いで特急列車で静岡まで来たって感じだよ。なんせこの書庫の入口に一番近かったのが静岡の磐田だからな。おかげでお嫁様のコンサートに同行して、旅さきの釣り三昧の筈だった休日が台無しだ。山梨から二時間半もかかったよ。でも日暮れ前に間に合って良かった」

 そう言ってから「ああ、疲れた」と肩を叩きながら加えた。


 そこに気が利く乙女は麦茶を差し出す。

「はい、どうぞ」

「ああ、乙女ちゃん、ありがとう」


「ちょっと聞いてくれる夏見さん。銅鏡に映ったときの迷い人を救い出したいので、移動を考えているんだけど、なかなか思い浮かばなくって」と彼の横で頬杖をつく乙女。


「大丈夫、君たちの説明や話しはいらないよ」と笑う夏見。

 不思議そうな顔で夏見を目で追う乙女を余所に、彼は柱の横まで行くとおもむろに戸棚を開ける。銅鏡の並ぶ戸棚だ。皿たてのように立てかけられた鏡の一枚を見つけると、慣れた手つきでそれを取り出す。そのまま再び元の席に腰掛けた。夏見の取ったその鏡には黄色のシールが貼られている。その鏡を机上に置く。そして傾けて持彦を鏡に映してから、彼は鏡に触れた。


 するとこの部屋での持彦や乙女たちの出来事が、持彦の視点で倍速再生されている。河崎の古民家街で、小宅小夜音の姿を見たところから始まり、この洋館を見つけた富久たち、その庭に入って、書庫にたどり着いたこと。栄華がコンサートの途中でテレポーテーションされてしまう一件。そして串灘のハートの紙切れとショートカットで時間が送られていく。


「ええ、そんな使い方もあるの? この鏡便利ね」

 富久は興味津々だ。


「色によって、使用目的が違うんだ。多野の夏見本家にも同じものがあってね、何度か触ったことがある」と夏見。


 乙女も串灘も知らなかったようで、食い入るように自分たちの過去を振り返っている。

 夏見は一通りの事の顛末を確認した後に、問題の黄緑色の目印のある銅鏡を自分の方に手繰り寄せた。彼が鏡面を軽く触れると、あの寝台列車の映像が再び再生される。わずか数十秒の映像を確認した夏見は、納得し様子で、黄緑の鏡を横に戻す。


 夏見は富久と持彦の方を向いて、「この少年、助けたいのかい?」と訊ねる。彼にも迷い人は見えている。つまりは鏡に映っている神社周辺に土地勘があるということだ。

「はい!」とはっきりした声の返事が聞こえる。


 夏見は不敵な笑みを浮かべると、

「もう時神さまのメッセージは三つも君たちに向けられているよ。ちゃんと読み取っているか?」

 その言葉に富久と持彦は横に首を振る。

「オレがここに来たのも、おそらく託宣の一つだ。オレしか知らない知識を君たちに伝えるためだと思う。迷い人の救出は時間がかかるけど大丈夫かい? オレたちは手助けできない。君たち二人で彼の元に行って、助けるんだぞ」と再度の確認。

 真一文字の口で真面目に頷く彼ら。


「なるほどね。覚悟は出来ているみたいだね」と優しい笑みを浮かべる夏見。

「じゃあ答え合わせだ。この答え合わせは、救出作戦実行というスタートの合図だ。よく心しておきなよ」

 そう言ってから彼は、託宣の解釈を彼らに教え始めた。鏡に映し出される映像に合わせて解説を入れる夏見。


「まずここで小夜音さんを目撃しているね。小夜音さんのお店は、時の迷い人が道標にする講元宿だ。次に君たちがこの建物に入るこのシーン。足下の花壇に何故か雑草のカタバミが植えられている。しかもカタバミらしかならぬ、黄色と紫以外の変わった色のカタバミの花が沢山ある。次に栄華ちゃんが飛んできた時の演奏曲は「月光」のファーストだ。月の光が目立つ前に移動準備を完了しろ、って感じだ。なぜならカタバミは花も葉も夜になると閉じてしまう。不活化したものは使えないからだね。植物の生態、ここはネーチャーライターのオレじゃ無いと分からない部分だ。そして最後、カタバミの葉は海外ではラッキーチャーム、ハートの植物とされている。しかも三枚でひと組の葉の付き方だ。それらが擬似的に串灘さんの頭からこぼれて、鏡をかすめていると言うことは……」


「カタバミの葉で鏡を磨け! かな?」

 持彦は精悍な顔つきでハキハキと答えた。


「正解」と笑う夏見。

「じゃあ、私は霊力の使い方を間違えたわけじゃないのね」と串灘。少し恨めしそうに乙女をチラ見する。言い訳をしたいようだ。


 夏見は「よう、一番まともな時巫女さん。あんたは、なんでも気弱で自分のせいにしてしまうけど、今回は託宣の霊威の方が勝っていたって事で、そっちの霊力はかき消されただけなんだと思う」と笑った。

 胸をなで下ろす串灘。

「良かったわ」


 反面、乙女は少々不服な顔をしている。どうやら長慶子の時巫女でもある彼女は、夏見のその言葉が少し腑に落ちないようだ。

「いちばん……まとも? 串灘が……」

 憤った顔で夏見に自分の疑問がわざと聞こえるように言う。


 その態度を見て、言葉を拾った夏見は、臆することなく、

「彼女は人間の心の声を読み取る読心術の霊威を、危機的状況や緊急避難的な時にしか、ほとんど使わないんだ。つまり必要時以外は遮断して、人の心情や生活に立ち入らないことをポリシーとして持っている。しかも相手を優先するから、常に優柔不断な性格に見えてしまう。立派だよ」と解説した。ここにはいつものおちゃらけた夏見はいない。


 八雲は、「君の物事の本質を見抜く力は超一流だよ。技術や知識ではなく、そいつを使う、人間としての善意に満ちあふれている。百点な暦人だ」と笑顔で言う。


「ハム太郎に褒められることは、ほとんどないのでありがたいね。録音しておけば良かった」と笑いながらも本音の夏見。

 呆然と二人の会話を受け止めていた富久と持彦を流し目した後に、串灘は、

「今、あなたの言った、かたばみを使った儀式をこの鏡を使って行うとどうなるの?」と夏見に訊ねる。

「生前の文吾さんから聞いた話では、鏡に吸い込まれてその場所に行けるそうだ」

「なるほど」

「じゃあ、早速私たちが庭のカタバミの葉で鏡を磨いて、鏡の中に入れば良いのね」と富久。

 夏見は人差し指を立てて、左右に動かす。

「ちっ、ちっ、ちっ」

「ん?」とドングリ眼の富久。『まだ何か?』と言いたそうだ。


「入ったは良いが、帰りはどうやって帰ってくるんだ?」と夏見。

「時巫女さんの瞬間移動テレポーテーションで」と言う富久に、

「時代も場所も分からないところで、どうやって目標を掲げて移動出来るのかしら?」と乙女。


「その通りだ。この鏡に映っている場所も、君たちの記憶にある場所だから見ることが出来ている。他の人には見えない。オレは見えているけど正確な年月日は分からないぞ。つまり迎えに行くことも出来ない。君たちは結局、ミイラ取りがミイラになる、という意味のない行動で終わる。迷い人が二人増えることになる」


 夏見の言葉に続いて、八雲が質問をする。

「ちなみに持彦君はこの付近の『虹色の御簾』のある場所を知っているの?」

「『虹色の御簾』?」

「タイムゲートの別称だ」

 夏見の言葉に「いいえ」と横に首を振る二人。


「でも君は以前に、時間移動の経験があると言っていたけど」と持彦に向かって夏見が加える。

「時守の里と熱田にある時空郵政のタイムゲートを使いました。それも時間局の人と一緒に」

「なるほど。この付近のゲートは知らないということか……。まだ半人前の暦人に近いね、残念だけど」

「オレやハム太郎は関東の暦人なので、あまりこっちの事情に明るくない。ゲートの管理者すら分からない。唯一知っているのが……」と言いかけたところで、右から串灘、左からは長慶子の時巫女が夏見の口をふさぐ。

「うぐっ!」

「教えては駄目。一番最初の、一つ目のゲートは現地で本人が聞き出すか、探さないと、暦人として認められない存在になるわ」と二人同時に声を合わせた。

 苦笑いで頭を掻く夏見。

「ステレオ放送で両耳から叱咤されちまった」

 そして加えるように、「そうだよな。自力じゃないと駄目だったな、タイムゲートは……」と八雲も落胆する。


 しばらくの沈黙が続くのかと思いきや、半分開いていた扉が、大きく開かれる。富久たちが入ってきた扉だ。


「ごめんなさい。盗み聴きするつもりはなかったのよ。聞こえちゃったの」

 声の主は、最初に富久たちがこの書庫から出てくるのを見かけた小夜音である。

「あら大那さんの奥様」と串灘。

「その節はうちの主人がお世話になりまして」としなやかなお辞儀をする小夜音。その手には黄緑色の美しい色をしたカタバミの葉と蛍光グリーンという明るい花びらのカタバミの花が握られている。

「長引いて、日が落ちてしまい、花と葉がしぼむといけないので、持ってきてあげたわ。それと、この荷札もね」とひらひらと三枚の荷札を皆に見えるように左手で掲げた。かなり意味深なアドバイスである。


「その手があったか」と嬉しそうな夏見。ポンと右手の拳を左手の手のひらで叩く。閃き賛同のジェスチャーだ。


「自分が『じくぱっく』小包になるという理論ね。そいつは簡単だし、わかりやすくて楽で良い」と笑う八雲。


 その荷札には金属感満載の時空郵便局のキャラクター、メタル・ポストンとメタル・ナンバーくんが描かれている。時空郵政で使われている郵便局のマークだ。


「小宅土産物店の隣は郵便局なの。内宮参道局っていう特定局ね。その郵便局であるお隣さん、実は夜になると、暦人御用達の時空郵政の窓口を開くわ。かなり昔から時空郵政の窓口をやっていたはずなので1970年代なら使用可能なはず。自分たちと迎えに行く少年の分の荷札の宛先欄に今日の年月日と局留めと記して、それを自分たちに巻き付ける。そして時空郵政の配達用タイムゲートを借りて、飛び込んできなさい。そうすればこの時代に戻れるわ。郵便局訪問時はインターフォンを鳴らして、『虹の国の住民ですが、「じくぱっく」お願いします』っていうのよ。そうすれば中に入れてくれるわ」


「ええ? 郵便局って、タイムゲート持っているの?」と富久。


「全部ではないけれど、持っているところもあるの。それを使って配達している人は時空郵政、または時の郵便屋さん、っていってね、暦人の存在も知っているのよ」


「なんか奥の深い世界ね。暦人の世界って」

 しかめっ面で腕組みをする富久は、状況の整理が出来ていない。

 だが既に、小夜音は持ってきたカタバミの葉で、三角縁神獣鏡を磨き始めている。彼女が一拭きする度、鏡全体が光を放ち、光輪が生まれる。


「さあ、準備は出来たわ。このまま頭から飛び込んじゃいなさい。向こうの時間に行ったら、まず年月日を確かめて、郵便局の位置を確認して、それから時の迷い人の救出をするのよ。いいわね」

 そう言って、持彦の手に荷札をぎゅっと掴ませた。うるさいまでに面倒見の良い小夜音。若い二人が愛おしくもあり、気になるようだ。

「ハイ、分かりました」と持彦。

 二人は目で合図をすると、次々に三角縁神獣鏡に体を預けた。自分たちより小さいはずの鏡の中にちゃんと吸い込まれていくから不思議だ。 

 二人が鏡の中に消えると、小夜音、夏見、串灘、そして八雲と乙女は少し嬉しそうな表情で彼らの入っていった鏡を見つめていた。



「二人とも板に付いてきましたね。頼もしい限りです」と串灘。

 夏見はそれに頷いた後で、「なあ、ハム太郎」と八雲に声をかける。

「ん?」


 下駄に仁王立ちで腕組みをする八雲。ゆっくりと夏見の方に顔を向けた。

「オレたちも出会ったときは、あんな年頃だったよな」

「ああそうだね」と夏見の言葉に笑う。

「オレたちは、あんなにまっすぐだったかな?」

 少し恥ずかしそうに夏見は偏光グラスの縁を持ち上げて傾きを直す。


 八雲は口元でふっと笑ってから言葉を返した。

「僕と山崎君はまっすぐだったと思うよ」と悪戯っぽくからかう。いつもとは立場が逆だ。

「なんだよそれ」と腑に落ちない表情の夏見。

「冗談さ。みんなあんなだったよ。困った人を助けたい。自分に出来ることを増やして、救える手法や手段を増やしていきたい、って思っていたよね」

「うん」

「必死なまま時間のルールをがむしゃらに覚えまくっていたっけな」

「君は体験派、行く先々で謎を解き明かし自分の知識として吸収してきた。僕は古文書からそれを吸収していた、文書派。山崎君は伝承や継承から推理する慣習派の要素が強かったね。でも何にせよ、僕と山崎君は君に引っ張られてきた部分は大きいよ」

「そうなのか? あの頃って、余り後ろを見ていなかったから覚えていないよ」

「そういう年頃さ。でも今、そんなことを考えるようになったってことは、逆に僕たちはおじさんになったのかな」と笑う八雲。


「バトンを渡すゴールが近づいている、ってことかもな」

「らしくないなあ」と首を傾げる八雲。普段ならおくびにも出さないような言い回しを夏見がしている。

 そして、八雲は「でも何はともあれ、まっすぐな良い人材。素晴らしい次の世代が生まれ始めているのは確かだな」と加えた。

「だよな。時神さんも嬉しいかも知れないな」と夏見。

「嬉しいに決まっているさ」


 八雲と夏見は珍しく意見を一致させた。そして穏やかな顔で互いを見つめると、喜びに溢れた顔で頷く。満足そうな笑みだ。

 小夜音の座る閲覧机の前には、鏡を拭いたときの残りのカタバミが無造作に置いてある。カタバミの花言葉は「喜び」と「輝く心」。彼らはこの上なく輝いている素晴らしい次の世代を担う暦人が育っている喜びに感謝するのだった。

                                    了

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