時神と暦人4⃣ 伊勢の時間物語

南瀬匡躬

第1話 ♪温州ミカンが示す時守の里-恋の願いは志摩の風に-

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ――




 太陽の国、南伊勢の六カ所村。ミカン畑の木々の間を縫うように、必死に自転車で走り回る元気な女の子がいた。白い花を咲かせるミカン農園の木々の中を風と一緒に降りていく。

 穏やかなリアス式海岸の内海は、波の少ない入り江と、その水面から潮の香りが、丘の斜面に漂い、涼しげなアンビエンスを形成していた。お馴染み、温暖な伊勢志摩特有の気候である。


 彼女の名前は朱藤富久あかふじふく。年の頃は二十二歳。黒のリクルートスーツ、膝上丈のスカート、自転車を血眼になってこぎ続けている。物凄い形相である。乙女にあるまじき顔だ。自転車の前カゴには黒の革鞄が無理矢理押し込めてある。がさつさはそこかしこに、にじみ出ている。髪には長めの銀のバレッタが見られる。びしっとキツめにまとめた髪。勿論、寝ぐせのついた髪をカムフラージュするためだ。


 普段は不思議な貫頭着らしきワンピースにリボンという出で立ちが多いが、今日は就職の面接なのでそれ相応の姿でバスターミナルに向かう。


「やっばー、遅刻だわ。しかもこんな日に」

 オフロードレースのバイク顔負けに砂埃を巻き上げて走りゆく、富久の勇猛果敢な顔つきには差し迫るものがあった。


「あーれ、朱藤さんの孫娘やに。すごい形相でケッタこいどる」


 ミカンを丁寧にもいでカゴに入れている農家を営む近所の老人、三木元みきもとがまるで、パフォーマンスを見物するかのように食いついて見ている。

「ほんまやに」と三木元の妻も手を止めて、麦わら帽子のつばを上に挙げると、その姿を見て笑った。


『八時のバスを乗り過ごしたら、次は十一時なのよ。次の手は磯部経由で電車。それでも遅刻だわ』


 富久は六カ所村の中心地にあるバスセンターに滑り込んだ。センターの横にある知人宅に自転車を置くと、カゴに窮屈に押し込んである鞄を力任せに抜き、バスセンターに猛ダッシュ。もう涙目だ。


「そこのバス、待って! 乗ります」


 扉を閉めかけたバスに、手旗信号係のように大きく手を振り、猛アピールをかける富久。乙女には考えられない突飛な行動にバスの客もクスクス笑っている。運転手さんは笑いをこらえて、半ば締めかけた扉を見ながらレバーを押す。空気音とともに扉は再び開いた。


「ありがとうございます!」

 汗と涙と鼻水とよだれいっぱいに富久はステップを踏みしめて車内に入る。見るも無惨な乙女の姿である。それでも一挙一動に無駄がなく、機敏な所作である。


「かんぴんたんになっとるわ」と笑う運転手。

「うん。干からびたカエル寸前よ。待ってくれて、ありがとう」

 運転手にペコリとお辞儀をする半泣きの富久。このバスに乗れば、九時半の面接に間に合う算段だ。運転手は安全を確認すると再びドアを閉めた。


「相変わらずだな」

 聴き慣れた声が車内の奥の方からする。


 見れば、親戚の神代持彦しんだいもちひこが座席にいた。幼なじみでもあり、横浜時代は、伊勢まで両親の帰省に付いてきて一緒に遊んだ仲である。長袖のシャツにジーンズ姿だ。


「もっちゃん。おはよう。ひさしぶりじゃない。お出かけなの?」

 富久はそのぐずぐずな顔のままで挨拶を交わした。

「ああ、うん(持彦の心の声『すげえ顔してるな。アイシャドーが流れ落ちて、レッサーパンダみたいになっている』)」


 そう言って、バッグからひらひらとハンカチを出して、それをなびかせながら富久に差し出す。気心の知れた仲でのさり気ないフォローだ。

「ありがとう。もっちゃんには何でも分かっちゃうのね」と目頭を押さえながら受け取る富久。少しヨモギの香りのするハンカチで鼻にかかった汗も拭く。


「おじさんの具合はどう?」

「良かったり悪かったりの繰り返し。でも工業地帯にいた頃よりは病状は安定しているから良いみたい」

「それは良かった」


 体調を崩した父の療養もかねて、父親の故郷でもある暖かい南伊勢へと転居してきた彼女の一家。


「富久ちゃんもお出かけ?」

 持彦は彼女の姿を眺めて言う。

「うん」


「諦めずに就職する気あるんだ」と笑う持彦。

「なんでよ。まだ何も言っていないでしょう」

 不愉快そうに、ぷくっと膨れた富久。どうして就活にいくと分かったのか、怪訝だ。


「卒業と同時に、親にくっついて、三重に引っ越ししてきたし、土地勘も勝手も分からない場所だから諦めたかと思った」


「……。確かに、〇勝九敗の惨敗だけど、まだあと一社残っているわ」


 悪あがきにも見える富久の意地が持彦には可愛らしく思えた。

「で、これからそこに行くんだね」

「うん、って、なんで分かったの?」

「その格好見ればね」

 富久は自分の両袖から肩を見回す。リクルートスーツである。

「そっか」


「どんな会社?」

「ほぼ個人経営で、時計の修理と加工らしいの」

「へえ、どこにあるの?」

「伊勢市の町外れ」

「それでこのバスに乗ったのか」

「うん」

「六カ所村からは自動車なら二十分程度だな」

「車買うまでは、バス通勤ね」

「じいちゃんの軽トラは?」

「乙女にあれに乗って通勤しろって言うの?」


 持彦はくすくすと笑い、「お気に召さないんだね」と返した。普段は奇抜な格好をしている富久のファッションセンスからすれば、乙女を意識するとは思えない。そのギャップが彼には面白かった。

「あれに乗って良いのは、ミカンだけよ」

 富久はそう言って角口を見せた。


 思い出したように富久は、

「もっちゃんはどこ行くの?」と訊ねる。

「見ての通り、通学途中です」

「そっか、二浪で三年生だもんね。来年は私と同じ運命さ」と不敵な笑みの富久。

 するとさりげなく、「それはないな」と笑う持彦。


 その落ち着きが解せない富久。

「なんでよ」

「今のバイト先で、雇ってもらうことになっている。学費、我が家の経済状況で選んで、二浪してどうにか滑り込んだ国立大学、出遅れ組の就職がキツいことぐらいお見通しだよ」

「ふーん」と納得の表情を見せた後、彼女は、「もっちゃん、どこでバイトしているんだっけ?」と訊ねる。


「楽器工房」

 普通に答える持彦。

「あの河崎の先にあった国道二十三号線沿いの楽器修理屋さん?」

「そう」

「まだあそこで働いていたんだ」

「勿論。いまはニスの塗り方まで上手になったよ。ステインの筐体涵養、目止め液の定着、ヤスリがけ、それでもってニスで本塗りという工程を一人で出来るようになったんだよね。ボディだけは何とかね」

「いつもやっているのって、弦楽器だよね」

「まあ、リペアも含めて、ほぼ弦楽器。でもたまに古い鍵盤楽器も簡単なものはニスがけするよ……」


「ある意味、『手に職』よね。木工職人だわ」

「うん。そしたら別の時代・・で支店を出すん……」と言って口を覆う。うっかりが出た持彦。

「別の器材・・でって、何、暖簾分けなんて都合の良い夢見てんのよ。半人前の小僧のくせに、十年早いわよ」


 富久はうまいことに、大事な単語は、彼に都合良く聞き違えてくれたようだ。

「ははは。富久ちゃんの言うとおり」

 ごまかすのは余り上手くないが、何とかこの場は取り繕えた。育ちの良さからか、人柄の良い持彦にごまかしは酷である。


「いいよね、もっちゃんは、さ」

「そうかな? 僕からすれば、富久ちゃんの快活な性格のほうが僕の元気の源だけど」と持彦の台詞。彼のパッと開いた花ような笑顔が富久の瞳に映る。

 富久は持彦のこの温かな笑顔が好きなのだ。日だまりに包まれているような居心地の良さ。女子大出ということもあり異性の知人は元々少ないが、唯一素直になれる異性なのだ。


「あーあ。私も違う資格取っておくんだった」と頬杖をついて、前の椅子の背もたれにあごを乗せる富久。ぼんやりと、緑が流れゆく車窓を見ている。

「希望職種は秘書だっけ?」

「うん。結構な規模の会社の秘書の募集人数なんて、ほんのわずか。しかも地方都市じゃ大変よ」

 ため息交じりの富久は肩を落とす。



「だめだったら、僕が富久を守るよ」

 平然と言ってのける持彦。

「本気で言っているの?」

 半信半疑の流し目を持彦に向ける富久。


「勿論。当たり前だよ。僕はずっと富久の味方だもん」

「嬉しいこと言ってくれてるけど、それって、どういう意味。一生面倒見てくれるのぉ?」

 少し甘えたような声色と、意味深な言い回しだ。しかも富久は彼の反応に興味津々だ。


「いいよ」

 いとも簡単な持彦の返事。一般的にこの言葉、こんな軽く出ることはない。あるとすればジョークの時ぐらいだ。


「本気?」

 うさんくさそうに目を細める富久。


「うん、本気」と相変わらず明るく笑う。爽やかだ。そして軽すぎだ。

『こいつ、絶対自分が言っている言葉の意味をちゃんと芯から理解していないんだ。何も考えていない。そうに決まっている。何の関係性も無く、わたしを一生面倒見るって、そういうことよ? 相手が自分の言葉をどう取るかぐらい考えて、言葉を発するべきだわ』


 何気なく慰めも含めて言った持彦とは対照的に、富久の顔はかーっと熱くなり赤面した。

「どうしたの? 顔赤いよ」


「何でも無いわよ。またどうせアカフクとか言ってからかうんでしょう」

 ぷいと横を向く富久。

「そんなこと言わないよ」

 そうしているうちにバスは目的地へと到着した。

「あ、着いたね」

「うん。何とか面接しくじらないように行ってくるね」

 両手で頬をぴしゃと叩き、気合いを入れる富久。

「そっか、まあがんばれ。近いうちにおじさんのお見舞いに行くね。そんときに話そうや」

「うん」

 返事と一緒に、前を向くと、顔は真顔に変わり、ある意味ぶーたれ顔で富久は、絶望的未来にため息を覚えた。

 ただ彼女はいつも持彦の穏やかな口調とやわらかい笑顔を目の当たりにすると、悩みや悲しみが吹っ切れるのである。今ここで彼の方を振り返れば、確実に笑顔になる自分がいるのも分かっていた。現にいまも、真面目な顔とは裏腹に、彼女はある種の満足感に満たされながら歩いている。それは持彦に対する♡マークに近い気持ちなのかも知れない。



 三重県伊勢市にある伊勢市駅。言わずと知れた伊勢神宮のお膝元。神都の異名を持つ門前町、鳥居前町である。伊勢神宮に向かう観光客は、駅前通をあるいて、豊受大神宮に徒歩でお参りをする。豊受さまが外宮げくうさんである。一方の皇大神宮たる内宮ないくうさんへは、外宮前広場か、宇治山田駅からバスで十分ほどである。


「相変わらず観光客で一杯。こういうの、つんどる、って言うのよね」

 覚えたての伊勢言葉『つんどる(混んでいる、ごったがえす)』の学習再確認をする富久。


 そういった観光客や信心深い参拝客を横目に、地元住民の富久は、職探しに疲れ果てた状況の顔、つまりはぶーたれた顔で線路際を神社とは逆の方向に、てくてくと歩いていた。


大世古おおぜこ精密時計工房……」

 彼女はようやく自分の目的地を見つけた。

 線路が分岐して両側へと分かれるあたりの密集した古くからの住宅地である。そこに白いレトロな中規模の箱形五階建てビルがある。その玄関先、頭上に『大世古精密時計工房』とくりぬき文字の看板が掲げてある。

「ここだ」


 富久は玄関を入ると、面接案内状に記された三階の面接会場へとエレベーターのボタンを押した。

『チン』という音とともにエレベーターのドアが開くと、仕切り扉の隅に『面接会場→』と張り紙がある。人の気配がまるでない。単調な廊下をゆっくり歩いて、行き着いた先に『本日の面接会場』と書かれた紙が垂れ幕のように椅子の背に貼ってあった。


 その横には受付らしき男性がひとり。長身のイケメン風でブラウン色のスーツを着た男。さらさらの髪に切れ長のまつげ、三十代前半のビジネスマンといった感じだ。少々気になったのは、着こなしに対して、彼の身につけている大きな銀色のネクタイである。バランス的には大きくて、まるで柱時計の振り子のようだった。


「朱藤富久だな」

 おもむろに呼び捨てで名前を言われた富久は驚く。

「説明している暇は無い。おまえは採用だ。直ぐに一緒に来い」

 スーツの男は富久の手を引いて、更に奥の部屋へと連れて行く。

『なになになに。私一言もしゃべっていないのに、採用って。しかも椅子にも座っていないし、相手は名乗りもしていないよ』


 びしっとスーツを着こなした男は、世間的にはイケメンでも富久の好みでは無い。横暴かつぶっきらぼう。苦手なタイプである。優しさのかたまりのような持彦とは、真逆のタイプだ。ただ不思議と彼からは、檜材の懐かしい香りがしていた。


 男が連れてきたのは、大きな重い扉のある部屋だった。ガチャッと音を立ててノブを回す。中に入ると、そこは壁一面に時計がかけられた部屋だった。かなり大きな部屋だ。テニスコート一面分ほどの大きさはある。何十何百という夥しい数の時計が、同時にカチカチと音を立てて動いている。不思議な部屋だ。


『時計マニアの会社? まあ工房だしね』とさほど気にすることでも無いと思う富久。


 部屋のドアから入った正面、中央にはひときわ大きな柱時計がある。銀の振り子が長い鎖を従えるように、カチカチと動き時を刻んでいる。

『外から見たとき、こんな大きな部屋がある建物に見えなかったけど』

 外見と中の間取りが一致しない建物に、少々疑問を呈する富久。

 富久の目の前に折りたたみ式の椅子を置く男。「座れ」と一言。

 スーツの男は、部屋の片隅にある『清酒 おかげさん』と書かれた酒樽に腰掛けた。

 そして銀のネクタイに隠れていたポケットから一通の履歴書を取り出す。

「横浜の丘の上女子大学、ビジネス学科出身だな」と言う。

『あ、これ面接』と気付いて富久は、凛として姿勢を正す。

「はい。この春に卒業しました」


「今は父親の実家、六カ所村に住んでる。祖父の家があるこちらで求職中で間違いないか?」

「はい」

「祖父は福助さんだな」

「はい」と返事をしたところで、

『あれ? 履歴書にじいちゃんの名前なんて書いたっけな?』と心中不思議に思う富久。

「土の御厨みくりやの福助さんだな」と再度聞き直す。

 彼女はその呼び名に聞き覚えがあった。

「おっしゃる通り、近所の人はうちの祖父の家を土の御厨と呼んでいます」


 男は頷くと、

「うん。合格。採用だ。来週から、ここに来い。五月を過ぎても職が決まらないで良かった。我が社にとっても幸運だ。ここはお前にしか出来ない仕事が沢山ある」と加える。そして二度ほど手をパンパンと叩くと、あの重たそうな扉を開けて、ひとりの女性が中に入ってきた。黒いスカートに、白いワイシャツと質素な化粧の細身女性だ。しゃんとした姿勢を維持して立っている。


「彼女は小宅印画こだくあきえという。私の秘書だ。お前には外交秘書をやってもらうので、彼女に色々聞いてくれ。かなり時間のことはよく知っているベテランの御師おんしだ」


 そう言ってからスーツの男は印画あきえに、

「土偶御厨の家系だ。教えてやってくれ。時間が無いので、オレはもう行く」と言う。

「社長分かりました」と頭を下げる小宅印画。


『ええ、この人が社長さんだったんだ』と富久は驚く。


 社長は、軽く頷くと、

「これ持っていろ。必ず役に立つ、入社時までは常時携帯していろよ」と言って、円筒形の物体を富久に軽く投げる。

 もう一つある扉をそっと開けて、その中に吸い込まれる社長。慌ててその物体を受け取る富久は、それに気が取られてしまう。


 その隙に社長は扉へと吸い込まれた。扉の向こうには、異次元空間のようなエントロピー世界が広がっているのだが、今の富久にそんなことを判断できる冷静さはない。ただあっけにとられたのと、就職が何にせよ決まった安堵感に酔いしれる。


まとめれば、滑り込みで職を得られたことが相まって、高揚と気疲れと安堵が心の中で同居して状況判断など不可能だったということだ。

 富久が受け取ったのは、水時計である。青と緑色に着色された水の入った八の字型のガラス筒。砂時計のような風貌だ。それを覆う褐色の支柱枠に支えられた物だ。縄文時代の火焔土器風の飾りがついたデザインになっている。


「なにこれ?」

 もらった本人は、これがなんだか見当も付かなかった。


「あの小宅さん」

「アキエでいいわ」

「ではアキエさん。次回から私は何をやれば良いのでしょう?」

「そうね。とりあえず新人だし、十時までに出社して、毎日指示を仰げば良いですよ」

「はい」

「ほかには?」

「何故祖父の家が重要だったのか分かりません」


 アキエはしばらく考えると、

暦人御師こよみびとおんしの家に生まれた運命とか宿命のようなものです」と笑った。


「暦人御師?」

 復唱する富久。

「現代風に言えば、タイムトラベラーのための旅先案内人ツアーコンダクターよ」

 目が点になる富久。

「……」

 更に無言プラス、首を傾げる富久。

「タイムトラベル……時間旅行?」


「そう、時間旅行」

 さも当たり前のようにアキエは笑う。

「SF小説?」


 富久の言葉に、

「あら? まだ知らない人だったのね」とアキエ。その含みのある笑顔を見せながらも、アキエは答えを出さないでおいた。最初は口で言っても信じてもらえるはずもない。本人が暦人の存在を信用、理解するためには、実地で自分自身が暦人を体験しないといけないからだ。


「ところでアキエさんは、バス通勤ですか?」

 彼女の言葉にアキエは仕事に関心を戻す。

「そうだったわね。わたしは電車、松阪から通いなの」

「大都会だ」と笑う富久。

「どちら?」

「六カ所村です」

「南伊勢地方ね。温暖でのどかな場所。ミカンが美味しそう。そっか……。磯部から電車に乗るってのもあるわね」

「でも東宮に近いので、バスの方が無難です」

「なるほど。土偶御師って言っていたもんね。社長」

「ドグウオンシ? なんですかそれ」

 腕を組み不思議な話しに疑問のポーズで富久は首を傾げる。


「いずれ追々ね。今は、じゃあ、交通費の精算と定期代の算出、それに三ヶ月間の試用期間のスケジュールをお話しするわ。一階の事務室で続きは……」

 アキエは意味ありげにそう言うと富久の背中を押して、エレベーターに彼女を押し込んだ。


『なんか、いとも簡単に決まった就職。今までの苦労は何だったのかしら?』

 地元のバスセンターのベンチへと腰を下ろす富久。慌ただしい面接と説明が終わり、バスに揺られてホームタウンへと戻ったところだ。今朝、バスを止めた場所である。


「おかえり」

 肩を叩いたのは、持彦だった。見慣れた笑顔だ。

「あれ? 行きも帰りも会ったねえ」

「本当だ」と笑みを浮かべる持彦。そして「どうだった?」と面接の成果を訊ねた。

「うん。受かったよ」

「その日にわかっちゃうんだ」

 そう言って、彼は富久の隣に腰を下ろす。

「言ったでしょう。個人経営に近い規模だって」

「そっか。でもそれにしては余り、はしゃがないんだね。いつもなら喜びいさんで、って感じなのに」

「複雑」

 ぼんやりと膝の上で頬杖ついて、アスファルトを見つめる富久。

「富久にそんな顔は似合わないよ」


 彼の言葉に、

「それじゃ、いつも私がなにも考えていないバカみたいじゃないの」と悄気しょげる富久。何を言っても駄目な、もやもやした気分だ。

 その言葉に気を遣ったのか、持彦はもう一段上の笑顔を向けてきた。慎重に対処し、物事の両面性をしっかりと理解している富久が、彼には嬉しかった。


「じゃあ、ご褒美」

 そう言って、彼が差し出したのはコンサートのチケットだった。プレイガイドのロゴが入った優待券と印刷された券だ。

 反射的に差し出されたチケットを受け取る富久は、その印字された演奏家名を見て驚く。

角川栄華かどかわえいかじゃないの。しかも明後日、新二見市民総合芸術センターに来るのね」

「うん。好きだったろう、彼女のピアノ」

 持彦の言葉に、

「そりゃあね、国際的なピアニストだし……。でも高かったでしょう。クラッシックの一流どころのチケット」と心配そうに顔を見る。

 すると彼はいつものお気楽顔で、「頂き物だよ」と言う。富久は長い間ピアノを習っていて、クラッシック音楽が好きだったことを彼は知っている。大学の学部を選択するときにも音楽かビジネスかで相当悩んでいたくらいだ。


「ええっ? なんで、もっちゃんが頂けるのよ。こんな有り難いチケットを」

「そりゃ、一応関係者だもん。バイトとはいえ楽器工房で働いているから。こういうこともあるよ。社内での希望者に名乗りを上げて、半ば強引にゲットしてきた。富久のために」

 そう涼しく言い放つ持彦。どことなく誇らしげにも見える。

「そっか。ありがとう。じゃあ、手放しで喜んでもらっちゃっても良いのね。もっちゃんのお財布はイタくないのね?」

「うん。もちろんだよ」

 相変わらず、物静かに、優しい声が富久を包む。

「少し気がほぐれた……」

 そっと呟く富久。

 その横で「富久とデート出来る口実」と惚け顔で言う。だが残念ながら、その恋の言葉は富久には届いていなかった。

 富久はと言えば、うっとりした顔で、

「夢のような大ピアニストの調べが聴けるのね」と遠くを見つめていた。星僅派せいきんは趣味の文学少女のように。

 富久の意中で、目下蚊帳の外とわかった持彦。苦虫をかみつぶしたような顔で、そっぽを向きながら『まだまだねんねかな』と心中呟いた。




 同時刻、富久の言う、『夢のような大ピアニスト』は、夫である夏見粟斗なつみあわとの愛車スズキ・カプチーノで東名高速道路を名古屋付近に差しかかっていた。


「粟斗さん、急いで今日中に着いてね。急に入った仕事なの。初めてのプロモーター・イベントオフィスで勝手も分からないから」

「こっちだって勝手は分からないんだ。それこそ勝手なこと言うなよ。今日は三連休の初日で、ようやく家でごろごろ出来ると思っていたのに……」


 恨めしそうな顔でハンドルを握る粟斗。

「だいたいマネージャーはどうした?」

「ちょうど求人出している最中で」

「オレはマネージャーじゃ無いぞ」

「マネージャーより頼りになるわ。素敵なダンナサマですもの」

 ここぞとばかりに持ち上げる栄華。胸元に両手の指を組んで、祈りのポーズ。いかにも、と見えるわざとらしさに満ちた瞳を向けている。

「普段からそう思えよな」

「あら、思っているわ。四六時中」


 この二人、つまり売れてるピアニストの角川栄華とさえない文筆業ルポライターの夏見粟斗なつみあわとは夫婦である。年齢は夏見が五十歳なりたて、栄華が三十代半ばの夫婦だ。どちらも暦人御師である。そう、小宅印画とは同業の時神に仕える身だ。その辺はおいおい見えてくるので、ここではこの程度の紹介にしておこう。


「奥さんが電車に乗り遅れて、後発のチケット取れなかったんだもの、助けてくれるのは当然だわ」

『飛行機や高速バスもあるだろう! なんだったら東海道を歩け! 明治以前はみんなそうしてお伊勢参りに行っていた』


 そう、のど元まででかかった夏見だったが、今し方、浜名湖近くのパーキングエリアで、ひつまぶし懐石をごちそうになった手前、その言葉を押し殺した。かなりの格差婚であるこの家は、こういった場面で、亭主はそのポリシーの変更を余儀なくされる。いや彼のポリシーなど、浜名湖のウナギの前には捨てるために存在している。笑わずにはいられないほど、『聞くも涙』の物語である。


「どうでもいいんだが、ひとの車の助手席に座って、顔にパックするのやめてくれるか。さっきパーキングエリアですれ違った対向車のドライバーが怯えた顔をしていた」

「あらどうして?」

 早速、そのカオナシの白いパック姿を夏見に向ける。彼には彼女のその姿、カオナシののっぺらぼうが、オレンジ色のワンピースを着ているようにしか思えない。

「わあ、こっち見るな。無事故で三重まで行くんだから。まったく、『世界の調べを鍵盤と音譜で紡ぐピアニスト』とかチラシに謳うキャッチの言葉が聞いて呆れるよ。世界のカオナシとぬらりひょんを体現するピアニストって感じだ」

「運転していなかったら、このラベルの『夜のガスパール』の譜面で頭叩いてやるところだわ」

 結構、凶暴な性格をした『夢のような大ピアニスト』である。お約束で、寸止めでやめるところもご愛敬である。


「二見だよな、会場ホールは」

「うん。でも宿は伊勢市の駅前に取ってあるからそっちに向かって。もうひとり追加しておいたから、粟斗さんも今日は泊まっていってね」

「当たり前だ。これで君を送り届けたら、直ぐ帰れ、って言われたら断固拒否するところだ。伊勢の美味いもん食べて帰るのが、オレの報酬だ」

 何のかんの言っても、屁理屈をこねながらも、しっかりと思いやりのある仲の良い夫婦である。


「だけど、なんで新幹線に乗り遅れたのさ。しっかり者の君がそんなヘマするかな?」

 会話はしているが、慎重にフロントカラスに視線を向けたままの夏見。

「そこを言われると、少々合点がいかない部分が自分でもあるのよ」

「どんな?」

「ほら、寝室のベッドサイドに袖机があるでしょう」

「うん」

「その上にセットして置いた時計が、今日に限って下に落ちていてね。電池が飛び出しちゃって、時計が止まっていたのよ」

「地震なんて無いし、寝返りで落ちる距離でも無いね」

「寝返りしたら、私だけがベッドの下よ」

「確かにね」

 海岸線を走り、みえ川越インターを降りて、国道23号線に入る夏見のスズキ・カプチーノは四日市方面という案内板を道なりに目指し始めた。

「オレが三連休と分かっての日にか……。しかも伊勢方面へと……うーん、微妙だな」

「そうなの。あくまでこれだけの根拠じゃ、偶然とも言えるでしょう」

「うん。まだ託宣とまでは言えない」

「ね。難しいのよ」


 栄華はパックを顔からペリペリと外し始めて、ようやく夏見は安堵する。町中の一般道をあの顔で乗車された時は、勘弁してもらいたいと思っていたからだ。

「さて駅前であんころ餅を買って、宿で食べよう」

 夏見の脳裏には伊勢名物のあのお餅が浮かんでいた。



 公演当日。新二見総合芸術センターは二見の駅とバスセンターの間にある公共施設である。四時開場、五時開演というスケジュールに、富久たちは余裕の到着をしていた。お昼前だ。バスの待合室の長いすスペースの壁には角川栄華のポスターが貼ってある。ラベル、ドビュッシー、ショパンと十九世紀から二十世紀初頭に活躍した音楽家の作品が本日のセットリストとなる。


「やっぱり素敵な女性よね。笑顔に品があるわ」

 ポスターの写真を見た富久は、お追従ではなく本気でそう思っている。横でパックした顔を突きつけられていた粟斗が聞いたら、飲んでいたお茶を勢いよく吹き出すこと間違いない。

「うん、上品そうだね」

 持彦も同意する。


 しっかりとおめかしした富久は、綺麗なレモン色のニット、上下のドレスである。初夏にふさわしい服装だ。思わず見とれた持彦。それに比べ麦わら帽子に、フェンダーとロゴの入った長袖Tシャツの持彦とは、一目で対照的であるのが分かる二人連れだ。ここでは正確に伝えるため、あくまでこの二人をカップルとは書かない。未だ、ステディでは無い男女。でも両思いである。


「始まる前に簡単に何かおなかに入れておこうよ」

 持彦の提案に、「うん」と頷く富久。二人はロードサイドの飲食店が並ぶ通りへと歩き始める。


 ホールの中では栄華の直前リハーサルが行われている。その横で夏見は舞台袖の控え室の椅子を横に並べて昼寝していた。本来なら家でゴロゴロできたはずの休日、巻き込まれてこのありさまだ。


 数曲を弾き終えた栄華は、スタッフの拍手に気付く。彼らの方を振り返ると、にこやかに会釈した。


「栄華さん、今日も素敵です」

 賛辞の嵐の中で、粟斗は、

「舞台下手の聞こえが良くないよ。もう少しピアノ気持ち五時の方向に向けてあげると良いな」と寝そべりながらぶつぶつ言う。

 その言葉に栄華は、ハッと気付くと、

「粟斗さんありがとう」といって、機材班に駆け寄っていった。

 賛辞を送ったスタッフの一人が、「誰?」と粟斗を見る。

「旦那さんよ」と別のスタッフ。

「ええっ? ライターの夏見さんなの、あの人が」

「うん」

「よく雑誌にコラム書いているわよね」

「のらくら人て、栄華さんがインタビューで言っていた理由が分かる」


 若い女性のお茶請け話にされそうになったので、粟斗は起き上がると、舞台袖の見えない場所に完全に引っ込んでいった。

「やれやれ。ああいうのは苦手だ。オレはやっぱり山崎やハム太郎を相手にしている方がいいや」

 そう言って、大きくノビをしながら、控室のある方へと消えた。


 五時少し手前、入場はもっと前、とっくに始まっていたが、腹ごしらえを済ませてからの到着となった富久と持彦。十分前に半券を渡すとホールロビーのソファーに腰掛けている二人。

「あと少しだね。席に着こうか」

 その言葉に頷く富久。立ち上がると並ぶように二人はホール内に向かって歩き始めた。

「この人、帰国と同時に、トリーサンホールのコンサートをやったのよ。すごいわ」

「へえ、クラッシックの殿堂でコンサートか。すごいな」

 二人は新二見市民総合芸術センターのホールは初めてである。最近出来た新しい施設だ。

「それにしても、こぢんまりしている割には良く出来たホールだ」

「収容人数は二百人ほどで、都会のホールからすれば小さいけど、音響効果は良いって書いてあったわよ」

「何に?」

「音楽関係の本」

「調べてきたんだ」

「勿論、折角だもの楽しまなくちゃ」

「そうだね」

 既に多くの人が着席している中、ほぼ中央の区画の最前列に位置する場所に二人は座った。

「弾く手の動きまでもが見えそうなほどの距離感だ。ステージが近いね」

「本当。どんな弾き方するのかしら、楽しみ」

 歓声が上がると、シンプルなシルク地の膝丈ドレスで登場する栄華。今日は動きやすそうなステージ衣装だ。そして最高の笑顔である。

 一旦ステージの中央に来ると、深々とお辞儀をして、

「本日はお忙しい中、足をお運び頂き本当にありがとうございます。今日は十九世紀のクラッシック音楽のヒットメドレーをお楽しみ下さい。今日のステージはパーティーを楽しむようなクラッシック演奏で参ります」とマイクで挨拶をした。


 舞台袖、片隅のスタンドにマイクを戻し、彼女はスポットライトの当たるピアノの椅子に腰掛ける。両手を振り上げて、というその時だった。

 静寂が辺りを包む。

 そう、全ての時計が止まる世界、モノクロームの世界が栄華を支配した。


『この感覚って!』

 異変に気付いた栄華は、一旦手を下ろし、辺りを見回す。

「止まっているよ。おそらくメッセージだ」

 富久の横にある通路側の半分開いた扉で男性が声を出す。夏見だ。控室から近いドアを開けて、身を乗り出している。自分の頭上にある、会場の大きな時計も秒針が止まっている。


「なんで?」と栄華。

 肩をすくめて、あきらめ顔の夏見が、

「誰か、この中にいる人間が時神さまの託宣を受けたってことだろ。その原因の人物は、直ぐ分かる。静止状態の中で動いている人物さ」と言って、客席を見回す。彼の近くにいる富久と、そのまた隣にいる持彦に視線を向ける。


「おや。止まっていないと言うことは、君たち暦人か、時神さまの託宣人だろ。静止状況の原因の人物だね」と夏見が続ける。

 答えたのは持彦だ。

「はい……暦人です」

「なりたてか?」

「はい」

 明らかにその横でキョドっている富久。初めての時間停止世界に、正気の沙汰ではいられないという感じだ。


「なにこの状況は? 私と角川栄華さんともっちゃんと、そこのおじさんの四人以外、会場の客席全員が白黒写真のように色あせて止まったままだけど」

「お嬢さんは初めてかな? 時間停止世界」

 無言でうなずく富久。


 慌てずになれた口調の夏見は、優しく諭すように始めた。

「暦人はいにしえから続くタイムトラベラー。選ばれた者が時間移動をして、人々に幸せを与えるという役目を担っている。いわば隠密の慈善活動だ。時間停止は時神さまからのメッセージの場合が多い。初めての暦人が、無事に時間を再び動かすことができるようになるための試験のようなものだ。身に覚えないかい?」


 夏見の言葉に、彼女は会社のアキエの言葉を思い出す。

「タイムトラベラー? あっ!」と驚く富久。急いで社長にもらった水時計をバッグから取り出した。


「良い物持っているね」と笑う夏見。見れば七色に光りながら、中の液体がマーブル模様を描いて動いている。

「アミュレットの一種だな。関東では余り見ないタイプだ。光るユリ根の粉と漏刻水でも入っているのかな?」と夏見。


「なに私にも教えて」

 そう言うと栄華はドレスの裾を押さえて、ステージから降りようとした。仕方なく夏見は栄華の近くに駆け寄る。そして手を貸した。

「ええ! 栄華さんをこんな間近で見られるなんて感激だわ」

 頬を押さえて喜ぶ富久に、

「暦人同士、これからはいつでも見られるよ。しかも今、それどころじゃないだろう」と夏見は苦笑したまま加えた。

「君、漏刻ろうこく、あるいは埴輪はにわとか土偶どぐうの関係者かな?」と夏見。褐色をおびた火焔かえん型の支柱枠から推測をする。


「近所の人は土偶御厨とか土の御厨と我が家を呼びます」

「ほお、かなり興味深いお家だね。関東には無いからな。そういう御師の家は」と富久の言葉に素直に応える夏見。

「関東にはないんですか?」と興味ありげに割り込む栄華。


「うん。ないと思う、七曜星とか、風水の影響で、水、金、土などに関連する御厨が関東より西には幾つか点在している。希有な存在の御厨なんだ。本来の御厨は、食物の産地を指しているから、供物を調達する土地だけど、その供物を捧げる容器、食器や道具の材料を調達する場所も御厨として少々存在している。それらの御厨にも時神さまの使いの者が住んでいるんだ。そのひとつが土の御厨御師」


 夏見の説明に富久が、

「それが私のおじいちゃんという訳ですね」と納得する。

「そう。だから君の家の血筋は土の御厨と言って、土器かわらけ土偶どぐう埴輪はにわをつくるための土を献上し、監督した御厨の御師だ。さすが伊勢神宮のお膝元だね。献上品を美しく彩る食器を時神や多くの大神に献上してきたんだから、御杖代みつえしろだった倭姫やまとひめも、お食事の世話をなさる豊受大神とようけのおおかみもお喜びだよ。火焔かえん装飾の土器なんてもう芸術そのものだよね」

 栄華も、夏見の話に納得の様子だが、止まってしまった観客たちを目の前に、ふと我に返る。


「……って、それは分かったけど、どうやってこの時間を動かすのよ、粟斗さん!」

「うん。どこかにその鍵となるヒントがあるはずだ。きっと彼女の持つ、その水時計もアイテムの一つだ」

「まだそれしか分からないって事?」

「ああ。この時間停止世界の復旧っていうのは、ケースごとに毎回復旧方法が違うから困るよな」

「共通の対処方法って無いのかしら?」

 栄華の言葉に、

「時留め神社でお参りする方法だ」と返す。


「横浜の元町の神社さんみたいに?」

「そう。ああいった時留め神社は各地にあるから、伊勢地方のその神社を探す。でも交通機関も止まっているこの世界で、そんなことするより、託宣の解読した方が早い」

「たしかに」と栄華。ふと夏見は栄華の身なりに気が行く。

「どうでも良いが、君、ステージ衣装でこれから歩き回るのか?」

「それは避けたいわよね。……もう折角セットしたのに。楽屋で着替えてくるわ」

「その方が良いね」

 夏見がそう言うと、ため息交じりに栄華は楽屋へと引っ込んでいった。

 


「さて弥次喜多の道中記ではないが、旅は道連れともいう。そこのお二人さん、この辺で自己紹介といこう。うちのお嫁様を含め、我々は桜ヶ丘御師という肩書きの暦人御師で、横浜の桜ヶ丘のタイムゲートを管理している。もとはオレが千葉の船橋御厨の御師、妻の栄華は東京の飯倉御厨の御師だ。御厨は律令時代から中世にかけての伊勢神宮の荘園領地。その中心地に伊勢のご祭神を有する中心神社があり、そこにタイムゲートがある。我々の間では金色の御簾とか、虹色の御簾と呼ばれるものだ。その管理や世話を行うのが暦人御師というわけ。いわば暦人のリーダーみたいなものだ」


 富久は冗談だと思っていたアキエの話を、いま夏見の口を通して現実の話しとして真面目に聞いている。その眼差しは真剣だ。

 夏見の言葉にまずは持彦が話し始める。

「僕は三ヶ月前に初めて託宣によるタイムスリップした経験を持つ暦人で、神代持彦っていいます。託宣以外の移動は昔、何度か経験ありました」

「ほう」と頷く夏見。持彦は富久の肩に手をやる。

「こっちは僕の遠縁、つまり、親戚で、さっき話にも出た土の御厨の家の者で朱藤富久っていいます。朱はあかねぞらで使うアカネの字です。子供の頃から一緒に過ごしている幼なじみです」


「見たところ二人とも二十代くらいか?」

「はい」

「君たちはとても良い子だ。オレの知り合いの二十代は、きかん坊ばっかりでね」と笑う。勿論、夏見の脳裏には、晴海とみずほの顔が思い浮かぶ。


 そこに栄華が戻ってきた。お気に入りのオレンジ色のワンピースだ。着替えのため、結局セットした髪を下ろしてしまったようだ。時間が動いてからのコンサートを考えると再セットアップが大変に感じる。

「ふう、お待たせ」

 そう言って夏見の前で一息ついたポーズを見せる。

「ごめん、栄華ちゃん、君、背中に何貼っているの?」

「えっ?」

 夏見の言葉に、子供時代に背中に『バカ』と貼り紙される悪戯を思い出す。

「取ってよお」

 ペリッと剥がすとそこには、


陰陽師おんみょうじ身の上知らず 陰陽寮おんようのつかさ陰陽頭おんようのかみ陰陽博士おんようはかせ・天文博士・暦博士れきはかせ漏刻博士ろうこくはかせ』と書かれていた。


 夏見は「これで間違いなく託宣だということが明白になった。次の託宣が用意された。こうやって託宣の意味を状況から判断していく、いわば推理ゲームだ。時神さまの御心を言葉ではなく、兆しで解いていくのが使命だ。全てを解き終わると誰かの幸福に必ず繋がるというわけだ」と呟く。


 富久は夏見の解説を、逐一メモを取りたいぐらいの気持ちだった。学ぶべき事が一気に押し寄せている。


 夏見の持つ、その紙を三人ものぞき込む。

「なんて読むの?」

「『陰陽師身の上知らず』はことわざなので大丈夫でしょう。次がおんようのつかさ・うらのかみ・おんようはかせ・てんもんはかせ・れきはかせ・ろうこくはかせの順だ」


 夏見の言葉に、「ことわざも教えて。ピアノバカなのわたし」と少々可愛い子ぶる栄華。

「こういうのはハム太郎や山崎のほうが詳しいんだよな。古文書読めるヤツには敵わないからな。まあ。いいや」

 そう言って言い訳めいた台詞の後で説明を始める夏見。

「ことわざの意味、これは陰陽師は人のことは占えるけど、自分の未来はわからない、と言う意味だ。ニュアンス的には『紺屋の白袴』や『医者の不養生』に似たことわざだ。人のことは分かるけど、自分のことはなおざりという意味に繋がる。だが今のこの場合には、我々暦人の範疇では無いというリミッターのような意味に取れる」


「もう少しかみ砕くと」と栄華。


「陰陽師と違って、我々は未来のことが分かるという意味さ。暦人は時の旅人だからね。陰陽師と時間の管理人である漏刻博士などの時の番人のトップは、同じ陰陽の寮に属していたらしい。……が、我々に式神は操れないし見えない。でも暦人は時巫女や付喪神を見ることができる。自分の未来を予測できない陰陽師と違って、オレたちは虹色の御簾を潜って、未来を見ることが出来るという反対の内在する意味に取れるとオレは考えた」


「へえ、なるほど。さっすが粟斗さん。で、次は?」と大きくうなずく栄華。


「今言ったように、古代、かつての『おんようのつかさ』は陰陽関連を受け持った朝廷内の役所だ。『うらのかみ』は、その役所、つまり卜占ぼくせんたる占いとれきである時間の役所のトップという意味だ。まあ今風に言えば陰陽寮だから気象庁、文科省、総務省を統合した役所の長官ってところだ」

「うんうん」

「『おんようのはかせ』は占星術部門、つまり陰陽師のトップってことだ。そして天体学者、気象学者部門のトップが『てんもんはかせ』ってこと」

「うん。そして残り二つが、私たち暦人に少し関係ありそうよね、漢字で見る限り」

「そう。暦博士はこよみを作って、朝廷の帝に奏する役目。そして漏刻博士は時計の番人なんだ」

 そう言い終えた後で夏見は、「ん」と頭に何かがよぎったようだ。


「漏刻イコール水時計か……」


 そう呟くと夏見は富久の顔をみて頷く。

「あなたの勤める会社、時計屋さんですか?」

 驚いた富久は、

「はい。そうです。すごい。なんで分かったの?」とまん丸の目を向けた。

「わかった。この会社の人が栄華ちゃんを呼んでいる。これ栄華ちゃんをご招待したいんだと思う」

「なぜ?」と栄華。

「君が、もと飯倉の御師だからさ。時間世界の素人である、この子たちの御杖代なのかもね」


 栄華にそう言った後、再び、

「その会社、小宅家の人いるでしょう?」と夏見は富久に訊ねた。

「はい、私の上司になる秘書さんが小宅さんです」

「松阪の」という夏見に、

「はい」と頷く。

 夏見は既に出来上がっている解答例を発表すること無く、

「もう誰だか分かったよ。その人物。とりあえず出来レースのようになっているのは既にお見通しだけど、直接お伺いするのも何なので、あえて順序に則って手続きを踏みましょう。それに富久ちゃんの暦人についてのお勉強のためにもね」と軽いウインクをした。


 二見から時間の止まった五十鈴川派川いすずがわはせんに沿って歩く四人。川面の小波すら、写真で切り取った瞬間のように止まっている世界である。五十鈴川は1400年代に地殻変動で流れを変えて、本流だったこの派川から勢田せた川に合流するような河道に変わった。いわば派川は河跡かせきに近い流れとなった。


「こいつを登っていくとね、五十鈴川の本流に出る。更に登ると月読さまの先に道案内の小宅分家がある。ちょうど内宮前のお土産店街と並ぶ河川敷辺り、サルタヒコのお宮さんに近い場所だ。そいつに道案内を頼もう」


「道案内?」と栄華。


「彼の家は土産物店を営んでいる。もともとは金属鋳型、金型を作って、土産物の置物を作っていたんだ。文鎮とか模型、ガラス細工とかね。小宅大那こだくだいなくんっていうんだ。江戸末期の頃、松阪小宅家から分家したんだ。当時は鍛冶屋、鋳物屋さんで今はお土産物屋さんだよ。いまでも金属の置物土産は自社製だし、家の中にふいごや炉を持っている」


「それが水時計となんの関係があるの?」

「正真正銘、金属加工の火の御師さ。土の御師は外枠を作り、おそらく水時計のガラスは火の御師のそこで作られた物だね。丸いガラス玉を冷めないうちに二つ組み合わせて作っている」


「あ、ガラス加工も鍛冶屋さんの仕事か」と栄華も江戸切り子のガラス工場を思い出した。

「そう」

「あつい液状のうちに、大きなストローのような鉄の筒で丸く膨らますのが一般的だ」

 栄華と夏見のやりとりに、若い二人は熱心に耳を傾けている。

「すごいね」と持彦。

「これって、一応託宣を解いているのよね。謎解きの連続だわ」と富久。


「そうなんだ。暦人って、自分の暦や時間の知識と送られてきたメッセージを照らし合わせて、その託宣を解読することで、人助けをするんだ。時神さまが頼んでくる仕事を、任務を遂行するって感じさ」

「見ている限り、夏見さんが全部解いているみたいね」

「すごい人だ」

 若い二人は、その鮮やかな謎解きに魅了されていた。


 四人は河川敷に大きな橋梁を見る。その下をくぐり、いよいよ内宮前の観光店街の入口に差しかかった。右側、駐車場の奥、遠くにはみちひらきの神の森が見える。

 モノクロームの世界の中で、一軒だけ動いている煙が出ているのが見える。モノトーンの景色の中で、ポツンと茶色の柱と梁のついた建物が存在していた。前面は白壁のたな作りの建物だ。典型的な街道沿いによくある日本家屋である。


『小宅土産物店』と書かれたお店だ。


「ここが宇治山田地域で時間の迷子になったときに駆け込める講元宿こうもとやど、小宅土産物店だ」

 若い二人に栄華は、

「暦人が時間に迷ったときの駆け込み所として利用する場所が、御厨各地区にほぼ一カ所は設置されているの。講元宿っていってね、大昔は泊めてあげたようなんだけど、現代の私たちは宿泊施設が充実しているから、別に泊まる必要ないの、時間の案内所って感じ。だいたいはその御厨地区の暦人御師が経営しているわ」と説明を入れた。


 夏見が店の奥を覗く。

「あれ、夏見さんか、この時間停止の原因は」と笑顔で三十歳前後くらいの男性が笑っている。

「こんちわ、大那だいな君。先に言っておくが、オレじゃ無いよ、この原因」


「おやおや」と興味ありそうに奥から店先まで出てきた大那。


 彼は栄華の顔を見るなり、

「ああ、ピアニストの暦人御師さん。角川栄華さんじゃ無いか。本物初めて見た」と言う。


 栄華はにこりと笑うと、

「主人がいつもお世話になっています」と会釈をする。

「夏見さん、綺麗な奥さんもらって良いなあ」と頭を掻く大那。

「でもしばらくぶりだなあ。俺が高校の時だもんな、最後に会ったの。今日は山崎さんは一緒じゃ無いの?」

「うん。最近はヤツも忙しくてかまってくれないんだ」と笑う。

「仲良しだもんな、二人。なんか優しくて、真面目で、知的な二人。俺のあこがれる大人って感じだった」


 おそらく夏見と山崎のことを言っているであろうこの台詞に栄華はピンとこなかった。特に『知的』の辺りが。

「粟斗さんのこと言ってます?」

 軽く夏見の背中を突いて問いただす栄華。

 夏見は得意げに、

「もちろん。特に知的な、のあたりはどんぴしゃ、的確に捉えているねえ」と踏ん反り返る。

「知性のかけらも見たことありませんけど」と苦笑する栄華。

「ほっときなさい」と軽い突っ込みで返す夏見を横に、大那は、夏見たちに少し距離を置いて後ろに佇んでいる二人に気付いた。

 彼は意味ありげな笑いを見せると、

「時間止めの原因はあの二人のようだね」と笑う。

「だね」と夏見。


「こんにちは」

 大那はふたりを手招きした。

 遠慮がちに近づく二人。

「朱藤富久と言います」とお辞儀をする富久。


 そして持彦が言葉を出しかけると、大那の方から言葉を発した。

「ああ、持彦くんは知っている。フィドルじいさんのお孫さんだ」と笑う。


「フィドルじいさん?」

 富久は不思議な顔で持彦の横顔を見上げる。

「楽器工房23のオーナーさんだもんね、おじいさん。昔良く商工会議所の会合に付いてきていたもんな」と笑う大那。

「なに、もっちゃんのおじいさんの工房だったの? あの楽器工房」


 持彦は『ばれたか』という顔で気まずそうである。

「もう、親族経営なら就職も何も無いじゃ無い。跡継ぎってだけよ」

 やられた感満載の富久だ。

「まあね」

 相変わらずバツが悪いようで、鼻の頭を指で擦りながらそっぽを向く持彦。

「楽器工房23も講元宿の筈なのに、どうしてこっちに来たの?」


 その質問には夏見が入る。

「オレが連れてきたんだ。託宣でこっちに来ないといけなかった」

 再度夏見に視線を移すと大那は、

「託宣だったのか」と頷く。

「……ってことは、こっちのお嬢さんのいきさつを訊かないといけないな」

「私のおじいちゃんは、土の御厨の家でミカン畑を経営しています」

 その言葉だけで大那はピンときたようで、

「六カ所村の福助さんだ」とあっさり見抜いてしまう。

「ごぞんじですか?」

 大那は軽く笑うと、

「この辺りの暦人で福助さんを知らない人はいないよ。有名人だ」と言う。

「それで、私、就職活動をしていたら、時計工房の社長秘書に受かりまして、そこの社長さんから水時計を頂きました。そしたらその水時計を持ったときから不思議なことが始まって今に至ります」

 そう言って鞄からさっきの水時計を差し出した。

 大那はそれを受け取ると、「大変な物を受け取ったね。初心者向けのアイテムじゃ無いよね、このアミュレット」と苦笑いだ。

「やっぱりそいつはアミュレットなのか?」と夏見。

「時のアミュレットは時止めや託宣に従わされる魔法がかけられているのよ」と栄華は若者ふたりに説明する。


「じゃあ、これを持っていたことでみなさんを引き寄せてしまったのですか?」

「半分正解」と夏見。

「半分?」

「君は持っていたのでは無くて、持たされてしまったが正しい。だから君の責任では無いよ。この持ち主は栄華ちゃんかオレを呼びたいがためにね」

 少しほっとしたようなぎこちない笑みで、夏見に礼を言う富久。

「ありがとうございます」


 大那は水時計の分析にかかる。

「うん。これね。八の字のガラス部分はうちで作ったのよ」

「やっぱり」と夏見。

 そして「それで大那君に会いに来たのさ。なにか分かると思ってさ」と加える。


 納得した顔の大那は、

「周りの素焼きの火焔模様の台座は彼女、富久さんのおじいさんが焼いた物だよ」と思わぬ情報を出してくれた。

「おじいちゃんが……」と富久。

 更に続ける大那。

「それでもって、中の水に見える液体」

「水じゃないのか?」

「これねえ、漏刻水とお酒の混合液なの。しかもお酒の方はお馴染みのキンモクセイの……」

 そう暦人業界ではお約束の重要な供物である。熟知の皆の中で頷いた栄華。

桂花けいかの御神酒なのね」

「うん」


 彼はそう頷いてから、少し間を置いて、

「この桂花の御神酒を造ったのが、持彦君のおじいさんだ」と加えた。

 当の持彦は少し驚いた顔をする。

「工房の庭にキンモクセイの木があるだろう」

「はい」

「原材料はあれだよ」と教えた。


「桂花の御神酒は、暦人が使う時越えのアイテムなの。覚えて置いてね。古い暦人の家の庭には結構な割合でキンモクセイが植えられているわ。多くの場合は三島の暦人から大昔に貰ったものらしいの」とやはり栄華は優しく二人に説明した。

 栄華の説明に軽く頷いた夏見は、そのまま大那の方に顔を向けてぼやく。


「伊勢地方の三馬鹿トリオ御師の共同作業品って訳だ。そのアミュレット。土と火と水の御師に誰かが霊力を加えた。それが時計屋で、西の暦人御師のトップの人か」

「それって、今、三馬鹿に、俺をさり気なく、加えたよね」と渋い顔の大那。

「いくら時止めに付き合わされたからって、俺たちを馬鹿呼ばわりしなくたって……」と不満そうだ。

 夏見は少々不敵な笑みを浮かべると、「会うのが楽しみだねえ」と武者震いした。


「これでこの水時計を構成する材料の全てが出そろった事になるね。それにまつわる人物も焼き物の出た家の富久ちゃん、液体の出所の持彦君の家、ガラスの出所の大那君か。里見八犬伝みたいに皆揃っていくねえ」と笑う夏見。

「俺、犬って文字、名前に無いけどね」と笑う大那。


 そして「富久さんって言ったね。あなたの受かった会社は『大世古精密時計工房』だと思うけど、間違いないかな?」と見当をつける。

「はい」

 すると大那は安堵したように、

「お兄さんはその人と知り合いなので、今から道案内するから、一緒に文句を言いに行きましょう。こんな物騒なもん、成り立ての暦人に持たせて、どういうつもりかお仕置きしましょう」と笑った。

「はい」と富久。

 夏見と栄華も少々安堵したようだ。


「なっ。ここに来て良かったろう」と笑う夏見。

「相変わらず、物知りで頼りになるダンナサマだわ」と夏見の頭を撫でる栄華。

 納得していない仏頂面で、欲しくも無い施しの行為を甘受する夏見。ぽつりと「オレはこどもか」と解せない突っ込みを入れる。


「おーい!」と店の奥に声をかける大那。

 突っかけ履きで、頭の横っちょにおかめのお面をつけた女性が走り寄る。浴衣姿だ。縁日道具も扱う店なので、こういう格好もありだ。帯には風車も刺さっている。

「伊勢市の駅前の時計屋まで行ってくる。大世古のところ。店番頼む」と伝える。

「はい。わかりました」と彼女は皆に無言で会釈をして微笑んだ。

 そして夏見に、

「女房の小夜音こやねって言います。日本舞踊の教室をやっています」と紹介した。それもあって浴衣なのかも知れない、と皆は思った。

「なんだ。大那君も奥さんいたんだね」と彼女に会釈を返す夏見。


「旧友の夏見って言います」


 夏見の台詞に、

「はい、存じています。義姉ぎしから色々お噂を聞いていますよ。お会いできて光栄です」と嬉しそうに返す。

「義姉? わじんでん……なんちゃって」とちゃらける夏見。

「私の義理の姉は越模映美こすもえいみっていいます。ファッションモデルやっています」

「ああ、あのかしましい三人の中で一番まともな人だ」と返す夏見。笑いをこらえる小夜音。小刻みに震えている。「くくく」と小さな声が漏れた。


「ちょっと他の二人に失礼ですよ」と常識人の栄華。

「だって葉織さんと芹夏さんがまともな神経の持ち主見えるか?」と正直者の夏見も負けない。

 会話を悟った周囲に対して、羞恥心をごまかすのに精一杯の栄華は、「おほほほ」と口元を手のひらで覆う。冷や汗と苦笑いのひきつった表情である。


「大丈夫。私もそのお二人を十分に存じ上げております。まあ突飛な感性の持ち主ですよね」と笑いをこらえている。

 そして続けて、

「映美さんの弟が私の妹の夫になります」と続けた。

「なるほど、世間は狭い」と夏見。

「まあ、自己紹介はそれぐらいにして、急いで時間を動かしにいきましょう。親睦会はあとでゆっくりと」と大那。

「了解」と全員が声を揃えた。




 四人は伊勢市の中心地までのんびりと歩いてきた。伊勢市の商店街を宮川方面に抜ける。踏切を渡り、線路を越えて、町の反対側に出る。この町の大きな病院のあるエリアだ。その一角、線路際に至ると、富久は再び『大世古精密時計工房』の看板を見つけた。


「ここでしょう?」と大那。富久に確認をとる。

「はい」

 自分の見当通りの富久の返事に、軽く笑うと、慣れた様子で一階エントランスに入る大那。本日は休日である。誰もいないはずなのに、会社には電気がついている。……と言っても時間は止まっているので微妙な環境ではあるが。

曇りガラスの向こうに蛍光灯の明かりが映る。

「ごめん、アキエちゃんおるがい?」

 いつもの調子といった感じで事務所の扉を開け、入ってしまう。

「大那君」とアキエ。軽く驚いた様子。

「け、しらじらしいんやけど」と笑う。

「ばれとる?」とアキエ。

「あたりまえやに」

 その後、四、五分のやりとりが済み、大那が事務室の扉を開けて、首だけ出すと、手招きをした。

「みなさん、どうぞお入り下さい」と言いながら。


「話しがついたようだね」と夏見。

「何の?」と栄華。

「オレたちの分からないところの話だよ。今回の託宣を含めたもろもろの」

「ふーん」と人差し指で口元を押さえる栄華。

 そんな会話をしながら、四人は事務室に足を踏み入れた。


 中は一風変わったところなどない、一般的な会社の事務室で、机が五、六台、ファックスやプリンターが所狭しと並んでいる。東には窓、南にも窓で奥には『時神の護符』が柱に貼り付けてある。

 その中に富久を見つけたアキエは、「入社試験終了。これで無事入社の本採用になるわ」と安心した様子である。そして「本日をもって、朱藤富久さんは大世古精密時計工房の外交秘書として正式に採用になります」と加えた。


「どういうことですか?」と富久。


「少し強引なやり方でごめんなさい。この会社は、営業日以外は暦人の仕事をしている会社なの。だから暦人として認知されていない人は働けないのよ。それで、まずは就業資格である暦人になってもらうために、時間静止状態の世界から移動経験をしてもらったのよ。しかもあなたは御師の家の出だから、説明が少なそうで助かるわ」とアキエ。


「ちなみにアキエちゃんと俺は遠縁の親戚に当たる。同じ小宅家で、我が家が分家なんだ」と大那。

「でも社長さんに黙って本採用決定で良いんですか?」と富久。その台詞にアキエの顔が一瞬曇った。明らかにバツの悪い顔だ。

 富久は面接の時にいた、ブラウンのスーツに、銀の大きなネクタイの男性を思い出す。


 大那はうさん臭い顔で、

「ん? 社長はアキエちゃんだけど……」といった後で、思い当たる節がある顔に変わった。


 少し間を置いて、富久の方を向き直ると「その社長はどんな人だった?」と大那。その顔は眉間にしわを寄せ、相変わらず、いかにもうさんくさそうな表情をしている。

「びしっとした茶系のスーツに、大きな銀のネクタイをしていた見た目三十代の男性でした」


 富久の言葉を聞いて、

「ははーん」と悪戯っぽく睨み付ける大那とその目をよそよそしい態度でかわすアキエ。思い当たる節がありそうだ。


「富久ちゃん。それ付喪神つくもがみだよ」

 優しく教えてくれる大那。


「ツクモガミ?」



「百年経つと道具に宿るという神さまさ。陰陽師の式神ほどじゃないんだけど、暦人御師の中には、付喪神と仲良しになって、いろいろとお手伝いをしてもらう人もいるんだ。アキエちゃんは付喪神のお友達が数柱いるんで、その付喪神に頼んだんだよ。その今の風貌を聞いて、おおかた三階の時計の間に飾ってある大きな木製で銀の振り子を持つ柱時計の付喪神だ。彼は特にアキエちゃんと仲良いから、面識のない富久ちゃんを欺くために社長のフリを頼んだんだね」

 大那はしかたないという顔で説明をした。ため息交じりのやれやれという表情だ。

「私の知り合い、付喪神のフランソワはたまに、しかも夢にしか出てきてくれないのに、アキエさんはお友達のように接しているのね」


 栄華の言葉に、

「まあ、小宅家ならそういう芸当はありだろうね。それにしたって、好きなときに付喪神を呼び出せるとはすごい技をお持ちだ」と夏見は頷く。


 ひとしきりの富久への種明かしが終わると、大那はもう一つの託宣めいた現象の説明をアキエに求める。


「それで大先輩の夏見さんと、もと飯倉御師の関東のトップだった御師の栄華さんを伊勢までお呼びしたのはなぜなの?」と大那はあきれ顔を崩さすにアキエを見た。


「初めまして、夏見さん、栄華さん。こちらの件は私の仕業ではございません。私は単に協力したに過ぎず、お二人の今回の用件を知っているわけではないのです」

 きっぱりと言い放つアキエは、ちらりと持彦のほうを流し見た。


 アキエは丁寧に深々とお辞儀をする。

「初めまして」

 会釈ととも挨拶を返す二人に、アキエは再び話し始めた。

「今回、栄華さんのコンサートがあるとお聞きしていたのですが、そこに付喪神を使って時神さまの伝言が私に入りました。今回の伊勢でのコンサートは時神さまのお呼び立てだったようです」


 その言葉に、

「やっぱり」と栄華。

「何かお心当たりでも?」と今度はアキエが返す。


「いままで収容人数に満たないと言って、難色を示していたプロモーターが突然三重でコンサート、って言われたのも不思議でした。リハーサル前日の下見の日、つまりは昨日、会場入りのために早起きしようとセットして寝たはずの時計が、落ちるはずの無い床に落ちていて、電池が飛び出して止まっていました。おかげで寝坊して、主人にここまで送ってもらったんです。丁度、休暇中だった主人のスケジュールも加味していたように感じまして、主人も一緒に呼び出したい託宣の兆しと感じていました」


「典型的な招聘託宣って感じですね」とアキエ。そのまま持彦に視線を移しながら、話しを続ける。


「そしてそのプロモーターは楽器工房23の関連会社なのをご存じですか?」

「ええっ?」

 全員が持彦の顔を見た。特に富久は思案顔だ。

 持彦は、バツ悪そうに頭を掻く。

「すみません。騙すつもりは無かったんです」と白状し始める。彼はセカンドバッグのポケットから一枚の紙を取り出す。朱印が押してある。


 その紙を広げると、「今回皆さんに集まって頂いたのは、これをお披露目して、係のものの交代時期で役員の入れ替えがあるからという時巫女さんからのお願いでした。まだ託宣を数回しか経験していない僕に出された難題な使命です。お察し下さい」


「時の朱印状か。久しぶりに見た」と夏見。

「さすがです。ご存じなら話は早い」

「あら私は知らないわ」と栄華。

「簡単に言えば、暦人招聘の朱印状。正式な時神さまからの令状と言うことだ」と大那。

「数か月前に、未来から届きました。正確には未来から僕が託されました」

 持彦の言葉に、

「何の命令を? ちょっと見せて」と夏見。のぞき込むように持彦の前に顔を出す。


 朱印状の文面には、

『時守の里 暦人管理の委任状 里長さとおさ 桜ヶ丘御師・夏見粟斗 建造物管理 宇治郷御師・小宅大那 人事および利用者管理 桜ヶ丘御師・夏見栄華 幣帛遣へいはくのつかい・海束弥栄 事務 東宮土偶御師見習い・朱藤富久 管理運営委託 大世古精密時計工房(代表取締役 阿射賀御師・小宅印画) <時巫女の印>串灘』とあった。


「持彦君を除く全員が記載し印を押してある。そして最後に時巫女の朱印が大きくあるな。日付は、明日になっている」

「明日って?」

 その時、託宣の使者である持彦に目をやる夏見。何かを感じたようだ。眉をぴくりと動かしてから持彦に言う。


「君は時置人ときおきびとか? 暦人になる以前に、既に時間移動の経験があるっていっていたな」


 全てを悟ったように、そして正体を明かすときがきたと察知した持彦は、静かに頷く。富久には何のことかさっぱり分からない。諦めたように持彦は自らを話し始めた。


「はい、お察しの通り、僕は二十六世紀の総務省時間管理局の息がかかった人間です。末端下っ端のアルバイトですけど。時空郵政の協力でこの時代に派遣されています。二十六世紀の世界は、二十一世紀の世界の軌道修正を考える時代になっています。時間がカオスな状態で、エントロピーになりつつあります。時間の流れに負荷のかかる行為と秘密主義が暦人の存続を危ういものにしているようで、二十六世紀の時置人は各時代の各地に配置されています。暦人制度の確認と維持を目的として、通常の綺麗な時間の流れを取り仕切ることになっているのです。そしてその任務が終わると自分たちの時代へと戻ることになります。通称『時のお庭番』とも呼ばれています。時巫女、時空郵政、時間管理局と、なにより時神さまのとの連携と調和を図り、隠密に外敵や時間のひずみ、時間の流れの正常化や時空穴埋め立てなどの異変を駆逐しています。未来永劫暦人が存続し続けるために、時神さまのもとで時間が正常な流れの中にあるために、その立役者である暦人を護る立場で、時置人と暦忍びが一緒に時間を管理しながら、制度を絶やさないように頑張っています。その二十一世紀の護時ときまもりの事務所役が講元宿を兼務する楽器工房23なんです。そしてさらに時間の管理を大切に扱って欲しいために、時守の里という亜空間に設置した場所を用意したので、皆さんの手で、その基地を使って時間のひずみを逐一修正して欲しいのです。時忍びの手助けをして」


「時守の里って聞いたことあるぞ。年輩の人たちの言う、別名で時留めの里だ」と夏見。

「どこで?」栄華の問いに、

「君の大伯父、文吾さんにね。確か入口は国内に三つか四つぐらいあって、どこから入っても時守の里にいける。入り口は虹色の御簾だ。もともと時神さまと時巫女の託宣の受託施設と聞いたことがある。科学的な場所と言うよりも、いいしえからの願掛け場所ってイメージだ。まあ、現代風に言えば、皆が会議を行う共有アカウント内にあるバーチャル空間が時守の里であり、そこにログインするためのIDとパスワードみたいなものがこの朱印状ってことだな」

「なるほど」と大那。


 栄華は、

「そもそもタイムホールじゃ無い虹色の御簾なんてあるの?」と懐疑的だ。


「何パターンかあるよ。便利なものから有害なものまで」と大那。このタイムホールの種類、タイプの違いと使い方が暦人たちにとって大事件と繋がることが多い。


「有害なものもあるのね」と栄華。


「時守の里への時空穴ね。確かこの時間停止状態の時にだけ現れる虹色の御簾で、特定の場所にしか存在しない。普段はお目にかかれない御簾、タイムゲートだ。その一つが伊勢地方のどっかにあるって言うのは知っている」と夏見が皆に伝えた。



 笑みを浮かべると持彦は続ける。

「さすが夏見さん。角川文吾さんは二世代前の里長です。全部で五カ所程度ある入口とエクストラの六カ所目の入口、全てを知っているのが文吾さんでした。先に申し上げると六カ所目は富久ちゃんの家にあります」

「だから六ヶ所村なのか? 伝説とは妙に本質と背中合わせの時がある」

 夏見の言葉に大那は一人頷く。今回の騒動のフィナーレは直ぐそこまで来ているようだ。そして新たな暦人の仕事も始まろうとしている。


「この朱印状を、皆さんに渡すことと、時守の里へと続く虹色の御簾をご案内すれば、僕の二十一世紀での時忍びの仕事は終了です。自分の世界に帰らなくてはいけません」

 持彦の言葉に、富久は何か言いたげである。皆の手前我慢している風だ。やるせないそんな気持ちが、顔に出ている。

 こういうときの夏見は頼りになる。富久の心情を察して先回りしてやる。

「と言うことは、お前さんは富久ちゃんとは任務設定上、遠縁と謳っていたが、赤の他人と言うことだな」と夏見。


「はい。この時代に生きるための単なる設定のひとつに過ぎません。僕は時置人としてこの時代に配属された時のお庭番、時忍びですから。縁もゆかりもありませんし、ネイティブに住む時代も違います」


「富久ちゃんのじいさんも暦人御師なので、話を合わせてくれたと考えて良いよな? 勿論学校なんぞにも通っていないし、戸籍も住民票も見当たらない。時神さまと時巫女が世話人として全てを管理してくれた看過加護身分の公僕と捉えて良いな」


「はい」

「随分と機械的だが、いやビジネスライクだが、プライベートはそれで済むのか?」

 ちくりと彼の本音を指す夏見。


「出ました、お節介おじさん」と茶々を入れる栄華。

「人を水戸黄門みたいに言うな。そもそもオレに縁がある土地は尾張だ。水戸じゃない」

 夏見のその言葉に乗っかった大那は、

「ちょうど良い。持彦君を風車の弥七やしちにすればいい」


 冷や汗と怒り印の額で、夏見は、

「大那君、ちょっと黙っていてくれるかな?」と苦笑いである。


 そして真面目な顔に戻ると、夏見は、

「お前さんに、ほのかに恋心を抱いた女性の気持ちも時間と一緒に葬り去る気か?」と核心を突く。


「……」

 さすがに、「はい」とは言えず沈黙する持彦。

 その傍らで自分のことだと分かっている富久も無言だ。


「富久ちゃん、言いたいことがあったら、この唐変木の未来人に言ってやるべきだ」と夏見。

 大那と栄華も頷く。


 彼らの話しを、ただ瞳を潤ませながら聞いていた富久。ここで初めて沈黙を破る。

「なにそれ……」

 大粒の涙が彼女の瞳に揺れながら溜まっているのが、数メートル先からでも分かる。

 後ろめたさを感じたのか、口をつぐんで俯く持彦。

 そのうちの一粒が。すっと彼女の頬を伝って流れ落ちた。それをきっかけに堰を切ったように彼女の言葉も勢いを増した。


「ずっと、いつも私のドジをカバーしてくれるんじゃ無かったの? 仕事が終われば帰ります、って、出張のビジネスマンですか? 随分と長い出張でしたね。出張と一緒に思い出も消しますか。高性能なデリートキーをお持ちな事で」


 次々と発せられる彼女の問いかけと罵詈雑言に無言を貫く持彦。その彼女の言葉は、単なる皮肉や罵声では無く、優しさと悔しさが混じりながら渦巻いている。それは彼女の表情をみれば、誰もが分かることだ。富久の目に溢れ溜まったしずくは、止めども無くほろりとほろりと一粒、また一粒と頬を伝い流れ落ちていく。


「私を守ってくれると言ったのは嘘ですか? お気に入りって言ってくれたのは、演技ですか? 仕事の一環ですか?」

 両脇で拳を握る富久に、夏見も大那も無言で見守るだけである。彼女のまっすぐな思いを痛いほど分かるからであった。

「嘘にはしたくないよ。僕だって、さあ」

 悔しいのは持彦も一緒である。しかし運命に、時間に逆らうことなど出来ないのが人生である。個人の力など恐ろしく微力である。


 夏見は自分の後ろに、とある気配を感じる。お馴染みの気配だ。暦人を長くやると分かってくるものだった。


「いるんだろう。串灘くしなだの時巫女さんよ。あんたとお会いするのは初めてに近いけど、話しは多霧のおばさんからいつも聞いているよ」と呟く。串灘も多霧も時神の託宣を暦人に伝えたり、彼らを助けたりする存在の時巫女である。

 大那も少し前から気付いていたようだ。時巫女が隠れている気配を察知していた。

「いるんですか? 時巫女さんが」

 栄華は夏見に確認する。そして辺りを見回す。


「ああ、純粋な若者二人に、する必要の無い試練と直面させて、別れさせるなんざあ、時の番人がするようなことでは無いと思うけど。粋じゃ無いねえ。人の幸せのためにおもんばかって動くのがオレたち暦人なんでね。こんな無粋な茶番劇は納得いかないし、看過できない」


 すると夏見の背後にすっと、江戸時代の旅姿のような、白装束、裾上げ着物にわらじ姿の杖を持った時巫女が現れた。観念したというような表情だ。

 この時巫女、見た目三十過ぎの様相だ。頭は姉さん被り、肩には被り笠が引っかけてある。お伊勢参りの衣装に似ている。


「ばれていましたか。夏見さん」

 夏見は下目遣いに、見下すように、

「こういう結末は暦人としては解さないのですがね。皆が幸福にならないと……」と再度確認のように言う。


 あごに手をやり、「うーん」と悩む串灘の時巫女。結論が出せずに、眉間にしわを寄せ悩んでいる。


『これで時巫女三人全員と会ったわ。この方ちょっと優柔不断な時巫女さん』と栄華は、他の二人と異なり、少々彼女の人間くささが面白いようだ。


「これ時神さまのご意志も尊重しないと、暦人はその前に公僕であるべきだし……」とごにょごにょ独り言の時巫女。


「まじめか!」とツッコむ大那。時巫女のどん詰まりな公明正大の見解に業を煮やす。


 その横で夏見は、「解決の糸口は、あんたのその杖の一振りなんじゃ無いの?」とあきれ顔で詰め寄る。

 すると、「いえ、私の一振りでは、二十六世紀の時間まで変えることはできません。二つの時間に跨がっている本件で私に出来る事は……」と俯く時巫女。

「二つの時代に重なった案件を時巫女の采配では不可能なため、時神さまのご意志、ご判断でなら可能ということか?」

 夏見の言葉に、遠慮がちに、「はい」と頷く。


 夏見は、「おい青年。お前さんは富久ちゃんへの気持ちはどうなんだ?」と向きを変えて問う。

 少し恥じらいながら、富久の顔を見る持彦。そして赤ら顔のまま、

「好きでした。大切でした」と呟く。


「あーあ。過去形にしちゃった。こういうところ恋する女の子はこだわるわよ」と栄華。大した恋愛経験も無いくせに、少々先輩づらしている。少女マンガの読み過ぎだ。

「もう、私なんていらない、って事?」と富久。栄華の察するとおりの答えである。


「そんなわけ無いだろう」と少し声を振るわせる持彦。更にぽつりと「世の中には、どうにもならないこともあるよ」と加えた。

 薄目を開けたうさんくさそうにしながら夏見は、

「まだお前さんの年齢で、その域に達するのはいかがなものかと思うぜ。二十歳そこそこなら、やってみなくちゃ分からないってことも学ぼうぜ。その台詞はあと十年、二十年したら、愚痴として聞いてあげるよ」と微笑みながらも、少々熱い言葉を向けた。柄にも無い台詞だ。何でも諦めちゃうのがお得意な夏見らしからぬ言葉である。ところが他人の幸せのためなら諦めないのが夏見粟斗なのだ。


「時巫女さん、時守の里へ行くタイムゲートはおおかた二見だろう?」と夏見。

「ええまあ。朱印状が届いたので、明日以降は夏見さんの指示でお入り頂けます」と返す時巫女。

「明日以降はいつでも、ってことで、急ぎじゃ無いよね」

「ええ、あちらの空間には時間の流れは無いので、入ってしまえばそれが今ですから」


「OK。それなら朱印状の件はひと月後の長期休暇の時に改めて、皆で集まって運営を決めるよ。それで間に合うね?」

「ええ。もともと期限のあるものでは無いので、各人の用意が出来たら運営開始って感じです」

 時巫女も夏見の計画に異論は無いようだ。

「了解。じゃあ、まずは若者の幸せ探しを先にやってしまおう」


 そう言って悪戯っぽく笑うと夏見は、時巫女に向かって、

「その杖でさあ、近鉄の志摩神明の駅前まで我々をすっ飛ばしてくれないかな?」と頼んでみる。


 その場所に思い当たることがあったようで時巫女はハッとする。

「ご存じなんですね。石神さまのこと」

「若い二人にね。やれるだけのことはやってあげたいな、ってね。本人たちが神さまに直接お願いするのが筋ってもんでね。あんたさっき言ったろう。時神さまのご意向をうかがわないと、ふたつの時代に跨がる案件を時巫女の独断では処理できないと」と言う夏見。

「はい」

「お誂え向きなのが、あの神社さんなんだ」

「たしかにあの場所なら、ご意向を訊けるかも」と時巫女。夏見の知恵に感心した風だ。


「石神さんって?」

 アキエは大那に訊ねる。

「そっか、アキエさんは松阪だからあまり志摩までは来ないもんな。願いを叶える神さまとしては超一流の神明さまさ」

「そうなの」

「優しい神さまだよ」と加えてアキエに微笑む大那。どうやら大那はその神社に伝わる言い伝えを知っているようだ。


 時巫女の杖の一振りで、一行は伊勢市から一気に志摩賢島の手前、志摩神明駅前に飛んだ。本来なら近鉄電車に乗って旅情を味わいたいところだが、暦人には時間が無い。しかも時間が止まった世界では交通手段もないので、致し方ない。


「おおもう着いている。これは便利だ。特急電車より速い。魔法使いのようだ。箒で空飛ばないの?」と夏見。

「私は魔法使いではありません」

 一応否定はしているが、この時巫女さん、これだけ出来れば十分魔法使いで通る。


「持彦君、富久ちゃん、この先、直ぐのところに神明さまがある。石神と通称呼ばれている神社だ。海女さんの信仰が深いお宮さん、女性と恋心に優しい神さまだ。二人で離れたくないという願いをしておいで」


 夏見の言葉に、「ここはなにかあるんですか?」と持彦。

「女の子の願いを一生に一つだけ叶えてくれる神さまなのさ。試してみる価値はある」

「なるほど、そんな御利益が……」とアキエは頷くとともに、夏見の暦人としてのポテンシャルに感心していた。

「そしてここはタイムゲートのある神社なので、ここの神さまが時神さまにダイレクトに願いを伝えてくれるかもしれないよ」

 二人は見合わせると、互いに無言で頷いた。そして夏見たちに頭を下げると、神社に向かって並んで歩き始めた。

「女の子の願いって、私のも聞いてくれるかしら?」と栄華。

「ほう、女の子ね」

「なんですか?」

 いちゃもんをつけられている気分の栄華だ。

「別に、君は美しいレディだと思っているからさ」

 意味深な表情で苦笑いする夏見。

「もう、怒れないじゃないですか」と笑う栄華。



「夏見さん」とアキエ。

「はあ?」

「突然ですけど、あなた桜ヶ丘の御師やめて、うちの時計工房に来ませんか? ギャランティ弾みますから」と言う。

「なに? 本当に突然だ」

「我が社はあなたのような暦人が欲しかったんです」

 夏見はふっと笑うと、

「オレは横浜桜ヶ丘の神さまを頼って、時代を超えて我々の時代に逃げてきた者たちの命を守る役目があります。それをやめるわけにはいきません。そしてなにより奥さんのピアノの音とまずい手料理が無いと生きていけないんでね。丁重に辞退させて頂きますよ」と言った。


 とても文筆業とは思えない言葉選びの台詞だが、妻への愛情の感じられる返答である。


「私もダンナサマの憎まれ口と優しい愛情が毎日無いと困ります」と援護する栄華。


 無理強いしてまでの話しでも無いと言うことは彼女も分かっている。

「そうですか。残念です。ここまで手慣れた暦人って、そうそういないので」と悔しがるアキエ。

「でも今回の件で、時守の里に行く用事が増えるから、またどこかでお会いすることもありそうですね、阿射賀あざか殿。いえ、初歩さんの妹さん」


 夏見の言葉に、「知っていたのですね、桜ヶ丘殿」とアキエ。あえて暦人御師同士が担当御厨名で呼び合う慣例を夏見が使った事への返礼だ。

「おねえさんに少し似ていますからねえ。初めて会ったときから分かりました」

「なあに?」と栄華。

「夏夫君のお母さんの妹さん。つまり夏夫君の叔母に当たる人さ。このアキエさんは」

 襟を正すように、凛としたお辞儀のアキエ。

「夏夫がいつもお世話になっています」

「いえいえ。彼も無事に大学院で稲の促成栽培の研究してるって、先日会ったとき言ってました。晴海ちゃんとの結婚も間近ですね」

「あの子は姉さんよりも、私や祖父の秋助さんの影響が強くて、農業研究で大学院に入ったんですよね」

「でもアキエさん自身もお顔立ちが少し初歩さんにも似てますね。姉妹だから当然なんですけどね」と夏見。

「うん。なんとなく初歩さんに、確かに似てる」

 改めて納得する栄華。


 だが姉の話にはさほど乗ってこない彼女の微妙な表情に、現在の姉妹関係が垣間見える。

「おねえさんはほわっとしているのに、妹さんはしっかり者ね」

 栄華の見た目から来る初歩のイメージに、彼女は慌てて否定する。


「姉のあれはポーズですよ。結構鋭い女です」

「知ってます」と夏見。「あれは演技に近いものを素で無意識にやっている感じですね」と付け足す。


「さすがよくご存じで」と笑うアキエ。

「話は戻しますが、富久ちゃんと持彦君、彼ら二人も夏夫君と同じ世代ですね。正確には富久ちゃんたちの方が何学年か下かな?」と夏見。

「はい」


「あのうしろ姿、遠目で見ると、私の世代からは、彼らも夏夫君も同じに見えてしまう。そんな若者たちに、やりもしないで、最初から世の中の万事を諦めることを、あの年齢から覚えて欲しくないんですよね。『一心岩をも通す』ってね。大人になれば、嫌でも諦めることを覚えなくてはならない事だらけだ。彼らにとって、今のうちだけじゃないですか、自分の信念を十分に貫ける輝いたアンビエンスなんね」


「おっしゃるとおりです」

 澄んだハートの夏見らしいセオリーにアキエも納得した。


 気がつけば、辺りに動きが戻る。色もモノトーンからカラーになった。

 皆の横の線路を、サンシャインオレンジ色の伊勢志摩ライナーが通り過ぎていく。伊勢志摩観光には欠かせない特急電車だ。

「停止した時間が動き出した」と大那。

「彼ら二人の願い通じたんですね」とアキエ。

 見れば、夏見の手元にある朱印状の名前に『神代持彦』の名前も魔法のように、誰が記すでも無く、スッと墨汁で書き加えられた。そして落款らっかんのような朱印も押されている。これで持彦のこの時代での課題も増え、居残りは決定したという託宣の兆候だ。夏見たちと一緒に、まだやるべき役目が新たに与えられたという言い方が正しいだろう。

 神社の方から笑顔の二人が戻ってくるのが見える。

「いいねえ、若者はすがしくなければ。純粋こそ若者の宝だ」と満足げな夏見。

「すっかりおじさんね。粟斗さん」と栄華。

 笑顔で首を縦に振る夏見。

 動き出した時間の中で、時巫女は再び姿を消した。

「時巫女さん、ついでにもうひと仕事を頼む。我々を二見のコンサート会場まで飛ばしてくれ!」


 その言葉と同時に、全員が芸術センターの楽屋に飛んだ。

 皆が顔を見合わせた後、夏見は、

「良い時巫女だ。今まで出会った中では、一番性格の良い、話の分かる、素直で正直者の時巫女だな」と腕組みして呟く。

 すると夏見の頭上にどこからともなく、ぱらぱらと紅白の紙吹雪が落ちてきた。

「ほら、桶やタライを頭上から落とすどっかの時巫女とは大違いだ」と笑う。

 栄華も思わずつられて笑う。勿論、彼の言う『どっかの時巫女』とは、関東を取り仕切る多霧の時巫女への当てつけた言葉だ。

「本当ね。うふふ……」


「さあ、開演です。皆さんは客席に戻って下さい。私は着替えがあるので」

 栄華に背中を押されて、楽屋の外に出される夏見たち。


「折角だから聴いていったら良いよ。うちの奥さんピアノ上手いよ」と夏見。アキエと大那に促す。

「そりゃ、プロの演奏家だもの上手いのは分かるよ」と大那。


「でもいいのかな? 俺たち、チケット持ってないよ」と顔を見合わせる大那とアキエ。

「適当に座ってなよ。空いている席にさあ。オレが言い分けしてあげるよ。何せ、大ピアニスト様のダンナサマですから」と意味ありげに夏見は笑った。

 そして富久と持彦は、

「あの、夏見さん。本当にありがとうございました。夏見さんのような暦人になるように努力します」と頭を垂れる。


 突然の畏まったお礼に慣れない夏見は、

「いやいや。オレなんか目標にしないで、もっとすごい暦人を目標にしてよ。本当に……」と思わず本音を漏らす。

「こういうのに夏見さんは弱いんだよな」と大那。

「へへへ。な」と苦笑いの夏見。

「でもこういうところが格好いいと思って、栄華さんは夏見さんを好きになったんですよね、きっと。私、分かります」


 富久は新しい職場と新しい役目が自分の人生に加わったことを自覚したように感じていた。生業なりわいを生活の糧とするのか、一生の役割に任を課すのか。富久は時代にはそぐわないが、後者に自分の人生をあてることをおぼろげながら覚悟していた。

 でも今は意中の幼なじみ持彦と少しでも長くいられることに感謝を覚えているのだった。

「おかげさまです。感謝です。石神さま、お伊勢さま、時神さま」

 その言葉が宙に舞うと、さっきの紙吹雪が窓からの風で舞い上がる。そしてまるで祝福をするように、富久と持彦の頭上にはらはらと美しく舞い降りてくるのだった。


                                                                 

 

『暦人』、その聴き慣れない不思議な役目とその仲間たちにこれからの人生を委ねてみようと、富久の内面には会心の目標が生まれていた。純粋だからこそ、そう思える若さの特権でもある。彼らはミカンとオレンジの花言葉が「純粋」と知っているのだろうか? これから始まる大人たちとの共同作業の中で、その純粋を忘れて欲しくない、と優しく思う夏見と栄華だった。


 持彦は緩やかに富久の手を握ると、仲良く客席へと向かう。その姿は以前とは違う二人の関係、大人の階段をほんの少し、一歩登った思いやり、落ち着きと愛が感じられた。


                                                                   了

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