ぶつかって、寄り添って

「――ねぇ、怒ってる?」

 

 夜の公演に向けてアイザックのメイクをしていると、急にアイザックが話しかけてきた。


 ちなみに私は、先ほどの抓り合戦があって以来話しかけていない。

 

 大人げないと言われても構わない。

 手加減してくれなかったアイザックに腹が立っているのだもの。


 そうして、いつもは私がベラベラと喋っている賑やかなメイクタイムが、今日はお葬式の如く沈黙していたわけで。

 

「怒っていますけど、何か?」

「……どうしたら、機嫌を直してくれるの?」

「どうしたらと言われても……謝ってくれたら、かな?」


 あまりにも弱々しい声音で聞かれると、驚きが勝って怒りがどこかへ飛んで行ってしまった。

 そうして残されるのは、罪悪感と戸惑いだ。


(この感覚、なんだか久しぶりかも)


 元の世界で社会人になってからというもの、人とぶつかることなんてあまりなかったから。

 友人とはたまにしか会わないし、それにお互いに相手が嫌だと思うことは避けてきたから、このような事態は起こらなかった。

 

(職場でも人とぶつかるのは避けていたし、私から折れることが多かった)


 人間関係のいざこざを避けるために一歩引くようにしていた。

 あの時は仕事が滞らないようにそうしてきた。

 だけどもし、いざこざを恐れずに意見を言っていたら、何かが変わったのかもしれないとも思う。


(恋人との関係性も、変わっていたかもしれない……なんて、ね)

 

 この世界で、アイザックと真正面から向き合って初めて過去の自分を振り返るなんて、今更過ぎるのだけど。


 今回のことは……まあ、私が先にアイザックの頬を抓ったから、私が悪い。

 冷静になると、自分の行いが恥ずかしくなる。


「……ごめん。アイザックが言った通り、先に手を出したのは私だから謝る」

「……いや、俺もムキになって悪かった。……その、ごめん」


 大人になってからは、喧嘩することなんてなかったから、こんな時にどうすればいいのかわからなくて。

 気まずくなって手元を見ていると、アイザックが急に椅子から立ち上がった。


「顔、見せて」


 言うが早いか、アイザックの手が頬に触れた。

 今度は壊れ物に触れるかのように、優しく。


 私は背が高い方だけど、アイザックもまた背が高くて。

 上を向かされて見上げるようになっている私を、背を屈めて覗き込んでいる。

 

 そうして、改めてじっくりとアイザックの顔を見た。

 

 目元に描いた黒色の涙と月の道化師メイクが、アイザックの赤い目をより神秘的に見せていて。

 銀色の睫毛は密になっていて長くて、マスカラがなくても綺麗だからすごく羨ましい。

 

「傷は見えないけど、念のため治療しようか」


 アイザックが呪文を唱えると、彼の手が触れている部分に温かさを感じた。

 

「も、もしかして、魔法をかけた?」

「うん、治癒魔法をかけた。これでたぶん痣は残らないよ」

「ありがとう。……アイザックの頬は、大丈夫?」

「さあ、どうだろう?」


 メイク中に見た時は、傷痕や痣はなかったのだけど。

 でも、もし痛みが残っていたらどうしよう。

 

「私は治癒魔法が使えないから、救急箱から軟膏を持って来て、塗ることしかできないんだけど……」


 極まりが悪くて俯きそうになると、アイザックの手に邪魔されてしまう。

 視線をそろりとアイザックに戻すと、彼は目元を綻ばせていて。

 

「そんな顔しないで。レイに抓られたくらいで、痛みなんて感じないから」


 私の頬をするりと撫でると、手を離した。


 その手はすぐに下ろされず、アイザック自身の左腕に添えられる。

 彼の手がぎゅっと腕を掴むその仕草が、どうも気にかかった。

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