あなたを知りたい
翌日、朝の公演が終わってから洗濯をしていると、熱い視線を感じ取った。
振り返ると、
潤んだ水色の目で上目遣いしている姿がとても可愛くて、キューピッドの矢で心臓を打ち抜かれた私はその場で悶えた。
「はうっ! かっ……可愛い!」
ネフェレーはふわふわの白い毛並みが美しい雌の
初めてこの世界に来た時、奴隷商人から私を助けてくれた命の恩人……ならぬ恩魔獣でもある。
賢いネフェレーはいきなり飛びかず、私が呼ぶまでこうして待ってくれる。
「ネフェレー、おいで!」
「――!」
両手を広げてそう言うと、ネフェレーの三角耳がピンと立ち上がる。
そして目にも留まらぬ速さで立ち上がると、勢いよく飛びついてきた。
「おっとっと……」
突進するネフェレーを受けとめきれずに後ろ向きに倒れそうになる。
するとネフェレーは背後にまわって、クッション代わりになって助けてくれた。
(くうっ! なんて賢いワンちゃんなの!)
……いや、ネフェレーは犬ではなく魔獣の
大きさも犬の何十倍もあるのだけれど。
(ふかふかのもふもふだ……最高……!)
魅惑の大きなもふもふに包まれて、頬がだらしなく緩んでしまう。
何を隠そう、私はもふもふした動物たちが大好きだ。
元の世界にいた頃は動物を飼いたかったけれど、ペット禁止のマンションに住んでいたし、仕事が忙しくて残業ばかりだったから、飼うのを諦めていた。
(だから、仕事終わりはいつも動物の動画を見て癒されていたんだよねぇ)
会社で嫌なことがある度に、たくさん働いてお金を貯めたら田舎へ行って、犬や猫と一緒にスローライフを送ろうと思ったものだ。
(そういえば、今の仕事は全くハードじゃないし、嫌な人もいないし、もふもふもいるから……いい職場かも)
仕事を押しつけてくる人も、妬んで嫌がらせしてくる人もいない。
ついでに言うと、セクハラしてくる人もいない。
元の世界では、そのような人たちと対峙する度にゴリゴリと精神を削られていたから、今の環境がとてもありがたい。
(でも、これからどうしようかな?)
――ずっと
私はこの世界を全く知らないから、親切な
だけど曲芸の一つもできないし魔法を使うこともできない私は、みんなのお荷物でしかないから、申し訳なくて。
(とはいえ、王族に保護されるのは絶対に嫌だし……)
私が彼岸の客人だからという理由だけで王族や彼らが斡旋する人と結婚するなんて御免だ。
「私が曲芸を覚えるしかないのかな……?」
「わふっ!」
溜息をついていると、ネフェレーが私の頬をペロンと舐める。
そのままぐいぐいと頭を押しつけてきて、撫でてと強請ってきた。
「ネフェレーったら、さっきまでエヴァンダーに遊んでもらっていたのに、まだ遊び足りないんだね」
「くぅん」
今は仔犬のようにじゃれついてくる甘えん坊なネフェレーだけど、公演中はきりりとカッコよくて、彼女の姿に見惚れる観客が続出する。
中には、ネフェレーが欲しくてエヴァンダーに直談判した貴族がいたくらいだ。
その美貌と自慢の毛並みで誘惑されると、モフモフ好きはすっかり虜になってしまう。
「よーしよしよし、ネフェレーは本当に可愛いなぁ」
「わふっ!」
ネフェレーの首元に埋まりながら撫でまわしていると、アレクサンドラさんが私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
振り返ると、午後の公演の衣装に着替えたアレクサンドラさんが、近くにあった木箱に腰かけて微笑みを浮かべている。
午後の公演衣装は、元の世界で言う“中東風”のデザインで、これもまた良く似合っている。
鮮やかな赤色の紗と、それに縫いつけられた金色の飾りがアレクサンドラさんの陶器のような白い肌に映えていて。
息をするのも忘れて見つめてしまう。
アレクサンドラ姉さんは今日も美人で目の保養だ。
「ふふっ、ネフェリーは本当にレイが好きね。せっかくレイと話そうと思って来たのに、先を越されてしまったわ」
「私と……ですか? 嬉しいです! ネフェレーと遊びながらでも良かったら聞かせてください」
「そうさせてもらうわ。ネフェレーがいなくなったら、今度はアイザックにレイを盗られてしまいそうだもの」
「そんなことはないと思いますが……」
「あら、気づいていないのね」
アレクサンドラさんはゆったりと足を組み、その上で頬杖を突いて首を傾げた。
彼女が動く度に、耳につけている大ぶりの金の環のピアスがしゃらんと揺れる。
なんとも絵になる所作だ。
「今の生活にはもう慣れた?」
「はい、みんなのおかげで慣れました」
「良かったわ。辛いときは、遠慮なく言っていいからね? まあ、アイザックがいるから、私たちが出る幕はないかもしれないけれど」
「そんなことないですよ。アイザックには意地悪されて困っているんです」
「あらあら、昔のアイザックを知らないからそう言えるのよ。確かに最近のあの子はあなたに意地悪だけど、ちゃんとあなたを見ているわ」
「昔のアイザック……?」
「ええ、あの子はあなたと会って変わったわ。もともとあの子は人に興味を示さないし、深く関わろうとしなかったのよ」
私はまだ、アイザックのことがよく知らない。
アイザックはいつも私の元の世界の話を聞きたいと言って聞いてくれているけれど、自分の話は全くしないから。
「アイザックって、どんな人なんですか?」
「あの子は……まさに道化師ね。笑顔を浮かべて、おどけてみせるけれど――本当は深く傷ついて、心の中で涙を流しているの」
「確かにアイザックは、笑って全てを誤魔化しているような気がしました。初めは、私が世話係をしているのがどことなく嫌そうだったのに、いつも笑顔で隠していたから……私、モヤモヤしていました」
「レイはアイザックをよく見てくれているのね。――そうよ、あの子は自分の本当の気持ちを伝えることができないの。辛くても泣けなくて、怒りを感じていても怒れないの。それはあの子が、自分の気持ちに自分で蓋をしているから」
「どうして、ですか?」
「原因は……そうね、あの子の過去にあるわ」
「あの……私、アイザックのこと、少しも知らないんです。教えてくれませんか?」
「そうね。レイはこれからもアイザックと長く関わるだろうから、知っておいた方がいいわね」
アレクサンドラさんは物憂げに目を伏せた。
「アイザックはね、死にかけていたところを、エヴァンダーに助けられたのよ。それからはエヴァンダーが我が子のように育てたの」
「家族に殺されかけたって、エヴァンダーから聞きました」
「ええ、そのようなことがあったから、あの子は他人に本当の自分を見せないのよ。笑顔を浮かべているけれど人を恐れていて、距離を置いていたの。けれど……最近になって変わったわ。あの子が初めて、自分の身の内に他人を入れたのよ。それがレイ――あなたよ」
「はい?」
「実はあの子、レイを心配して、エヴァンダーに抗議したことがあるのよ。あの子が誰かのために行動を起こすなんて初めてだったから、とても驚いたわ」
「そんなことがあったなんて、知らなかったです。……あの、本当に今までは一度もなかったんですか?」
「なかったわ。私はアイザックがここに来てからずっと知っているけど、初めて見たもの」
「そう……なんですね」
「レイはここに来たばかりだから実感が湧かないわよね。だけど、覚えておいて。アイザックはあなたに心を開き始めているのよ」
確かに近頃のアイザックは、出会った時と比べると話しやすくなった。
だけどそれが、私と出会ったから変わったのかはわからない。
アイザックは私のおかげで悪夢を見なくなったと言っていたから、それがアイザックが変わった理由なのかもしれないけれど。
「あなたたちがこれからどうなるのか楽しみだわ」
「特に何も起こりませんよ」
「あら、それなら占ってみる?」
アレクサンドラさんは呪文を紡ぐと、優雅に人差し指を動かした。
魔法を使ったようで、どこからともなくツヤツヤの水晶が現れる。
水晶玉は宙に浮いていて、アレクサンドラさんはそれに手をかざす。
「私、占いも得意なのよ。せっかくだから、あなたたちの今後を占ってあげる。結果を信じるも信じないも、レイの自由だわ」
水晶玉はアレクサンドラさんの手の動きに呼応するように光り始めた。
とてもファンタジーな光景だ。
「う~ん……大きな困難が待ち構えているけれど、レイたちならきっと乗り越えられるわ」
「ど、どんな困難が起こるんですか?」
「そうねぇ、二人の絆が試されるってところかしら」
「予想以上にハードモードなんですけど……。私たちって、知り合ってまだ一年も経っていないんですよ?」
「あらあら、弱気ねぇ。大丈夫よ、絆は重ねた歳月で深まるものではないんだもの。レイが思っている以上に、あなたたちの絆は育っているわ」
「自分では……わかりません」
最近ちょっ~とだけ話しやすくなっただけの関係で、困難を乗り越えられるのだろうか。
絶対に無理だと思ってしまうのだけれど、アレクサンドラさんは確信めいた表情で、もう一度「大丈夫よ」と言うのだった。
「何かあったら私たちも動くし、――それにレイには、カッコいい王子様が現れるから安心して。おとぎ話ではいつだって、王子様がお姫様を助けてくれるでしょう?」
「そもそも私はお姫様ではないのですが?」
呆れて突っ込みを入れていると、天幕の近くにある広場から歓声が聞こえてきた。
「賑やかですね。何があるんでしょうか?」
「そういえば、レイはこの国に来てから日が浅いから知らないわよね。今日は建国祭の初日だから、第一王子がこの近くに来ているのよ」
なるほど、リアル王子様が近くにいるらしい。
リアル王子さまって、どんな人なんだろう。
「へぇ、見に行ってみようかな?」
「――ダメだよ。仕事をサボるつもり?」
「アイザック?!」
声がした方向に顔を向けると、最近はご無沙汰だった胡散臭い笑顔のアイザックがいて。
彼は私に近づくと、なぜか掌で目を覆ってくるのだった。
アイザックは午後の公演の衣装に着替えていたから、メイクをするために私を呼びに来たのかもしれない。
「王子なんて見ちゃダメ」
暗闇に包まれた状態で、アイザックの声が耳元に落ちる。
淡々としているのに、どこか切実さのある声で。
「王子なんてって……、そんなこと言ったら不敬だよ?」
「……いいんだよ。道化師の言葉なんて、王子は気に留めたりしないはずだから」
アイザックがそのようなことを言う理由はわからないけれど。
もしかすると、理由なんてないのかもしれないけれど。
彼が、泣いているような気がした。
「どうして、見ちゃダメなの?」
「……なんとなく」
「なんとなくじゃ、わからないよ」
アイザックの手が、ぴくりと動いた。
私はアイザックの手に触れて、顔から離す。
真っ暗だった視界が開けると、綺麗な笑顔を浮かべているアイザックの顔が、目と鼻の先にあって。
何も知らなかったら、彼がふざけているだけだと思ってしまったかもしれないい。
「理由はわからないけど……嫌なら、無理に笑わなくていいんだよ」
「――っ」
アイザックが息を呑んだ。
笑顔が抜け落ちた彼の頬を、むにゅっと引っ張ってみる。
茫然としたままのアイザックは、なされるがままに頬を抓られていて。
その無防備な表情が新鮮で、思わず笑ってしまった。
「悲しい時は泣いていいんだよ。いつか必ず、アイザックを泣かせてみせるからね?」
「……泣かせるだなんて、酷いなぁ。虐めないでくれる?」
そう言い、アイザックも私の頬を抓ってきた。
しかも、わりと強い力で。
「いたたたっ! もう少し力加減してよ!」
「先に手を出してきたクセに良く言うよね」
さっきまでのしおらしさはどこへ行ったのか、アイザックはスンとした顔になった。
頬の抓り合いになっていると、アレクサンドラさんの笑い声が聞こえてきた。
「あらあら、仲が良いこと」
「ど・こ・が、ですか!」
その後、終わりの見えない抓り合いは、私たちがじゃれあっていると勘違いしたネフェレーの乱入によって終止符を打ったのだった。
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