静かな夜に囁き合う

 アイザックと約束してからというもの、私は毎晩アイザックの天幕で、彼に元の世界の話を聞かせている。

 

 夜は自分の話す声がとても大きく聞こえてしかたがない。

 

 ビルも車もないこの世界は、夜になると真っ暗闇に包まれるから、みんな早く寝てしまう。

 そうして、街全体が静寂に包まれるのだ。


 みんなが起きてしまうのではないかと心配になった私は、声を抑えて囁くように話すことにした。

 そうすると、アイザックは私の声を聞こうとして、顔をぐっと近づけてくるから困っている。


 額がくっつきそうなほど近く――ではないけれど、精巧に作られた彫刻のように整った顔が目の前にあるのだ。

 その赤い目が私をまっすぐに見つめているものだから、正直言ってすごく緊張する。


(この距離感、まだ慣れないなぁ)


 アイザックの目をまっすぐに見つめると急に照れ臭くなってしまって、頬が熱くなった。

 それをアイザックに気づかれたくなくて、彼から借りている毛布に包まって、鼻先まで隠す。

 

 アイザックがこの顔に気づいたら、絶対に揶揄ってくるに決まっている。


 (私が泣いたことを一週間も揶揄ってきたんだもん。顔が赤くなっていることに気づいたらまた揶揄ってくるはず。本当に、性格が悪いんだから!)


 泣き顔を見られた後は大変だった。

 

 その翌朝から、アイザックは目が合うとすぐにニヤリと笑って、「俺の胸を貸すよ?」とか、「いつでも泣いていいんだよ。レイのために、トラウザーズのポケットの中にハンカチをたくさん詰めておいたから」なんて言ってきたのだ。

 

 そのせいでエヴァンダーやアレクサンドラさんたちに心配されて、とても過保護な待遇を受けて恥ずかしかった。


(だけど……そのおかげで、あの時よりは悲しくなくなったかも)


 まだ心の柔らかいところはじくじくと痛むけれど、以前感じたような無力感や絶望は感じなくなった。


 それをアイザックのおかげだと思うのは、なんだか悔しいのだけれど。

 

「レイ、顔が赤いけど……もしかして俺に惚れた?」

「どうしてそんな発想になるの! 自意識過剰が過ぎるよ!」

「え〜? 顔に穴が開くかと思うほど見つめてきたくせに、その言い方はないんじゃない?」


 そう言い、揶揄いたっぷりに笑う端正な顔が恨めしい。

 

 アイザックは胡散臭い笑顔を見せなくなったけれど、その代わりにとても意地悪になった。

 意地悪だけど前より親しみを持てるし、話しやすい。


「もういい。話を聞かないなら、今日はこれでおしまいね。おやすみ」

「ごめん、待って。揶揄って悪かったよ。大人しく聞くから」

「そう言っても、絶対にまた揶揄うでしょ?」


 ぷいっと顔を背けて、包まっていた布団を畳み始めると、アイザックは情けない呻き声を小さく上げた。

 

 その声があまりにも弱々しくて普段のアイザックらしくないから、可笑しくて笑いそうになる。

 だけど、ここで笑ったら負けだと思って、頬の肉を引き締めた。


 ……アイザックとは、特に何も競っていないのだけれど。

 

「レイ、ごめん」

「口で言うのは簡単だよ。心から反省しているように思えないんだけど?」

「うっ……、レイにとっておきの魔法を見せてあげるから、許して?」

「……今日だけだよ?」

 

 魔法の誘惑に負けて体をアイザックの方に向けると、アイザックの表情に安堵の色が乗る。

 いつもは飄々としているくせに、妙なことで気弱になるんだから、見ているこっちの調子が狂ってしまう。


「それじゃあ、とっておきの魔法を見せてよ」

「うん、よく見ていて――絶対に目を離さないでね?」

 

 アイザックが呪文を唱えると、彼のひとさし指の先から金色の淡い光を出した。

 光はくるくると回りながら、鳥を形作る。


 金色の翼が出来上がると、鳥はアイザックの指先から飛び立った。

 

「わあ、綺麗……!」

「気に入ってくれた?」

「うん! アイザックの魔法は全部好きだよ」

「――っ、そう。好きになってくれて嬉しいよ」

 

 アイザックの魔法は繊細で綺麗で、ずっと見ていられる。

 

 私はまだ、アイザックや他の団員のみんなの公演を見たことがない。

 彼らが公演している間は世話係の仕事をしているから、見られないのだ。


 だけど稽古中は見せてもらえるから、いつも楽しみにしている。

 

 そうして団員のみんなの魔法を見ていると、魔法にはそれぞれの個性があることに気づいた。


 エヴァンダーは火魔法が得意で、炎を使った豪快な曲芸を披露している。

 それに対してアレクサンドラさんは植物を操って、華やかで美しい演出を加えた踊りを舞っている。

 

 空中ブランコ乗りの双子は水魔法が得意で、猛獣使いは雷魔法を使った演出が上手。

 

 それぞれの魔法に個性があるから、見ていて面白いし夢中になる。

 エヴァンダーが教えてくれた話によると、この世界の人たちにはそれぞれ、得意な属性魔法があるらしい。

 

 アイザックはどの属性魔法が得意なのかわからないけれど、彼の魔法は群を抜いて魅力的で。

 様々な属性魔法を操って、ジャグリングや手品に織り交ぜている。

 

 そんなアイザックはまさに、元の世界で私が思い描いていた魔法使いそのもので。

 稽古中のアイザックの魔法を見ることが、私の密かな楽しみになっている。


「レイ、手を出してみて。掌を上に――そう」

 

 促されるままに掌を上に向けてみると、天幕の中を自由に飛んでいた金色の鳥が私の掌の上に降りてくる。

 その姿は次第に変わっていき――私の掌の上に降りる頃には、一輪の真っ赤な薔薇の花に変わってしまった。


「すごい! これって、どんな魔法なの? 草魔法? それとも、火?」

「秘密」

「ケチ。私はアイザックのライバルじゃないんだから、教えてくれたっていいのに」

「教えてしまったら、夢が覚めてしまうでしょ? 俺はレイの特別な魔法使いでいたいから教えない」

「何それ。アイザックは魔法使いじゃなくて道化師でしょ?」

「う~ん、そうきたか。もう少しロマンチックな雰囲気にさせてくれないかな?」

「私たちの間にロマンも何もあったもんじゃないでしょう?」

「……はぁ、レイらしいね」

 

 と、アイザックは盛大に溜息をつくと、使い古しの本を開いて、私の目の前に置く。

 これは銀狼リリコス魔導旅芸人一座の団員たちが共有している教科書だ。

 

 世話係の中には読み書きができない子もいるから、その子たちに言葉を教えるためにエヴァンダーが購入したそうだ。

 読み書きができない世話係は、彼らが付いている団員から言葉を教えてもらうシステムらしい。

 

 私はなぜかこの国の言葉を聞くことも話すこともできるけれど、書くことはできないから、アイザックに教えてもらっている。

 

 そういうわけで、アイザック先生による勉強時間が始まった。


「この世界の言葉は知らないのに、なぜか読めるし話せるんだよね。私が彼岸の客人だからなのかなぁ?」

「そのようだね。レイは異国から来た旅人たちよりも流暢にこの国の言葉を話しているよ」

「せっかくなら、この国の言葉を書けるようにしてくれても良かったのに」

「さすがにそこまで願うのは欲張りなんじゃない?」


 アイザックはくすりと笑うと私から羽ペンを取り上げて、私が書いたばかりの文に訂正を入れる。


 私の文字の隣に書かれたアイザックの文字は綺麗だ。

 知らない言葉だけど、書かれた文字の綺麗か汚いかは判断できる。


 アイザックは銀狼リリコス魔導旅芸人一座の中で一番文字が綺麗らしい。


「レイがいた世界の言葉も聞きたいけれど、レイが話すとすぐにこの国の言葉に翻訳されてしまうから難しいね」

「便利なようで、不便な力だなぁ。――あ、書いた文字はそのままだよね?」


 私は羽ペンを紙の上に滑らせて、『アイザック』と書いた。


「これが元の世界の言葉で書いた『アイザック』だよ。どう?」

「へぇ、これがレイが元いた世界の文字なんだ」


 アイザックは指先を紙の上に走らせて、私が書いた文字をなぞる。

 

「この紙、貰ってもいい?」

「うん、いいよ。落書きだけど……」

「ありがとう。これが俺の名前か……なんだか嬉しいな」


 よほど日本語に興味があるのか、アイザックは紙を自分の目の高さまで持ち上げて見入っている。

 

「もし、良かったら……日本語、教えてあげようか?」

「本当? 嬉しいな。楽しみが一つ増えたよ」


 なんて大袈裟なと思ったけれど、アイザックは赤色の目をキラキラと輝かせていて、本当に嬉しそうで。


「アイザックって、私の元の世界のこと、本当に好きだよね」


 そう言ってみると、彼は自嘲気味に笑った。


「現実逃避をしているんだ。レイの世界の話はおとぎ話のようで、聞いていて楽しいんだよ。この世界のことを、一時だけ忘れさせてくれるから」


 私からすると何のロマンもない元の世界の話だけれど、この世界に住むアイザックからすると、ファンタジーだと思えるらしい。

 確かに文化も何もかも違うから、それもそうなのかと、納得したのだった。


 だけどこの時、アイザックの眼差しにどこか寂しさが含まれているように見える理由は、わからなかった。

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