第2話 婚約破棄
私には、両親はいない。父は私がまだ幼い頃に、別の女を作り母と別れてしまった。なので私には父の記憶がない。その後、母子家庭で育った私だが、魔法学校中等科に通っているころ、母は重病を患い亡くなってしまった。
そんなわけで、今私は天涯孤独の身である。子供の頃から母の苦労はずっと見てきた。そして子供ながらにいつもこう思っていた。自分が結婚したら、円満な温かい家庭を築きたい、いや築いて見せると。
結婚生活にはお金が欠かせないことを私は嫌というほどよく知っている。母はお金でどれだけ苦労したことか。幸い、ホーハイトはサディゴウ公爵家第二王子という身分だ。どう転んでもお金には不自由しないはずである。ホーハイトのことをどれだけ愛しているのかと聞かれると、言いよどんでしまう自分がいるのだが、それでも憧れの家庭を築くには申し分のない相手である。
ただ、おそらく母が生きていたら、この結婚には賛成してくれなかったかもしれない。母なら、そんな打算的な結婚は良くないと私を戒めたかもしれない。ぼんやりとだが、そんな考えが頭によぎっていたのも事実だ。
けれど、まだ若かった私は、そんな想像など振り払ってしまい、ホーハイトと結婚することを決めたのだった。
婚約の儀式が終わり、これからお祝いの舞踏会が王宮で開かれようとしている夕刻のことだった。
ホーハイトが私のいる控え室に姿を見せた。いくつもの勲章を胸にぶら下げた礼服を着たホーハイトが、そっと私の横に立った。彼がそうさせていたのだろうか、控室には誰もおらず、私とホーハイトの二人っきりであった。
横に立つホーハイトはどこか冷たい表情に笑顔を被せ、こんなことを言ってきた。
「君に大切なお願いがあるんだ」
夕暮れ時の赤い太陽の光が、かすかに窓から差し込んできた。
「お願いとは、なんですか?」
「実は、君のその魔法を国のために役立ててほしい」
「私の魔法を……」
「そう、魔族召喚術を、ある人物に使ってほしい」
「どういうことでしょう」
私はそう言いながら、昔ホーハイトと交わした会話を思い出していた。以前、彼はこんなことを聞いてきたのだ。
『召喚した魔族を使って、人を襲うことは可能か?』と。
その言葉を思い出すと、もう嫌な予感しかしない。魔族で人を襲うということは、その人間を殺してしまうということだ。
「どういうことでしょうか?」
「はっきりと言うよ」
ホーハイトはじっと私の顔を見つめてきた。それは獲物を捉えた猛禽類のような鋭い目だった。
「君の魔法で、ある人物をこの世から消し去りたい。それがこの国のためになることなんだ」
「えっ」
半分予想していた言葉だったが、実際に耳で聞くとその恐ろしさが倍増した。
「ど、どなたを消し去るというのですか?」
「それはまだ言えない。ただ、これだけは約束する。このことで君に迷惑がかかることはない。ちゃんと手はずは整えてあるので、君が何か罪を追ってしまう心配は一切ない」
「できません」
私は反射的にそう答えた。
「そんなこと、できるわけがありません」
「この国のためになることなんだ。協力してくれ。いや、妻となる君は私に協力する義務があるんだ」
初めは静かな物言いをしていたホーハイトだが、このころになると断定的な強い口調に変わってきた。
このままでは無理矢理にでもホーハイトの恐ろしい計画の実行者に仕立て上げられると感じた私は、意を決して別の方面から断ることを試みた。
「無理です。どちらにしても私には魔族召喚術を使うことなどできないのです」
「どういうことだ?」
「実は、私の術は不完全で、現在はまったく使えなくなっているのです」
「まれに上手くいかないことがあるが、ほとんどは成功すると聞いているが」
「すみません。私も誤解を受けるような言い方をしていました。実際は違います。まだ、私の術は未熟なもので、何故か今は全く使えなくなっているのです。だから、あなたの計画に協力することなどできません」
しばらく黙って私の言葉を聞いていたホーハイトは、やがて歯をむき出して私を睨みつけてきた。
「術が使えないだと! もしそれが本当なら、貴様はこの私を騙していたことになるのだぞ!」
あまりの剣幕に私は一瞬で萎縮してしまった。そして何とかこう言った。
「決して騙すつもりはなかったのです。ただ、自分でもわからないのですが、なぜか今は術が使えなくなってしまっているのです。申し訳ありません」
「謝ってすむことではない! 第二王子のこの私を騙してただで済むと思うなよ! それと、今私が貴様に話したことは国の極秘事項だ。もし他言したなら、極刑が待ち受けていると思っておけ!」
ホーハイトはそう怒鳴り散らすと、すぐさま背中を向け、控室のドアを乱暴に開け、この場から去ってしまった。
一人部屋に残された私は、自分の体がこわばってくるのを感じながら、今起こったことを振り返ってみた。
ついに、自分の術が使えないことを、他人に告白してしまった。
私の秘密を知られただけではない。
ホーハイトは私が彼の計画を断ると、烈火の如く怒鳴り散らしてきた。
結局、ホーハイトは私を利用したかっただけなのだ。私との婚約は愛情からではなく、彼の計画を実行するための単なる儀式だったのだ。
そう考えると、今までのホーハイトとの出来事が違った色合いを帯びて浮かんできた。
彼は、優しい言葉を私にかけてくれてはいたが、その態度はいつもどこかよそよそしいものだった。そして、ことあるごとに『魔族召喚術』のことを聞いてきていた。
間違いない。ホーハイトは、私を利用したかっただけだ。
そう考えると、恐ろしいことが頭に浮かんできた。
ホーハイトの企みを知ってしまった私は、これからどうなるのだろう。もしかして……。
私は自然と震えてくる手を止めることができなくなっていた。知られてはいけないことを知ってしまった人物、普通に考えるとホーハイトはなんとかしてその人物を始末しようと考えるに違いない。
私の命が狙われてしまうことになるのでは。
不安な思いが津波のように押し寄せてきた。
ただ、今この時も、舞踏会開催の時間は容赦なく迫ってきている。このような状況の中で、私は予定通り舞踏会に出席するべきかどうか考えあぐねていた。だいたい、今日の舞踏会は、私とホーハイトの婚約を祝うために開催されているものなのだ。あんなに怒り狂ってしまったホーハイトと一緒に舞踏会に出ることなど可能なのだろうか。しかし、ここまできている以上、自分から舞踏会を欠席する勇気が私にはなかった。どう行動するのが正解なのか分からないまま、時間に流された私は舞踏会場へと足を運んだ。
王宮の王広間にはたくさんの貴族たちが集まり、皆はお喋りをして楽しんでいる最中だった。シャンデリアがきらびやかに輝き、吹奏楽団がその下で静かな音楽を奏でていた。
私はすぐに会場にホーハイトがいるかどうか、会場中を目で追った。けれど彼の姿を見つけることはできなかった。婚約祝いの舞踏会である。ホーハイトがいなければ、式はいつまで立っても始まらないはずだ。
開始予定時間を三十分ほど過ぎたとき、会場内の招待客たちの視線が私に集まりはじめた。どうしてホーハイトが来ないのか説明を求めるような視線を感じた。
けれど、もともと庶民だった私に仲のいい貴族など誰もおらず、直接私に何かを問うてくる者など誰もいなかった。
もうこのままホーハイトが姿を見せずに、舞踏会が中止になればいい。
そう私が願っている時、なにやら会場の奥がざわつきはじめ、パラパラと拍手が起こりはじめた。私はその方向に目を向ける。そこには勲章と礼服に身を包んだホーハイトが、さきほどの怒り狂った表情とは裏腹に、いつものどこか冷たい笑みをたたえながら冷静な顔で登場してきたのだった。
はじめは小さかった拍手の音が、どんどんと広がっていき、招待客たちが待ちわびていたこともあり、会場中が割れんばかりの拍手の音に包まれた。
王族が位置する壇上に登ったホーハイトはスッと右手を上げ、静寂を求めた。拍手が鳴り止んだ中、彼はじっと会場を見渡し、私に視線を合わせてきた。普通なら、私はホーハイトの横に立つはずだったのだが、先ほどあれだけの剣幕を見せつけられたところである。とてもホーハイトに近づくことなどできなかった。
「皆様」
ホーハイトの甲高い声が会場の中を響き渡った。
「さっそくですが、今から重要なお知らせがあります」
ホーハイトの言葉を聞き、会場がざわつく。
そんな中、彼は、はっきりとこう宣言したのだった。
「今、この瞬間を持ちまして、私はそこにいるピティエとの婚約を破棄させてもらう」
婚約を祝うために集まった招待客たちが、ホーハイトの言葉を理解するのに、多少の時間がかかった。皆、顔を合わせながら何が起こっているのか相談しあっている様子が見て取れる。
「私はとんでもない裏切り行為をピティエから受けた。詳細は割愛するが、それはとてもゆるされるような内容ではない。しかも、ピティエの裏切りは懲罰対象にもなりうる事柄だ」
そんな説明をホーハイトが行う中、招待客の視線が私に集中してきた。一体どういうことだろうという、興味津々とした視線だった。
私は、すぐさまここから逃げ去りたい気持ちになった。けれど、足が震えてどうにも動けない。
『裏切り行為』『懲罰対象』という激しい言葉が、権力者であるホーハイトの口から出てきたことで、これからの自分の人生がとんでもないことになってしまうのではと考えると恐ろしい気持ちになった。
「そしてこの場で、新たに皆様にお知らせすることがあります」
静まる舞踏会場で、ホーハイトの声が響く。
「今後、私をサポートしてくれる女性を皆様に紹介したいと思います」
その声を合図に、やや離れた位置に立っていた女性がゆっくりと歩きながらホーハイトに近づいてきた。やがて、その女性が演壇に上がり、ホーハイトに寄り添うように立つと招待客に顔を向けた。
ホーハイトがささやくように女性に声をかけた。愛情のこもった声に聞こえた。
「自己紹介、できるかい?」
「はい」
女性はそう答えると、あらためて私たちに視線を向けた。落ち着いた様子に見える。
「私はコンプリチェと申します。今日からホーハイト様のそばにお使えして、王子のお力になろうと思っていますので、皆さんよろしくお願いします」
彼女の長い栗色の髪が、つややかに輝いた。年齢は私と同じくらいだろうか。しかし、私と決定的に違うところがあった。それは、コンプリチェが、驚くほど整った顔をした美人であるということだった。
私は驚いた。
つい先程まで、ホーハイトは私に自分の企みを打ち明け、協力するようにと強く迫ってきていた。しかし、私が断ると、ホーハイトはすぐに別の女性を自分のパートナーに選んでいる。
きっと、前から準備していたことに違いない。私が使えないと分かると、いつでも別の女性を代用できるように根回ししていたのだ。
そう考えると、ますます私は自分が利用されていただけなのだと実感した。
「ここにいるコンプリチェはとても思慮深い女性だ。そして美しさも兼ね備えた魅力的な女性だ」
ホーハイトは私には見せたことのない好意的な顔でコンプリチェを見る。
「私は、生涯ここにいるコンプリチェと人生をともにするつもりである」
ことの成り行きがどうなることかと見守っていた招待客たちが、納得した顔をした。
「ホーハイト様が本当に愛しておられるお人は、あのピティエなんかではなく、ここにいるお美しい女性、コンプリチェなのだわ」
そんな声が、会場の至る所から漏れ聞こえてきた。
ホーハイトは招待客たちの反応に満足そうな顔をしながら私に視線を向けた。
「ピティエ、もうお前は私の婚約者ではない。私を騙した謀反人だ。今後は懲罰委員会により、お前の罪状を明らかにしていく。それまでは自宅でおとなしくしておくんだ。さあ、もうここはお前のいる場所ではない。さっさと着替えてここから出ていけ。そして二度と私の前に姿を見せるでない」
ホーハイトの言葉が鋭く私の胸を貫いた。ホーハイトだけではない。もともと私には貴族の知り合いなど一人もいない。庶民の生まれだ。そんな私が貴族となり第二王子の婚約者となったことにたいして、妬む声は少なくなかった。会場中の貴族たちが あざ笑うような目で私を見ている。
そんな視線の中を、私は逃げるようにしながら舞踏会場をあとにした。走って控室に戻ると、何もかもが信じられない気持ちになり、自然と涙があふれてきた。
早く、こんな場所から脱出しなければ。
そう思った私は乱暴に服を脱ぎ捨て、もともと庶民時代から着ている私服へと着替える。安い布で作ったブラウスと破れそうなくらい履き込んだズボンを身につけ、走りながら会場を出て自宅へと向かったのだった。
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