2.里見の家に祟る怨霊さぁ

 つばのない懐剣かいけんは、鯉口こいくちの合いも、気持ち軽めだ。間違って抜けたら危ない、怪我けがをする。


 伏姫的ふせひめてきには、妻になることを承諾しょうだくし、親も説得した。力ではかなうはずもない乙女おとめが、誰一人助けも入らない、相手に頼るしか生きるすべもないところに、おめかしして静々しずしずと連れられてきたのだ。これを基本YESと受け取ってくれなければ、受信機の方がどうかしている。


 か弱い抵抗もむなしく、ケダモノの荒々しい欲望に蹂躙じゅうりんされて、身も心も乱れに乱されるまでがセットだ。様式美だ。プレイはもう始まっている。


 だが、さすがにそこは、いくら賢くても動物の悲しさだった。


 空気は読めても、機微きびは読めない。人間さまの、どちらかと言えばくらい、屈折くっせつしたおもむき深さなど、わかるわけがない。


 八房やつふさは、一所懸命にお預けをした。目に、ちょっと涙を浮かべている。これにも、伏姫ふせひめはトゥンクとした。


 犬は元より、主人の命令に従うことを、本能的に喜ぶ。つまりプレイの一環と、言えなくもない。


「少し、方向性が変わったみたいですが……これはこれでいです。いですよ、八房やつふさ。私も武士の娘、花も恥じらう処女しょじょとして、荒ぶるおすけものらしっこで、きゃいん、と先に鳴かされるわけにはいきませんよ」


 本格的におっぱじめたら何度でも鳴かされる所存しょぞん、とは、思ってても言わない。


 まあ、つまり、そんなこんなで、この洞窟どうくつに、いろいろゆがんだ人外境の新婚生活を送って現在に至る、というわけだった。


 だから自業自得の半分くらいは、父の里見さとみ義実よしざねのせいだ。人生最大のピンチを絶賛更新中の伏姫ふせひめとしては、そうでも思わなければ、やっていられない。


「あ……八房やつふさ、ゆっくり……ゆっくり、優しく……お願い……」


 でなければ、もれる。八房やつふさの歩くゆれだけで、もうヤバい。


「さ、最短距離で……ゆっくり、急いで……」


 洞窟どうくつから最寄もよりの川辺は、水飲み場に使っていたが、大自然の浄化力に期待する、ことにする。なんとか八房やつふさの背中にしがみついたまま、伏姫ふせひめは、洞窟どうくつの外に出た。


 夕陽ゆうひが、伏姫ふせひめの白い胸元で、きらきらと反射する。水晶の数珠じゅずだ。


 伏姫ふせひめが幼い頃、八房やつふさがどこからかくわえてきたもので、百八のたまの中の八つに、それぞれ仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌、の文字が浮かんでいる。伏姫ふせひめのお守りだ。


「これ……飲んだら、効かないかしら……」


 とりあえず、しゃぶってみる。


 罰当ばちあたりもはなはだしいが、これが意外と効いた、気がする。川までイケそうだ。


 腹痛が薄れて、放心しかけた伏姫ふせひめの耳に、ふと、妖しくささやく声があった。


「無駄だよぅ。あんたのそれは、陣痛じんつうさぁ。妊娠してるんだよぅ」


 伏姫ふせひめは、驚いて顔を上げた。しゃぶった数珠じゅずは、口から離さない。離したら、もれる。


 見ると、いのししのように大きなたぬきが一匹、そしてその上の空中に、黒襦袢くろじゅばんまとった白髪妖艶はくはつようえんの美女が浮かんでいた。


「あたしは玉梓たまずさ……あんたの父上に殺された、あわれな女、里見さとみの家にたた怨霊おんりょうさぁ」


 正確には、安房あわの前領主をたぶらかして贅沢三昧をした結果、流浪していた里見さとみ義実よしざねをリーダーに領民が一致団結、成敗された毒婦どくふなのだが、そんな都合の悪いディテールを自分から説明する義理もないだろう。


 伏姫ふせひめにしてみれば、話の前後がまったくわからないが、正直どうでもいい。衝撃は別のところにある。


陣痛じんつう……そんな、人間と犬で、妊娠なんて……安心していたのに……」


「いや、もう、あんたたちの展開が早くてあせったわぁ! それくらい、怨霊おんりょうにも仕事させなさいよぉ!」


「やはり、夜の岩肌は寒々さむざむしくて……たった一晩で、きゃいん、と鳴かされました。所詮しょせんは女、他愛ないものです」


「女で一括ひとくくりにしないでよぉ! 厚かましいわねぇ!」


 大狸おおだぬきが、ちょっと表現しにくい声を出す。多分、つっこまれたのだろう。玉梓たまずさが気を取り直す。


畜生道ちくしょうどうちた里見さとみの姫さま……あんたはもうすぐ、八匹の、犬の子を産むんだよぅ。あははは、愉快、愉快だねぇ」


「いえ……でも、やっぱり……後ろの方にも、のっぴきならない、熱い感じが……」


「知らないわよぉ! そっちは、純粋に自己責任でしょうがぁ!」


「親の因果が子にむくい……父上、さすがに、おうらみしますよ……」


「そうだけどぉ! 最後は、あたしの呪いが効いたんだけどぉ! どうしてそんなに、厚かましい感じなのよぉ! よろこんで鳴かされてたまでは、あんたの勝手じゃないのさぁ! 見せつけられて、なんだか、うらやましかったわよぉ!」


 伏姫ふせひめ玉梓たまずさていたらくに、大狸おおだぬきが、今度はため息をついたようだった。こりゃいかん、怨霊一味おんりょういちみとして、仕事をしなければ。そうとでも思ったらしい。


 たた里見さとみの家の姫、人生最大のピンチをさらに深刻にするべく、大狸おおだぬき八房やつふさに飛びかかった。


 八房やつふさも、背中の伏姫ふせひめを守るため、応戦せざるを得ない。早速、振り落とされた伏姫ふせひめが、ピンチレベル限界突破しかけたが、これで八房やつふさを責めるのはこくだ。


 さらにこくだが、伏姫ふせひめも、姫にあるまじき形相ぎょうそうになる。食いしばった歯が、数珠じゅず千切ちぎった。口の中に、八つのたまが残る。


 なんとか、霊験れいげんあらたかっぽいたまをしゃぶり倒して、前も後ろもこらえた。一人世紀末のカオスが加速する。


 八房やつふさ大狸おおだぬきは、凄まじい戦いをしていた。お互いに急所の首を狙って、牙をき、爪を振るう。


 しかしながら、八房やつふさは大きな黒斑白毛くろぶちしろげのモフモフで、大狸おおだぬきはさらに巨大な枯葉色かれはいろのモッフモフだ。夏なのに冬毛のように丸い。とにかく丸い。


 動物の体毛は鎧だ。牙や爪を防御する。


 この戦い、相手よりモフモフの方が勝つ。モフモフより、モッフモフの方が強いのだ。八房やつふさのピンチだが、モフモフと激しくからみ合い、モッフモフと転がる二匹のモフモフとモッフモフに、伏姫ふせひめ玉梓たまずさがほんわりとなる。


 そんな瞬間に、一発の銃声がとどろいた。


 川の向こう岸から放たれた鉄砲の弾丸は、八房やつふさ大狸おおだぬきの、重なり合った両方の胸をち抜いた。鮮血が散る。


「あっ、八房やつふさっ」


「ああっ、光源氏ひかるげんじぃ!」


光源氏ひかるげんじですか」


 思わず、伏姫ふせひめが聞き返す。致命傷をった八房やつふさに、大狸改おおだぬきあらた光源氏ひかるげんじも、死に際のキメ顔を見せた。最期くらい、人間たちの空気は読まず、強敵ともは互いに目を閉じた。


ふせ! 大丈夫か、ふせ! ちょっと遅くなったけど、父が助けにきたから!」


 なんと、このに及んでと言うか、なにを今さら証文しょうもんと言うか、川の向こう岸に立っていたのは、里見さとみ義実よしざねだ。隣に引き連れた若侍わかざむらいが、まだ煙のただよう鉄砲を構えている。


「なんだかおかしな動物どもは、ちゃんと片づけてやったよ! ほら、こいつ、見える? 美男子の婿むこも用意したし、安心して帰っておいで!」


「父上……相変わらず……最悪の状況で、冗談じゃ済まされないことをしでかしますね……」


 伏姫ふせひめは、がっくりと項垂うなだれた。

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