3.珠を挿れてやりましょう

 八房やつふさのいなくなったこの世で、伏姫ふせひめは一歩も動けない。


 情緒的じょうちょてきにも、かつ現実的な意味でも、だ。寄せては返し、増幅する波のようなピンチに、もうたまをしゃぶるだけでは耐えられそうにない。


 いっそたまを、本当に飲み込んでしまおうか、とも考えたが、それで後ろの方は快癒かいゆしても、この際、より問題が大きいのは前の方だ。


 八匹の犬の子と、玉梓たまずさは言っていた。犬っぽい人間か、百歩ゆずって犬耳っ子なら、ワンチャンありかも知れないが、犬だけに。いずれにせよ、愛の行為こういの結晶が誕生してしまったら、やはり社会的には死ぬ。


 たまを、前の方に使えれば良いのだが、口からは直通していない。この大舞台で、口からいたたまを下の前の口にれ直すのは、さすがにハードコアすぎる。伝説的に死亡する。


 死さもなくば死亡デス・オア・ダイ、だ。んだ。


 伏姫ふせひめは覚悟を決めた。


 こんなカオスでは無理もないが、義実よしざねの隣で突っ立っている、鉄砲を持った若侍わかざむらいを見る。


 なるほど、美男子だ。娘時分むすめじぶんなられてやっても良かったが、今や人妻ひとづま、もとい犬妻いぬづま、愛する夫を目の前で射殺してくれた憎いかたきに、きゃいん、と鳴かされるわけにはいかないのだ。


「父上、私も死にます」


「ちょっと待って、ふせ! 落ち着いて! この父がなんとかするから! それなりに、上手うまいこと、適当に!」


「その言葉、二回目ですが……すでに充分、聞ききました。ここに至っては問答無用、腹かっさばいて御覧に入れます」


「なんか、武士的にすごくかっこいいけど、おかしいから! 女子に切腹の習慣なんてないから! 普通、首とか胸を刺すくらいだから!」


「腹でなければ意味がないのです」


 伏姫ふせひめは、口の中の八つのたまを、ことごとく飲み込んだ。


 まさに霊験れいげんあらたか、たちまち後ろ半分の腹痛が消えて、莞爾かんじと立つ。白無垢しろむくの帯にたばさんだ懐剣かいけんを、夕陽ゆうひの赤い光に抜き放つ。


怨霊おんりょう玉梓たまずさも御覧なさい。この腹の中にるのは、正か邪か……あなたのたくらみなど、決して、天の道に通りはしませんよ」


「えぇ? あの、その……あたしぃ?」


 すっかり蚊帳かやの外にいた玉梓たまずさが、名指しに面食らう。一応、諸悪しょあく根源こんげんらしいので、それっぽく口上こうじょうに入れたのだ。もし失敗したら、最初から全部、玉梓たまずさのせいにするつもりだ。


 伏姫ふせひめ懐剣かいけんを、つかもれよ、と白無垢しろむくの腹に突き刺した。


 切腹と言うには、やや下方、ふくらんだ子宮からその後ろの小腸へ、見事に刃がつらぬいた。道が通った。


 懐剣かいけんを横に走らせ、引き抜くと、おびただしい血潮ちしおと共に、鮮烈な白光びゃっこう伏姫ふせひめの小腸から子宮へ、腹の外へと、ほとばしり出た。


 白光びゃっこう玉梓たまずさを打ち払い、天に飛んだ。そして八つの星となって、空を流れた。


 凄惨せいさん死微笑しびしょうを浮かべた伏姫ふせひめは、なにものも混じらない血潮ちしおだけを、開いた腹からこぼし続けた。白無垢しろむくあけに染めて、数歩を歩いた。


 そして八房やつふさむくろに重なって、こときれた。



********************



 伏姫ふせひめ丁重ていちょうとむらわれ、その最期に見せた、意味のわかりにくい奇跡から、伏姫神ふせひめがみとしてまつられた。


 茫然自失の義実よしざねは隠居して、息子の里見さとみ義成よしなり滝田城主たきだじょうしゅとなった。伏姫ふせひめ婿むこになるはずだった美男子の若侍わかざむらいは、おおかた本人の責任ではないが、ショックで僧になってしまった。


 そして天空を散っていった八つの星、伏姫ふせひめたまを探す旅に出た。僧なのに、むしろ伏姫神ふせひめがみの信者のようだ。


「いや、もう、無茶苦茶やったわねぇ。あの坊や、あんたのせいで、女性恐怖症になっちゃったわよぅ」


遺憾いかんです。まあ、坊主頭でもすっきりした美男子なので、この伏姫神ふせひめがみ敬虔けいけんつかえるなら、そのうち救ってあげましょう」


 春うららの青い空、のんきに浮かんでいる二人と二匹の姿があった。


 白い毛に、牡丹ぼたんの形をした八つの黒斑くろぶち唐獅子からじしのように巨大な犬と、その背に乗った白無垢しろむくの、黒髪清楚くろかみせいそな美人が、一人と一匹だ。


 枯葉色かれはいろの毛に、とにかく丸い巨大なたぬきと、その背に乗った黒襦袢くろじゅばんの、白髪妖艶はくはつようえんな美女が、もう一人と一匹だ。


「でも、なんで比売命ひめのみことじゃなくて、尊称そんしょうが重なってんのさぁ? それなら伏姫ふせひめか、伏神ふせのかみでしょ、普通ぅ?」


まつがわの、賛辞さんじと敬意の表れです。姫であり、神である……いですね。私に合っています。八房やつふさも、そう思うでしょう」


 伏姫ふせひめが、八房やつふさいとおしそうになでる。八房やつふさは尻尾を振りながら、無難なノーコメントを通した。


「わけがわからなさすぎて、下手へたに扱ったら、たたられそうだもんねぇ。あたしが言うのも、なんだけどさぁ」


「まったくです。怨霊おんりょうに、平気な顔で隣にいられると、神としての自尊心に傷がつきますね」


「そんな邪険にしないでよぅ。最後のあれで、あんたの子たちと一緒に、あたしも浄化されちゃったみたいでさぁ。我ながら、もう、大して害のない感じなのよぅ。ねえ、光源氏ひかるげんじぃ」


 玉梓たまずさが、光源氏ひかるげんじをわしゃわしゃとなでる。光源氏ひかるげんじは、やっぱりちょっと表現しにくい声を出す。


 優しい言葉を返したようだ。玉梓たまずさが、嬉しそうにほおを染めた。


「ついでに、なんか、あの子たちにも情がいちゃってさぁ。あたしだって、あの子たちができるのを手伝ったんだから、親みたいなもんじゃないのよぅ」


「ものは言いようですね。ですが、親戚のうるさい人、がせいぜいです。私が母で、八房やつふさが父、ここはゆずりませんよ」


「神さまになると、倫理観りんりかんも自由よねぇ。ま、それで良いからさぁ。今くらいは、まだたまと混ざっちゃってるでしょうけど、これからいろいろ、世話焼きに行くのよねぇ? 一緒に連れてってよぅ」


 毒婦どくふのみぎり、みがきにみがき抜いたのだろう、しなを作って玉梓たまずさびる。伏姫ふせひめは苦笑して、八房やつふさの首に抱きついた。


 八房やつふさが一声、えて、空を駆けた。光源氏ひかるげんじも遅れず続く。


「まずは北西、武蔵大塚むさしおおつかのあたりで一個、ふらふら迷っているようです。ちゃっちゃと捕まえて、そこらの不妊に悩む若妻の、下の前の口に、たまれてやりましょう」


「お腹にたまのような子をさずけましょう、よねぇ?」


「改めて考えると、あなたがやったことと、あんまり変わりませんね」


「そんなふうに思えるんだから、あんたが神さまになったのも、わかる気がするわぁ」


 伏姫ふせひめ八房やつふさが飛ぶ。玉梓たまずさ光源氏ひかるげんじも飛ぶ。


 西暦で言えば一四五九年、和暦で言えば長禄ちょうろくの三年、安房あわ、千葉県南部である。


 これから十余年の後、たま牡丹ぼたんのあざを持つ、宿命の八犬士がめぐり会う。


 そして里見さとみ御家おいえに結集し、悪徳な関東管領かんとうかんりょう扇谷おうぎがやつ定正さだまさ山内やまのうち顕定あきさだ古河公方こがくぼう足利あしかが成氏なりうじまで加わった里見討伐さとみとうばつの連合軍と関東大戦を戦い、ち勝って、安房あわの平和を守りながら二代、三代の子を残すことになる。


 ついでに伏姫神ふせひめがみもまた、イジワルしゅうとめ妙椿尼みょうちんにと、微妙にみにくい争いを繰り広げることになるのだが、それはまた、別のおもむきの物語である。



〜 椿説ちんせつ伏姫ふせひめさんと玉梓たまずささん 東西とざい東西とーざい 〜

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