椿説・伏姫さんと玉梓さん

司之々

1.私は八房の妻になります

 伏姫ふせひめは、人生最大のピンチにおちいっていた。


 腹が痛い。それも急激に、尋常じんじょうでなく痛いのだ。心当たりはくさるほどある、と言うより、くさったものに心当たりがある。


「生肉は……夏場、たないわね……」


 安房あわ滝田城主たきだじょうしゅ里見さとみ義実よしざねの娘である伏姫ふせひめは、長い黒髪と透き通る白い肌、睫毛まつげの影に宵闇よいやみの瞳がうるむ、実に、この世のものとも思えないほど美しい十七歳の姫だった。


 その美しい伏姫ふせひめが、人も通わぬ山奥の、夕陽ゆうひの差し込む洞窟どうくつの中、だいぶ薄汚れた花嫁衣装の白無垢しろむくでのたうち回る姿は、いっそ世紀末じみていた。


 西暦で言えば一四五八年、和暦で言えば長禄ちょうろくの二年、次の世紀末まであと四十一年の、千葉県南部である。


 洞窟どうくつには八房やつふさだけが、伏姫ふせひめに寄りそっていた。白い毛に、牡丹ぼたんの形をした八つの黒斑くろぶち唐獅子からじしのように巨大な犬だ。心配そうな顔に、それ見たことか、という成分も混ざっていたが、伏姫ふせひめは無視した。


「お願い、八房やつふさ……川まで、乗せて行って……もらさないように、がんばるから……」


 さすがの愛犬も、少し嫌そうな顔をしたが、それも無視した。なにせ、人生最大のピンチなのだ。


 一人と一匹、この山奥に暮らして、もうじき一年が過ぎる。当初は八房やつふさも気をつかって、あけびやら山葡萄やまぶどうやらをってきたのだが、白糸しらいとのような美人でも、そんなものだけで消費カロリーはまかなえない。


八房やつふさうさぎはね、一羽いちわ二羽にわと数えるの。だから、鳥の仲間なのよ」


 人間さまの欺瞞ぎまんが通じるわけもないが、賢い八房やつふさは、空気を読んだ。


 武士の娘として帯にたばさんでいた懐剣かいけんが、うさぎの切腹に役に立った。八房やつふさった時点でちゃんとシメられていたから、介錯かいしゃくと順序が逆になったが、まあ、些細ささいなことだ。


 モツを抜いて、皮をげば、上々だ。火起こしなんて無理だから、薄切りにして、そのまま食う。


 野生味あふれる、ではなく、伏姫ふせひめの方が野生化している。人間も動物、不足栄養分は身体が求める。圧倒的に塩分が欠乏けつぼうすれば、したたり落ちる血も美味うまい。


「いけるわ、八房やつふさ。夫婦ですもの、同じ食事をいただくのも、普通よね」


 八房やつふさが、本当に大丈夫か、という顔をした。伏姫ふせひめは無視した。


 実際、秋と冬は大丈夫だった。春も問題なければ、油断する。れた気にもなる。


 そうして伏姫ふせひめは、かなり自業自得の線で、人生最大のピンチを更新するハメになっていた。


 いや、遠因をたどれば、自業自得はいささかこくだ。


 一年前まで、人生最大のピンチは、まさに滝田城たきだじょうも落城かつ総玉砕そうぎょくさいの寸前、その最中の籠城戦ろうじょうせんにあった。包囲の敵陣は十重二十重とえはたえ兵糧ひょうろうも尽きて、もはやこれまでと覚悟した城主の里見さとみ義実よしざねは、ひげいかつい面構つらがまえながら、つい、娘の伏姫ふせひめが可愛がっている八房やつふさに冗談を言ってしまった。


「おまえ、敵の総大将をち取れない? 犬なら相手も、油断するかもだし。成功したら、伏姫ふせひめを嫁にやるからさ!」


 娘が娘なら、親も親で油断する。相手が油断するかも、などと、たなに上げていれば世話はない。


 その夜、八房やつふさは見事に敵の総大将の首を千切ちぎり、くわえて帰参した。敵陣は総崩れとなり、奇跡の大逆転勝利が滝田城たきだじょうに転がり込んだ。


 一番の大手柄は、もちろん八房やつふさだ。


 苦しい籠城戦ろうじょうせんを戦い抜いた城中の武士から、惜しみない賞賛と、ごちそうの山がおくられた。義実よしざねも、もうどっちが城主かわからないほどの歓待かんたいぶりだ。


 だが八房やつふさは、そのすべてを寄せつけず、うずくまっていた。籠城戦ろうじょうせんからなおも、ひたすらえ続けた。


 伏姫ふせひめだけを、見つめていた。


八房やつふさ……あなたは本気で、私のことを……」


 伏姫ふせひめは、いわゆる『おもしれー女』だった。


 八房やつふさに、きゅんとした。現代語訳すれば、トゥンクとした。


 賢い八房やつふさが、義実よしざねの冗談を、冗談とわからないはずがない。そのらちもない冗談に、なんの価値もない言葉に命をかけて、敵陣をただ一矢いっしつらぬいたのだ。


 空前絶後の武勲ぶくんげた勇士が、他のなにも求めず、自分だけを見つめている。命をかけた言葉を反故ほごにされて、それでも暴れず、えず、ただ静かに、おのれのたった一つの望みにじゅんじようとしている。


 目の奥に、ほんのわずか、この世の倫理りんりを超えた情欲じょうよくの鬼火がゆれているのも、もはやYESだ。


「父上、私は八房やつふさの妻になります」


「ちょっと待って、ふせ! 落ち着いて! この父がなんとかするから! それなりに、上手うまいこと、適当に!」


「そもそも、父上の迂闊うかつな冗談が原因ではありませんか。八房やつふさががんばってくれなかったら、みんな死んでいたのです。生きているだけで丸儲まるもうけと、考えてくださいませ」


「いや、でも、娘を犬の嫁に、というのは、いくらなんでも……」


八房やつふさんでやりなさい」


「ぅおわっ! やめてやめて! わかった! わかったから!」


 こうして伏姫ふせひめ八房やつふさは、さすがに外聞がいぶんもあって、城を出た。


 花嫁衣装の白無垢しろむくを着た伏姫ふせひめは、神々しいまでの美しさだった。八房やつふさいざなわれて、一人と一匹、深山しんざん幽境ゆうきょうのぼっていく。


 目の前に清涼な川が流れる、岩屋いわや洞窟どうくつを、新居とした。中は不思議と暖かく、落ち葉とれ草で寝床を作ったら、これも心地良かった。


 合戦やら礼儀作法やら、お習字やらお琴やら、世俗の面倒事から解放されて、伏姫ふせひめはむしろ清々すがすがしかった。なまけ放題だ。


 八房やつふさも、嬉しそうだった。実に素直に、伏姫ふせひめに身体をすり寄せてくる。


「いけません、八房やつふさ。私たちは夫婦になりましたが、それは心の中のこと。この身をけがされるようなことがあれば……自害しますよ」


 一応、言う。そして帯にたばさんだ懐剣かいけんを、慎重に確かめる。

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