第二話 彼との日常(1)
おねしょでぐっしょりと濡れたパジャマのまま、廊下に出た私は、美味しそうな朝ごはんの匂いを嗅いで、ぐう、とお腹を鳴らす。
こんなに気分が落ち込んでいるっていうのに、体は正直なものだ。
「お母さん、怒らないよね?」
ドキドキと、不安になりながら階段を下りた私は、ゆっくりとキッチンへと続く扉まで行き、意を決して開ける。すると、エプロン姿のお母さんは、いつものように挨拶をしてくれた。
「おはよう。マル。今朝はずいぶんと早いわね。どうかした?」
「お母さんごめんなさい……私、その」
ちゃんと言わなければ。おねしょをしてしまったって。
そう思う私だったが、もうじき中学を卒業し、高校へと進学する娘がおねしょなんてしたら、母親として一体どんな反応をするのか。それが不安で堪らなくて、上手く言葉にできなかった。
しかし、すぐにそれは無用の心配だったということがわかる。
「あらあら、これはまた盛大にやっちゃったのね。別にいいのよ。誰にだって、そういう時はあるから」
「ごめんなさい……」
お股の辺りが大きくシミになったパジャマを見て全てを察したのか、優しく微笑みかけてくれる母に、私は消え入りそうな声で謝った。
「気にしないで。最近手がかからなくなってきて、お母さんちょっと寂しかったくらいだから。もうすぐご飯の用意が終わるけど、自分で着替えられる? お父さんが起きてくる前にシャワー浴びちゃいなさい。急がないと、タマくん来ちゃうわよ」
タマくんというのは、隣の家に住む幼馴染で同級生の男の子のことだ。
私がとある理由でいじめられて、学校のみんなから仲間はずれにされた時も、今までと変わらず声をかけてきてくれた、とても優しい子だ。
私はいつも、彼と登校している。流石に彼の前に、こんなおしっこ臭い格好で出るわけにはいかない。
……私は彼のことを特別、異性として意識したことはないが、彼は違う。
彼は隠し通しているつもりでいるようだが、間違いなく私に恋をしている。もし好きな女の子がおしっこ臭かったら、彼はがっかりするだろう。
彼の気持ちに応えるかどうかはひとまず置いておいて、幻滅させたくはない。
緊張すると、すぐにおしっこがしたくなってしまう私にとって、彼は唯一緊張することなく家族同然に会話のできる相手だ。
そんな大事な友人を、こんなことで失いたくはなかった。
「それじゃあ、シャワー浴びてくるね」
自分も朝の仕事で忙しいはずなのに、私のことを一番に気遣ってくれた母に感謝しながら、私は脱衣所を通りお風呂場に向かった。
そして、まだ水のシャワーを湯船の方に向けて出しながら、おしっこで濡れ、べったりと張り付いて脱ぎづらいパジャマを引き剥がすように脱いだ。
「はあ……」
鏡に映った自分を見て、私は大きくため息をつく。
すっかり体つきは大人の女性のそれに変わっているが、やっていることは子供の頃と変わらない。その事実に、押しつぶされそうになった。
やがて、シャワーがお湯に変わる。それを手で触って確認した私は、肩からゆっくりと体にかけていった。
「髪も洗おうかな。臭いが染み付いてたら嫌だし」
一通り汗とおしっこを流し終えた私は、シャワーで髪を濡らしていく。
そして、お気に入りの香りのシャンプーを手に取り、しっかりと泡立てて髪につけた。
頭自体は昨日の夜も洗っているので、さっと泡を馴染ませる程度だ。
シャンプーをじっくりと洗い流した私は、続いてボディソープを泡立てて、体を洗っていく。
「ふう、すっきりした」
それも終わると、今度は洗面器にお湯を入れ、その中に汚してしまったパジャマと下着を放り込み、軽く揉み洗いする。流石に、そのまま洗濯機に突っ込むのは気が引けた。
朝っぱらからおねしょの後始末をしていると思うと、情けなくて泣きたくなってくるが、泣いたところでどうにかなるものでもない。
鼻の奥から込み上げてくる熱いものを、私はどうにか堪えた。
「よし、これで終わり――」
揉み洗いを終えたパジャマの水気を絞ると、私はそれを洗濯機に投げ込んだ。
あとはお母さんが何とかしてくれるだろう。
自分のやるべきことを終えた私は、タオルを引っ張り出すと、軽く頭の水気をとり、バスタオルを使って体を拭いて、それを体に巻く。
そして、ドライヤーで髪を乾かした。
「制服、上にあるんだった」
着替えを用意することを忘れていたことに気づいた私は、棚から下着を取り出して身につけると、靴下を履いて脱衣所を出る。
下着姿でお父さんと鉢合わせないかヒヤヒヤしたが、幸いそんなアクシデントも起こらず、無事に部屋までたどり着くことができた。
「……う」
部屋に入ると、濃いおしっこの臭いが鼻をつく。
せっかくシャワーを浴びて、気持ちを入れ替えることができたというのに、これでは台無しだった。
この場所に長居することを避けるように、ハンガーにかけてあった制服をさっと着込んだ。
そして、美味しい朝食の待つダイニングへ向かおうとしたところで、私は足を止めた。
「その前におしっこ」
あれだけの地図を布団に描いておいて、まだしたいのかと思うと、恥ずかしくて堪らないが、生理現象なのだから仕方がない。
トイレで無事に排尿を終えた私は、手を洗ってから白い湯気の立ち上る食卓に着く。
すると、お母さんが言った。
「お母さん、布団とシーツ片付けてきちゃうから、先に食べててね」
「やっぱり、私も手伝おうか?」
「だから気にしないでってば。マルちゃんはおねしょの治りが遅い方だったから、こういう処理は手慣れているの。私が手伝えることなんて、もうこれくらいなんだから」
そうにっこりと微笑んだお母さんは、すたすたと二階に消えていく。
私は言われた通り、先に食べ始めることにした。
朝食を食べ終えた私は、時間になったので家を出る。
すると、そこにはすでに幼馴染の彼――タマくんが待っていた。
「おはよう。マルちゃん。今日はお布団を干すにはいい天気だね」
屈託のない笑みを浮かべ、挨拶をしてくれた彼の視線の先を見ると、私の家のベランダだった。
そこには今朝私がおねしょで汚してしまった布団がもう干されていた。これでは、私は今朝おねしょをしましたと、彼の前で宣言しているようなものではないか。
……お母さん! もうちょっとだけ待ってよ……!
私は恥ずかしさで熱くなる顔を手で覆いながら、どうにか動揺を鎮めていく。
怪しまれないように、やっとの思いで平成を装った私は、いつも通りの調子で彼に挨拶をした。
「おはよう。確かに、今日はいい天気だね」
冬の澄んだ空気中、どこまでも高く見える空の下、私は彼と歩き始めた。毎日きちんと私に歩幅を合わせてくれる、彼に感謝をしながら。
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