第三話 彼との日常(2)

 三年間歩き続けたこの通学路も、あと数日しか利用しないと思うと、感慨深いものがある。

 制服の間から入り込んでこようとする冷気をマフラーや手袋でしっかりとブロックしながら、私は幼馴染の彼――タマと、中学校に向かっていた。


「昨日のあれ見た?」

「見たよ。面白かったよね」

「この間、おすすめした漫画、どうだった?」

 たわいもない会話をしながら、私たちは歩く。


 ……周りから見れば、付き合っているように見えるのかな?


 ふと、そんな考えが浮かぶ。

 私にとって、彼は緊張せずに済む居心地のいい相手。

 しかし、それは私の目線での話だ。

 なんとなくではあるが、ちょっとした時に見せる、仕草などで、彼が私に好意を持ってくれているのはわかっている。


 ……しかし、その気持ちに私は応えられない。


 もし、恋人になった後に、つまらない理由で関係に亀裂が入るようなことがあったら、私は唯一心を許せる友達を失うことになる。

 それだけは、絶対に嫌だった。


 彼の優しさにつけ込んで、利用しているようで、ちょっと複雑な気分ではあるが、今はただこの歪な関係を、いつまでも続けていたいと思う。



 学校へ着いた私たちは、それぞれの席に向かう――といっても、隣同士なので、目的地は一緒だった。


「よいしょ」


 席についた私は、背負っていたカバンを下ろし、荷物を整理していく。

 その間も、彼との何でもない会話は続いていた。


 やがて、予鈴がなる。

 私は若干の尿意を覚えていたが、彼の前で言い出すのは恥ずかしく、授業が終わってから行くことにした。

 授業と言っても、受験を目前に控えているため、ほとんど自習である。そのため、先生に当てられて緊張することもないため、一限くらいなら余裕だろうという考えだった。


 しかし、結論から言って、その考えは甘かったと言わざるを得ない。


「会長。ここ教えてくれない?」

「だからもう生徒会長じゃないって……」

「じゃあ、元会長。いいから教えてよ。どうせ推薦が決まってて暇なんでしょう? タマくんも教えてよ」


 そう言って声をかけてきたのは、小学校からの長居付き合いである女友達のミキだった。

 ずいぶん前に相談されたのだが、ミキはタマのことが好きなのだ。

 ゆえに、私を通して彼に近づこうとしている。

 大事な受験前にそれでどうするのか、と思う私だったが、断ればどうなるかわからないので、私は緊張を堪えて教えることにする。


 私には、小学校の時にいじめを受けた経験がある。

 いじめと言っても、そこまで過激なものではなく、不本意なあだ名をつけられたり、理由もなく遠ざけられたりしたくらいである。

 しかし、他人から見ればその程度でも、当事者の心には深い傷が残るもの。

 この時のいじめが原因で、私は緊張したり、トイレのことを意識したりすると、おしっこが我慢できなくなってしまう体質になってしまったのだ。

 だからこそ、一緒にいても緊張しない、彼の存在はとても大きいのだ。


「えっと、ここはね……この考え方を使って解くんだけど――」


 ミキに勉強を教えながら私は、机の下でひっそりと太ももを擦り合わせる。

 ミキを前にした緊張で、尿意が高まってきてしまったのだ。


 ……どうしよう。このままだと、授業が終わるまで我慢できない。


 私は、焦りを覚えながらも、落ち着いた様子を演じる。

 自習の間は、騒ぎさえしなければ、自由に席を立つことが許されているため、こっそりとトイレに行ってしまえばいいのだが、こんな静かな教室で椅子を引いて立ち上がれば、大きな注目を集めてしまうだろう。

 その緊張で、おしっこが出てしまわないとも限らないため、できれば授業が終わるまで我慢したかった。


「やった。解けた。ありがとう、マル。それで次はここなんだけどね――」

「ま、まだあるの?」


 私は、思わず心の声を口に出してしまう。やってしまったと思ったが、ミキは気にするようなそぶりを見せなかったため、ほっと胸を撫で下ろす。


 ……あっ!


 そうやって、気を抜いたのがいけなかったのだろう。

 じわりと、温もりが下着の中に広がった。私はついに、おちびりをしてしまったのだ。

 一度緩むと、おしっこはとめどなく、我先にと溢れ出してこようとする。

 それを太ももをぴったり閉じることで、どうにか押し留める私だったが、このままでは確実に教室でお漏らしをしてしまうだろう。


 ……私がいじめられるきっかけとなった、あの日のように。


 それだけは絶対に嫌だった。

 その一心で、私は必死におしっこを我慢する。きっと、顔色は酷いもので、額には脂汗も浮かんでいたことだろう。それでも、授業中にトイレに立つ勇気は出なかった。


 そうしているうちに、またおちびりをしてしまう私。

 もうダメかと思ったその時だった。


「先生――マルさんが具合が悪そうなので、保健室まで同行してもいいですか?」


 隣の席に座っていた彼が、まっすぐに手を挙げて発言したのだ。

 急な出来事に、教室は騒然とする。みんなの視線が、ぐっと私に集中する。私は、あまりの緊張で吐き気まで催してしまった。

 しかし、それが功を奏したのか、先生は心底心配した様子で言った。


「確かに、顔色が悪そうだな。いいぞ、行ってこい」


 先生からの許しを得た彼は立ち上がると、私の手を取る。

 そのまま私を立ち上がらせたかれは、ミキを押し退けて、廊下へ出る。そこで彼は、私の耳元で囁いた。


「もしかしてトイレ?」

「……うん」

「ごめんね。僕がずっと話しかけちゃったせいで。言い出しづらかったよね。とりあえず、保健室に行く前に、そこのトイレに寄っておこうか」


 彼に手を引かれるまま、私は歩く。

 一歩踏み出すたびに、お腹に振動が響いて、じわりじわりと温もりが広がる、しかし、彼の見ている前でお漏らしなんて恥ずかしい真似はできないと、手でスカートの前を押さえて、ぎゅっと我慢した。


「……ッ!」


 やがて、トイレの前まで来ると、彼は私の背中をそっと押してくれた。

 よろよろとした足取りで、幾度となくおちびりを繰り返しながら私は個室に向かう。

 そして、慌てて鍵を閉めると、下着を下ろして用を足した。


「ふう……」


 私は、どうにか間に合ったという事実を噛み締めながら、私はため息をつく。

 和式トイレであるため、ジョボジョボと大きな水音が、静かなトイレに響き渡っていた。


 ……廊下まで音、響いちゃってるよね。でも、水を流すのも意識してるって思われそうだし。


 しばし葛藤した結果、私はそのままおしっこを出し続けることにした。

 やがて、放尿が終わると、カラカラとトイレットペーパーを取り出して拭き、水を流した。

 そして、下着を穿く。


 ちょっと湿っていて冷たかったが、まさか下着を穿かずに彼の前に戻るわけにもいかない。冬の寒さと合わさり、氷のような冷たさだったが、我慢できないほどではない。


「ありがとう。タマくんのおかげ間に合ったよ」


 手を洗ってトイレを出た私は、タマくんに感謝を伝える。彼が咄嗟に行動を起こしてくれていなかったら、今頃私が教室で醜態を晒していたことだろう。

 そう考えると、またいじめられるのではないかと言う恐怖で、足がすくんだ。

 それと同時に、彼への温かい気持ちで胸がいっぱいになる。


「そう。なら良かった。それじゃあ、保健室に行こうか」


 彼の体温を感じさせる手に引かれながら、私たちは保健室へと足を向けた。

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