第20話 試練

 旅の空の下――

 仕留めた魔物で腹を満たした後、見晴らしのいい場所に寝床を作り、なまりきった筋肉をほぐしながら、老人はあの夜のことを思い出す。


 ◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇


 祝宴が開かれた夜、牢の中――

 老人は彼女に言った。

「その覆いの下を…… 見せてはいただけませんか?」

 僅かに逡巡した後、少女は頷き、ゆっくりとフードを上げる。

 透き通るように真っ白な肌に赤みがかった金の髪。老人はその全てを知っていた。

 奇跡だった。

 眠り姫は既に目覚めていて、どのようにしてか、貴族の懐に潜り込んでいたのだ。

 安堵に全身が崩れ落ちそうになる。再びやり直す幸運を得たのだ。今度こそ間違ってはならない。これから口にする言葉には、五百年の全てがかかっていた。

 足が震えた。喉がからからに乾いていた。

 彼女に笑いかけてもらいたかった。感謝してもらいたかった。

 夢を見ていたのだ。

 鍛冶師なら誰もが一度は見た夢だ。この少女が目覚めた後、行く当てもない彼女を迎え入れて、塔で鍛冶師と一緒に仕事をするようになり、いつか村の誰か、できれば自分と結婚して、最後は子供や孫に囲まれて、楽しかった人生を思い出す。

 そんな輝かしい夢だ。

 叶うとは全く思っていなかった。だが今、それは目の前にあって、手を伸ばせば届くかもしれない。

「私は、私たちはあなたをずっと…………」

 代々、あなたを見守ってきたのだ。そんな風に言おうとしてしまった。

 そして視線に気付く。少女は老人の葛藤を、黙って見つめていた。

 もしこんなことが起きたなら、何をどう言うべきか、もう決めていたつもりだった。

 だが言えなかった。

 ただ少し黙っておくだけ、それだけで作り話は真実になる。物語は美しいまま終わる。

 屑の同類だと思われたくない。正しい人だと思われたい。

 だが今その感情のままに、代々の長が引き継いできた思いを、裏切ってしまったら―― 何のためにここまで生きてきたか、分からなくなってしまう。

 そして老人は夢を捨てた。

「どうか聞いていただけないでしょうか」 

 エルマーを迎え入れ逃がした人々のように、今、本当の試練にかけられているのは、自分たちだった。

「お伝えしたいことがあるのです」

 少女は少し申し訳なさそうに微笑む。

「塔でのお話ならもう聞いていますよ」

 あの時、彼女は近くにいたのか。恥ずかしさに消えたくなる。

「あれは偽りなのです」

「どういうこと、でしょうか?」

「確かに祖先は地下であなたを見つけました。しかし、そこにいたのはあなただけでした。魔物はいなかったのです。迷宮の中で迷い疲れきった男だけの集団が、一息つける安全な場所で、眠る女を見つけた時、何をするでしょうか」

 少女の笑みが消える。

「続けてください」

「その時、その中の一人が反対したそうです。下っ端の荷物運びだった、と聞いています。エルマーという名の少年でした。彼は男たちに袋叩きにされて、瀕死になり、そして死の直前に、真竜に変化したのです」

「……人が竜に、ですか?」

「信じがたいことですがそう伝えられています。当時の彼は今ほど大きくなかったそうですが、呆然とする男たちを叩き殺していき、そして死者を魔物に変えて、己の従順な配下としました。大真竜の周りに真竜がいたのを見ましたか?

 あれは当時の祖先たちの変わり果てた姿です。そして彼らを従えたエルマーは、残った男たちを脅しました。

 次に同じことをしたら貴様ら全員殺してやる。だが俺の命令に従えば生かしてやる。

 都市の厳しい戒律に馴染めず、追われるように辺境に流れ着いた彼らに、他の行き場があるはずもなく、脅しに従う以外、道はありませんでした。

 エルマーは、肉体が大きくなり過ぎて、そばにいられなくなった後も、配下の鉱石種を操って、あなたを守り続けました。

 その支配は世代を超えて続きましたが、続くうちに形態は変わっていきました。

 初代の男たちは全てを覚えていました。エルマーを恐怖し嫌悪しつつ、罪への責めも感じていました。

 いつ殺されてもおかしくないのだと。

 しかし彼らは己の子孫たちに、恥ずべき罪の話をせず、義務だけを伝えました。

 エルマーはそれを許し、罪は消えていきました。

 隠そうとした者は結局、成功したのです。ですが、十分に成功してしまったために、隠そうという思いも失われていきました。最初の男たちは皆聖者であり、自分たちは聖者の子孫である。それが当たり前のことになった時、疑う必要がどこにあるでしょうか。

 罪を伝える者はその時を待っていました。そして全てが途切れた頃、記憶を引き継ぐものが、鍛冶師の長となりました。以後、最初の罪はずっと、鍛冶師の長にだけ伝えられていきました。私はそうして、ここにいます。

 私も最初にこの話を聞いた時は、己の血が汚いものに思えました。

 祖先がしたことなど関係ない。知らなければよかった。あの頃はそう思っていました。

 それでも今は、聞いておいてよかったと思っています。目覚めたあなたに、こうして、全てを伝えることができたのですから」

 聞き終えた少女は口を開いた。

「話さなければなかったことにもできたでしょう。なぜわざわざそんな話をしたのですか?」

「記憶を残した者はこう考えていたそうです。いつかあなたが目を覚ました時、眠っていた間にされたことを、覚えているかもしれない。その時、誰もが罪を忘れ、誰もが聖者面をしていたなら、あなたは私たちを決して許さないだろう。しかしそこに一人でも覚えている者がいれば、あなたに許しを乞うことができるだろう、と。

 ただ、もしあなたが覚えていなかったとしても、それなら、なおさら伝えなければいけないと、私は思っていました」

「それは、どういうことですか?」

「エルマーの人生が報われてほしかったのです。今では、原型はどこにも残っていませんが、最初のエルマーの物語は生き残った男たちに、事情を聞かされた子供が作り上げたものです」

 エルマーは生き残った男たちからは憎まれた。彼らにとってはエルマーこそが裏切り者だ。仲間内の結束を乱し、友の命を奪ったからだ。

 だから彼らは子供たちに語り残した。自分たちこそが犠牲を払った聖者であり、少年は卑怯で無能な嘘つきだったと。

 だがそのあまりに一方的な罵倒に、子供は父親の醜さを感じとると、真実を求め、物語を再構成した。

 彼は父の罪を知っただろう。父への怒りを感じただろう。

 しかし物語は父の欺瞞を暴くものではなく、少年を讃える英雄譚として残された。

「それは勇敢な少年が姫君を助ける物語でした。我々はみな、罪人の子孫ですが、心はエルマーと共にありました。ですがそれは分不相応な名誉で、本来の英雄に返すべきだと、いつも負い目を感じていました。その負い目がエルマーの英雄譚を作らせ、今、こうして、私を語らせているのです」

 老人はそうして告白を終えた。全ての重荷を降ろせた。どうなろうともう悔いはない。

「この身はいかようにも。覚悟はできております」

 少女はどこか疲れた声で言う。

「私はあなたの祖先が危惧していたとおり、眠っていた間のことを知っています。ただ記録が壊れかけていたので、いつだったのか、誰がしたのか、分からないままでいました。最初はあの青年を疑っていましたが、どうもそんな人ではないようで、少し悩んでいたのですが、あなたのおかげで疑問を解消できました」

 彼女はやはり憶えていたのだ。その視線は冷たく凍っていた。

「この姿は古い友人の、大切な人のものでした。だからあなたたちには相応の報いを与えたい、そう思っています」

 老人は震える。少女は微笑む。

「しかしそれも、あなたが教えてくれなければ、感じることもできなかった憎悪です。あなたには何もしません。ただ少し教えてください」

「……何でしょうか」

「あなたの話が本当なのであれば、エルマーは五百年生きていたことになります。それはありうることなのですか。本当にあれはエルマー本人だったのですか?」

「大真竜は殺されない限り、永遠に生きると言います」

「確かめられているのですか?」

「所在を確認されてから最初に討伐されるまで、二百年かかった大真竜がいます」

「二百年は生きたのですね」

「老いで死んだという話もありません。不思議に思うこともないのでは? あなた自身もそうなのでしょう?」

 老人の返しの問いに、少女は答えなかった。

「では、もう一つ…… あの大真竜、エルマーは、私が目覚めたことを知っていたのでしょうか」

 老人は少し考えて言う。

「もう遠い昔、中期の世代の話になりますが、エルマーが眠っている隙を見計らって、あなたを連れ出そうとしたことが、何度かあったそうです。しかしどの時も、例外なく、地上への道は、真竜たちに塞がれてしまっていたそうです。おそらく、あなたが部屋を出れば、すぐに分かるということなのだと思います」

「なら気付いていたのでしょうね。彼は私の前で死にました。私は彼に何も返せませんでした」

 少女は悼むように瞑目し、それから静かに言った。

「エルマーがあなたがたを許したのなら、私もあなたがたを許しましょう」

 安堵はなかった。罰してほしかった。そのために生きながらえてきたのだ。

「あなたと話せてよかったです」

 それで少女は気が済んだようだ。老人に背を向けると歩き始める。

「お待ちください!」

 少女は足を止める。

「まだ何か?」

「お願いしたいことがあるのです!」

 気付けば出ていた言葉だった。

「本気で言っているのですか」

「私たちに言えたことではないと、傲慢なこととは分かっています」

 少女は振り返らなかった。だが歩き出しもしない。

「それでも、私は終わらせたいのです」

 老人は語り始めた。

「都市にいた頃―― 私が所属していた小さな集団は、突然、解散を命じられました。理由は知りません。しかし三人の中心人物のうち、一人は事故で死に、一人は僧院を去って荒野に消えました。最後の一人は何も言わず縁を切って、そのまま地元に帰ってしまいました。残った者はあっけにとられ、それから長く苦しみました。

 私たちは揚水機の単なる収集家でした。重力に逆らって水を運ぶ機構です。その技術の変遷を調べ、遺跡から古い機械を拾い集めるだけの、子供の遊びのようなものでした。しかし、それに関わった者たちはみな、いつのまにか避けられ、何かに追われるように、姿を消していきました。

 もしかすると気付かないうち、貴族たちが定めた禁止事項に、触れてしまったのではないか。

 私はそう疑っています。

 禁止なら禁止でよかったのです。揚水機にこだわりはありません。当時の私たちは僧院に馴染めない半端者で、気晴らしになりそうな趣味を探して、何となく集まっただけでしたから。

 ただ真実はもう分かりません。そうなると残るのは漠然とした恨みです。

 消えた仲間への、潰した僧正への、僧院への、貴族への。

 四十年以上が過ぎた今も、あの頃のことを思うと、もやもやとしたものを感じてしまいます。

 今の私たちもこのまま進めばどうなるか。恨むしかなくなるでしょう。

 村長を、貴族を、世界を。

 くすぶる怒りは復讐を求め、遂げられない復讐は己への落胆となり、もう諦めることもできなくなって、最後にその対象は何でもよくなる。その先にあるのは地獄です。

 奪われるということは、そういうことなのです。

 今の鍛冶師は、あなたを目覚めさせるために、隠れ蓑として鍛冶を選んだだけの組織でした。一応鍛冶師らしいこともしていましたが、エルマーと共に負った義務がその中心でした。しかし、いつまでたってもあなたは目覚めず、私たちも何もできませんでした。その義務は風化した過去の遺物、とっくに終わってしまったもの、妄執でさえない惰性です。しかしわずかな可能性はいつまでも残り、私たちはその可能性に酔い痴れ、縛られていました」

 正義、希望。今は叶わなくとも、遠い未来、遥か彼方まで、そのために進み続けられるもの。

「しかし永遠の役割と思えたことも、今は成就してしまいました」

 本当は終わらせたかったのだ。この馬鹿げた信仰を。しかし愚かと笑うのではなく、妄想へと腐らせるのでもなく、結末のあるものとして、正しい形で終わらせたかった。

「このままではあなたがいなくなった後も、もう意味がないと半ば悟りながら、無為を続けることになるでしょう。そうして続けるうちに、年月が諦めることを不可能にしてしまう。続けることそのものに、意味があるようになってしまうでしょう。そういう形だけの義務は、人を腐らせてしまいます。私たちも、半ばそうなりかけていますが、だからこそ、正しい結末がほしいのです」


 ◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇


 ベルトの夜は肌寒く、景色は物寂しい。神なくしては死の大地であることが、白骨のような姿からはっきり感じられ、敬虔な気持ちになってしまう。

 老人はそんな自分を笑う。

 神など信じたことが本当にあったか? あんな見下ろしているだけのものに、期待をかけるなど、馬鹿げたことだ。

 あの女神は老人の願いを叶えて、鍛冶師たちのやってきたことに意味を与えてくれた。そんな彼女が悪だというのなら、この世界こそが悪夢に違いない。

 鍛冶師の中で最年長のムドは、彼女を見送った後、ぼけきっていたはずなのに一時的に正気に返り、全て、これでよい―― そう囁いて息を引き取った。

 冗談の好きな男だった。

 彼は満たされたのだろうか。おそらく、そうだ。ムドは、業病に耐えながら、今日まで生き延びたことを、誇りながら逝ったことだろう。立ち笑う彼女の姿を見られただけで、満たされたのだ。最初に出会った時から、自分たちは、ずっと恋をしていたのかもしれない。

 最初は大人の女性で、そして同年代の少女、気付けば娘になって、最後は孫になる。

 全ての鍛冶師の一生は、常に彼女と共にあった。幾度人が死を迎え、輪廻が廻っても、変わらなかったものがそこにある。

 罪を背負ってなお、それは幸福だった。

 捨てた願いは棘のように刺さっていた。あの時、違う言葉を口にしていたなら、優しい彼女はそれでも全てを呑み込み、女神を演じ続けてくれたのではないか。今ならば、そう思える。だがもう全ては終わってしまったのだ。

 この後悔は死の瞬間まで、消えることはないだろう。

 隣には誰もおらず、死の時まで孤独で、焼き印を受けた身は荒野を出られない。

 だが不思議と手足が軽く感じた。

 どこか空しく、なお誇らしく。

 もう何も持っていないのに、どこにでも行ける気がした。

 そういえばさっきの肉は苦かったな。明日は、もう少しうまい肉を狙おう。老人はそう決めて今日の眠りにつく。

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