第15話 エルマー・マクストンの物語

 マクストンの冒険――

 ベルトにはそう名付けられた物語がある。古くから語り継がれている伝説だ。それは本当にあったことかもしれないし、盛りに盛った大ボラ話かもしれず、完全な作り話なのかもしれない。だがどれであろうと関係なく、少年はその物語が好きだった。

 それは英雄譚だ。

 エルマー・マクストンという剣士――

 貴族のお姫さまを助けた勇敢な青年が、ベルトを一周するほど逃げ回りながら、出会ったたくさんの協力者に助けられ、執念深い追っ手の悪い貴族たちを退け、姫と共に静かに暮らす地を得るまでの、愛と勇気の勝利を謳う冒険の物語――

 協力者の種属には諸説あり、追っ手の家系にも、活動した時期にも諸説ある。

 ネオブッディズム正統派の一員だったとも、修道会の助けを借りていたという話もあり、創設直後のスワルガに立ち寄ったとも言う。

 当時から続く宿場には、彼らに関するエピソードが必ず残っていた。

 世間知らずな貴族の姫と勇敢な青年の二人は、実在の人物かどうかもはっきりしないのに、スワルガ戦争を題材にした劇では、敵方であれ、味方側であれ、必ず登場する常連でもある。

 おおよその年代は共通していたが、百年以上時期が違うこともあった。

 彼らは常に二人で旅をしていたが、場所によって姿は全く違っていた。

 全てが真実だとは言えない状況だ。その矛盾は広く知られていて、それでも少年は彼らが好きだった。

 あらゆる障害を乗り越えて、愛を貫く二人が眩しかった。

 エルマーという男の楽天的で、間抜けで、真剣になれなくて、めんどくさがり屋で、でも必要な瞬間には、やせ我慢ができる勇敢さが好きだった。

 そして何より、二人が進退窮まるたび、手を差し伸べた人々に憬れた。

 そんな都合のいい話はない。

 あの場面に、自分が本当に立ち会って、その時彼らのようにできたかと言えば、できなかったかもしれない。そもそも、その気にもならなかったかもしれない。

 二人を救うことは自殺行為でしかない。貴族を敵に回すことには何の得もない。そう分かっていながら少年は願うのだ。

 彼らのようでありたいと。

 実際、マクストンの冒険の真の主役は、逃げる二人を助け続けた開拓民の方だ。幾つかの特殊なエピソードを除けば、二人の逃亡者の到来から始まる断片で、本当の試練にかけられたのは、彼らを迎えた住民たちだった。

 少年の故郷に伝わっていたものも逃亡者の到来から始まる物語だが、外伝的な他の宿場の物語とは違い、二人の運命の中心を担い、それは村の運命さえ大きく変えた。

 マクストン迷宮――

 彼の事跡は迷宮の名に残っている。そこは物語の結末の地だった。

「俺はマクストンという男が嫌いだ」

 その時の兄は吐き捨てるように言った。

「そうかなあ」

 その時の少年はぼんやりとそう返した。

「あなたを永遠に守る―― うん、やっぱり悪くないと思うけど」

 名高い場面を語る少年を見返した兄は、昏い目でこう言った。

「違うよ、ロウ。エルマーはここで、姫を目覚めさせたまま、共に生き、戦い抜いて、死ぬべきだったんだ」


 ◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇


 少年の了承に老人は微笑んだ。

「始めていいかな、ロウ」

「どうぞ」

 少年は肩をすくめる。

「では最初に―― この村はかつて滅びかけた。その経緯を覚えているかね」

「街道が移転した時のことでしょうか?」

 村の子供は、危険を避けるため、記憶が重要だとまず教えられる。厄災は突然起きる。理解しにくさこそ厄災の本質だ。分からなかったとしても、何もしないで様子を見ていれば、時間が解決してくれることもあるけれど、更に悪化することもある。そして何もしないことが、致命的な被害へ繋がっていくこともある。

 大事なのは前例だ。

 似ている事例を知っていれば、少なくとも失敗へと続く道を、選ばなくてすむようになる。そのために、村の子供たちは、幼い頃から物語を聞かされる。

 長老の言うその事実とは、語りの場で何度も聞いた、重要な物語の一つだった。

「そう、その時のことだね」

 老人は頷くと確かめるように語った。

「かつてこの村は街道の宿場町だった。この周辺が開拓の最前線だった頃だ。城砦には開拓者が集い、巡礼者で賑わっていた。しかしその繁栄は、眠りの宮のことが世に知られ、貴族の廃棄場となった時に終わった」

 街道は迷宮口を迂回するルートに移され、街道の中継点としての宿場も、物資の集散地としての市場も、新しい街道に新設された基地に移された。

 資金の流れが遠く離れた地域に去った時、住民の大半は故郷を捨てた。だが祖先は踏みとどまった。恐怖はあったが、巡礼の道の放棄は許されないと信じたのだ。命を賭けて祈りの旅に赴く者がいる限り、彼らが休息をとる地が必要だと。

 その信仰は無意味だった。

 開祖の足跡を辿るはずの巡礼の道は、安全で便利で無関係な地域に引き直され、そして巡礼そのものが廃れていった。それでも正しい選択をしたのだ。祖先たちは信じ、誇りとし、巡礼者のため宿場を営み続けた。

「これが私たちの知る始まりだ。だがそれは始まりでしかない。身に覚えのない誇りのために、苦難に耐え続けるのは難しい。顔も知らない祖先が貫いた信仰の代償、それを背負わされた子孫を支えたのが、あの眠れる魔物の物語だったのだろう。今に至るまで語り継がれた理由は、そこにあるのかもしれない」

 それは少年自身も辿りついた推測だ。頷いた少年に老人は問う。

「ロウ、君は遺跡の魔物の物語のことを、どこまで知っている?」

「あの短い歌だけです」

 詩という切り詰められた言葉の断片、それが語るものは常に曖昧だったが、だから多くの意味をその内に宿せる。

 過去から伝わる歌――

 それは昼と夜の繰り返しを主題として、大神の勝利を祝うものだったけれど、穿った受け取り方をするなら、敗者への共感を聞き取ることもできた。

 始まりとなった現象は確かにあった。少年自身もその天変地異に遭遇した。

 昼のさなか、まるで夜のように光が失われ、真っ暗闇になり、それが数十秒続いた後、この遺跡に光の柱が立つと、その直後、光が戻ってきて、景色も元通りになる。

 本当のことを言ってしまえば、少年は全く信じていなかった。

 老人たちを否定したくない。そう思っていただけだった。

 だが今はもう信じない訳にはいかない。少年はその通りの現象を経験したのだ。

「ではあの歌が作られた背景はどうだね。誰がいつどのような意図で作ったのか」

 老人は問いを繰り返す。

「あまり知りません」

「推測はできるかね」

 教師のような問いに少年は考えをまとめる。

「街道移転の時期に、移住反対派の誰かが、自分たちの心の支えとするために考えた、というところでしょう」

 それは過去の経緯を知った村人なら、大半の者がいつか至る推測だ。

 その物語には人の願いを取り込んだ感じ、つまり創作の匂いがある。

 この場合、物語の作り手は、おそらく都市留学の経験者、村長の家系か、鍛冶師の長辺りになるのか。彼らが、マクストンの物語を参考に、偽りの神話を捏造したのだ。以前はこれで納得していた。

「いい回答だ。だが、おそらく違うだろう」

 あっけなく認めた老人に少年は問い返す。

「始まりの現象が本当にあったからですか」

「君は立ち会ったのだったな」

 少年の問いに老人は頷く。

「その通り。伝承は何もないところから、想像力で作り上げられたものではない。原型であり、ほぼ完成形である証言は、マクストン到来以前から存在していた。逆に、一連のマクストンの物語こそが、その影響を受けて生まれたものなのだ」


 ◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇


 この村はマクストン伝説の最後の舞台だ。

 最も広く知られているバージョンは、貴族の甘言に踊らされたエルマーが、姫君から離れてしまうという流れだ。

 二人の絆は断ち切られてしまいそうになるが、お互いを信じることで再び結ばれる。

 しかし和解は遅すぎた。

 権能を限界を越えて使用した姫君は、安心した瞬間に、精神の平衡を崩してしまい、創生の輝きを制御する力を失ってしまう。

 ベルトを破壊せんとする巨大な力を前に、エルマーは嘆くが、最後に彼女を討ち滅ぼすことを決意する。

 おそらく後世に追加された演出なのだが、彼女は僅かに残された正気をふりしぼり、こう言ったことになっている。

 私は、もしも許されるなら、あなたの手で死にたいです。

 エルマーは彼女の願いを叶えようとした。

 荒野で始まった戦いは一進一退を続けるが、長い旅の中で考案された無数の対貴族戦術、禁忌の対貴族武器を駆使するエルマーが、最終的に勝利することになる。

 このまま終わったなら、この物語は、ベルト全域で数百年にわたり、語り継がれるものにはならなかっただろう。

 ここから唐突な、しかし救いのある結末が続くのだ。

 エルマーが彼女に止めを刺そうとした時、彼女の暴走が鎮まっていることに気付く。戦ううちに辿り着いたその遺跡―― その地下深く続く巨大な遺跡こそが、当時は眠りの宮と呼ばれ、後にマクストン迷宮と名付けられる、貴族の力の発現を抑制し、暴走を鎮静化させる奇跡の地だった。

 穏やかに眠る姫君を前に、エルマーは迷い、そして、眠った彼女をそこで見守り続けることを誓った。

 この展開を辿った彼は守護者エルマーと呼ばれ、その直後の混迷の時代を舞台として、マクストン迷宮に潜り込む探索者たちの物語に、何度も登場することなる。

 これが世に知られたエルマーの結末、マクストン迷宮の発見の物語である。

 だがこの正統の物語――

 マクストン最後の戦い、と呼ばれるものだが、それは複数あるバージョンの一つでしかなく、純粋なハッピーエンドといえるものもあった。そして、そうではないものも。その異伝でエルマーは全く異なる姿を見せた。

「奴は貴族たちに寝返り、彼女を売った」

 それはマクストンという男の役割を悪人に、更には裏切り者にまで仕立て上げる物語だ。

 姫との逃避行に疲れ果てたマクストンは、己の身の安全と引き換えに彼女を売った。

 彼女は穏やかな眠りについたのではなく、貴族たちの残虐な処刑技術により、永遠に目覚めぬよう精神を殺されたのだ。

 実際、結末の地であるマクストン迷宮が、後に貴族の支配下となったことを思えば、無事に余生を過ごせたのかは疑問である。

 この陰惨な結末の方が現実的であり、語られる地域、語る人によっては、こちらが真実とされることもあった。

「でも何年も姫を守り続けたような人が、そんなに簡単に裏切ったりするかなあ」

「その長い年月が心を折るんだ。得るもののない労苦に、人はそう長くは耐えられない」

 兄は笑う。

「俺はこの村を出る。決めたよ。この村はもう死んでいるのに、死にきれずにいる亡者の村だ。俺はここに生まれちまったが、そんな風になるつもりはない」

 翌日は朝から雨交じりだった。

 兄は狩りの軽装で村を出たきり、翌日になっても帰らなかった。

 集落総出での長い捜索の後、血塗れの衣服の切れ端が見つかった。

 兄はそこで魔物に襲われ死んだのだ。しばらくしてそういう結論になった。


 ◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇




(マクストンというのは地名と聞きましたが)

 老人の話を聞きながらロボットが問う。僕は答える。

(人の名でもある。五百年前のことでよくは分からないが、セントラルの文書館に残る記録では、開拓初期に支援団の一員としてベルトに降り、開拓集落を守って戦死したという男の名だ。迷宮に彼の名がつけられたのは、この地での彼の奮戦を記念するためという。だがベルトに残る伝承では違う出自の人物がマクストンだ、ということになっている)

(どういうことですか?)

(記録に残る名前はジェイムズ・マクストンだ。しかしベルトでの名はエルマー・マクストン。その英雄譚を聞いたセントラルの住人は誰もが耳を疑ったはずだ)

 僕はエルマーの冒険の概要―― 貴族の後継者争いで消されそうになった娘を、エルマー・マクストンというベルトの剣士が保護した、という荒唐無稽な粗筋を説明する。

(そんな貴族の争いなんて記録にも存在しないし、貴族の争いに人が介入できるのかも疑問だ。なぜその男が迷宮の発見者になったのか、どこからその名が出て来たのか、誰にも分からなかったんだ)

 だがもしもあの時、セントラルにいた日、イフリートの少年を助けて逃げていたら、僕もエルマーのように生きたのだろうか。それはもう誰にも分からないことだった。

(その答えがここにあるという訳ですか)

 僕は頷く。

(聞いているだけという訳にはいかないが、興味深い話だな)




 ◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇


「おそらくマクストンという名の誰かはいた」

 老人が話し始めたのは開拓初期の物語だ。眠れる人と異形の真竜の物語であり、彼らと出会った祖先の物語でもある。

「だがエルマーという人間は実在していない」

 周囲の鍛冶師たちも手を止め、老人の言葉に耳を傾けていた。

「なぜならその名は我らの祖先が、一匹の魔物に贈った名だからだ」

 開拓初期、未踏領域に突入した祖先たちは、辺境の遺跡の地下で魔物の群れに襲われて、最深部へと追い詰められ、その果てに眠る人のいる部屋に辿り着いた。

「知っているかね。開拓の時代には、鉱石種はまだ存在しなかったのだ。その姿は人々の知る魔物から遠く、祖先らをひどく戸惑わせたという」

 眠れる彼女の傍らには異形の魔物がいた。誰も見たことのない姿だった。

 彼の姿を見た祖先たちは最初、魔物が彼女を監禁しているのだと思ったが、実際には彼女は、決して目覚めることのない眠りの中にあり、魔物はその無防備な身体を守っていたのだ。

 彼は眠る人のための身の回りの品を求め、その代わりに魔物からの安全を約束した。

 祖先たちは傷が癒えるまで、そこで魔物と共に過ごした。

 八つの目を持つ魔物は、ごく穏やかな気性で、眠る彼女の世話を四本の腕で器用にこなした。

 祖先たちは最初、その少女を人間だと思った。あまりに完全な人の姿をしていたからだ。しかし、共に過ごした数日間は、そうではないと気付くには十分な時間だった。その間、彼女は一度も目覚めなかったからだ。

 息もせず、心臓も動かさず、しかし腐ることもなく、おそらく死んでいながらも、生者であるかのように彼女は眠っていた。また彼女の眠る台座も、貴族の宝飾品のように精巧な作りだった。それは常に輝き、ゆっくりと動いており、彼女の身体を守り続けているようだった。

 祖先はその光景に奇跡を感じた。

『神さまなんじゃないかと思うんだ』

 魔物も彼女の素性を知らなかった。彼女は最初からここにいて、眠り続けているのだと彼は言った。

『俺はこの人が目覚めるのを見たい』

「魔物にとっての神というものが、人にとっての何を意味するのか、分からない祖先たちではなかったけれど、命がけで荒稼ぎに勤しむ探索者にとって、協力できるかもしれない魔物というのは、それ以上に魅力的だった」 

 開拓初期の前線において、命の値段は暴落していた。

 祖先たちに選択可能な職業は他になかった。彼らは生き延びることを期待されておらず、数年以内に八割が死ぬことは確定していた。

 結局のところ、不良品の廃棄先として、魔物の腹の中が指定されただけだった。

「祖先たちは僧院を見限り、生き続けることを選んだ」

 祖先たちは魔物の庇護の下で、前線拠点を築き上げ、開拓の英雄という名誉を得た。

「それがこの集落の始まり、私たちは人類の裏切り者の末裔なのだ」

 老人は微笑んだ。

「始まりは単なる利害の一致だった。だがどうあれ共に生きることは、互いを理解することに繋がった」

 秘密を抱えた集落は困難も抱え込んだ。僧院は反乱を未然に防ぐため、密告を莫大な褒賞と共に奨励していた。

 その誘惑は何度も集落を危機に陥れた。しかしそれが成功することはなかった。

「彼は凶悪な姿とは異なって、慎重で粘り強い性格だった。危機を共に乗り越えるたび信頼は深まったが、魔物と人の距離はそれだけで埋まりはしない」

 最初からあり最後までくすぶり続けた疑いは、光の柱という本当の奇跡によって払拭された。

「祖先たちを動かしたのは中央への失望だ」

 全てを創造し、今も維持する大いなる光。身を焼きながら人を生かす犠牲者としての神の、その正しさが僧院の信仰の正しさだった。

 それを否定するという行為は、人が生きることの否定だった。

 僧院は、その正しさを背景に、ベルト人類の生き残りのため、個々の生を使い潰していった。

「神性を具えるものだけが光を操るという」

 夜と光を共に司る彼女がここに在ることは、隠された真実があることの証拠だった。

 祖先たちはそう信じることで己の怒りを肯定した。

 いつか彼女を目覚めさせよう。そして真実を確かめよう。そのために今は彼女を守ろう。

 誓いは遠く子孫へと受け継がれ、狂える貴族の脅威の中でさえ、後継者は立ち退きを拒んだのだ。

「エルマーは長く生きるうち、魂に呪詛を蓄え、肥大化し、次第に正気を失っていった」

 しかしエルマーは大真竜と化しても、誓いを忘れることはなかった。

 地下に居を構えた彼は、真竜たちを従えたまま、暴走することもなくただ静かに、彼女の眠る地を守り続けていた。そして、だからこそ、祖先たちも誓いを守ろうとした。

「ロウ、君は不思議には思わなかったかね。過去に取り残されたこの村で、鍛冶だけが都市と同じ水準にあることを」

「それはあなたの尽力によるものでは?」

 おおざっぱすぎるところは苦手だったが、知識の深さは少年も認めていた。この村では留学者が鍛冶の長になるのだ。だが老人は首を振る。

「個人の力で為せることなど僅かなものだ。それは数百年の積み重ねの結果であり、彼女を取り囲む祭壇の役割と彼女が目覚めない理由を理解すること、その探求の副産物でしかない」

 老人は語る。

「四百年前、集落移転の頃はまだ、残った村人の大半が知っていたが、時と共に物語は具体性を失って、おとぎ話になっていった。祖先は秘密を守るためか、その変化を放置した。失われてもいい。そう思ったのかもしれない」

 老人は一息つく。

「だが、それでも、だからこそかもしれないが、物語は忘れられることなく、君も知っているように、こうして語り継がれた。私たちは一度記憶の劣化を許したが、それを悔やみ、その代わりに、決して忘れないことを自らに課した。始まりの誓いは今も生き続けている。私たちはその後継者なのだ」

 できれば信じたいと思う。しかし信じきれなかった。兄の言葉が脳裏に響いた。

『この村はもう死んでいるのに、死にきれずにいる亡者の村だ』

 本当にそんな美しい物語があったのか。彼らはその願いの継承者なのか。兄はこの物語を知っていたのだろうか。兄も鍛冶師の見習いだったのだ。

 少年は迷い続ける。

 貴族のキャラバンを襲うということは、報復で集落を消されたとしても文句は言えない行為だった。

 だが彼らの言うことが正しいのなら、貴族が彼女を手に入れるためにこの計略を練ったのだというのなら――

 父は何のために貴族を呼び込んだのか。鍛冶師たちの信仰の源を、祖先が守り続けたものを、何と引き換えに貴族どもに売ったのか。

 エルマーという大真竜――

 言葉を失うほどの闇に呑まれながら、決して人を襲わなかった王は、その裏切りのために貴族に討たれた。

 それは本当に看過していいことなのか。

「随分と長く話してしまったな」

 老人は息を吐く。

「残りは明日にして一度眠ろう」


 ◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇


 う、るさいな、眠れ、ない……

 少年は、意識を取り戻す。頭がひどく重い。疲れが全身に回っていた。寝返りするのも面倒だ。もっと眠っていたい。だが、階下から伝わる異常が、そうさせてくれなかった。

 少年は自分が目を覚ました理由を悟る。階下の大騒ぎに起こされたのだ。少年は仮眠用の寝床に横になったまま、薄く目を開くと周囲を見渡した。部屋の中に見張りはいなかった。両手が後ろで縛られていてうまく動けないが、どうにか立ち上がると、部屋の扉へと向かう。鍵はかかっていなかったが、後ろ手で開けるのに少し手間取る。扉を開けると喧騒が一気に大きくなった。

 何だ…… 何が……?

 寝惚けた頭のまま、下の階へ続く急な階段をゆっくり降りる。

 そこで少年が見たのは乱闘だった。

 広間のそこかしこで鍛冶師と狩人が、殴り合っている。戦いはまだ続いているが、勝敗は既に決まっているようだった。ほとんどの鍛冶師は狩人に捕縛され、残った者も追い詰められて、複数を相手にしている。

「ロウ、こんなところにいたのか!」

「父上……」

 声は村長のものだ。狩人の長と共に指揮をしている。そしてその隣に立っていたのは外套を被った貴族の従者だった。

「君はよくよく不運な立場にあるようだね」

 どことなく愉しげな青年の視線は、少年を縛る縄に向けられている。

「あなたは、あなたが彼らを!」

 少年は青年を睨んだ。

「だが…… こうでもしなければ、彼らは今夜にも貴族の荷を襲撃していた。君も止めようとして止めることができず、そんなことになったんだろう?」

 青年は冷ややかに笑う。その瞬間、一人の鍛冶師が飛び出してきた。その手には小型の金槌が握られている。金槌が振り下ろされた瞬間、

「貴族の犬が! 死ね!」

 鍛冶師の男は宙を舞っていた。男は勢いのまま地に落ちると、呻いて、身をよじる。そのまま踏みつけようとした青年は男がもう動けないのを確認し、掴んだ腕を放した。

「も、申し訳ありません」

 父は恐る恐る青年を見た。

「お気になさらず。彼らの無念は分かっているつもりです」

 狩人たちに拘束された男を見下ろし、青年は静かに言った。

「彼らの信仰の対象を私たちは滅ぼしました。ですが王属を発見したなら確実に討つこと、それは貴族にとっても責務なのです。どうか我が主を許していただきたい」

 まるでエルマーを滅ぼしてしまったことが問題の根源であるかのように。

「分かっております」

 父は即座に頷く。

「鍛冶師の数に間違いはないですね」

「これで全員でございます」

 青年は塔の中を見て回る。その後ろには小さな従者が続いた。

「ならばこの顛末は一夜の幻。ここでは何も起きておらず、私たちは何も見ていない。そういうことにしましょう」

「本当によろしいのですか?」

 青年は微笑む。

「よその些細なもめごとに口を出すほど、私の主の器は小さくないと信じます。このような状況で申し訳ないのですが、迎えの宴の準備を、できれば盛大に。お互い笑い合って終幕としましょう」

 それは皮肉のようでどことなく優しい、からりとした締めくくりの言葉だった。

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