第7話 紅の霧と狂える貴族
鋭い棘が肌を切り裂く。足裏が擦り剥けていく。
僕は葉の茂みを掠めて、蔦と蔓に指をかけ、枝から枝へと跳び、樹皮を踏み、幹の中心を蹴って、絶えず進行方向をずらしながら、植物のしなりを力に変えて、樹上の空間をジグザグに駆ける。
背後からは破壊音が迫る。
彼女は僕のように木々のばねの反動を自分の力に上乗せしてはいない。ただ単純に圧倒的な駆動力で障害を叩き潰し突き進んでくる。だがそれでも僅かに僕より速い。僕は歯噛みする。ノイズ交じりの声が脳内に響く。
(逃げても無駄です)
触れていなければできないはずの会話がいつの間にか遠く離れていても通じるようになっていた。
まさかもう脳をいじられていたのか? だがそれなら反抗を企てることも、こうして逃げることもできないはず。まだ途中だった、ということなのか?
今のままではこちらの体力が先に尽きる。接近されたらあれには抵抗できない。どうすればいいんだ? どうすればいい!
思考は乱れ、まとまらない。僕はひたすら前へと逃げる。だが速度は向こうが上だ。追跡者はすぐに追いつく。そのたび彼女は大きく跳び、僕を捕まえようとする。僕はぎりぎりで身をかわし、何とか距離を取る。その繰り返しの中で追い詰められているのは僕の方だった。
彼女は僕をその手で直接捕まえることよりも、進路を誘導することに狙いを変え始めている。僕は森の中心に逃げようとするが、そのたびに先回りして道を塞がれてしまう。僕はゆっくりと森の端へ近付いている。木々がまばらになり選択肢が限られていく。
そして僕は遂に樹上で逃げ道を失った。目の前には荒野が広がる。ロボットが跳躍してくる。樹上から飛び降りるしかなかった。着地した後、転がりながら立ち上がる。僕はそこに立ちこめる匂いにくらりとした。
むせるような腐敗と死と生命と溶解の匂い。終わりと始まりの円環を繋げる菌類の作用。それは生命の揺籃だが、そこには何もない。そこでは生命さえ腐り果ててしまうからだ。
その匂いには覚えがあった。
ロボットは樹上から僕を見下ろしていた。その美しかった服は見るも無残な状態だ。植物の残骸に塗れ樹液に濡れている。力任せで突き進んできた証だ。だが動きに陰りはない。
(もう終わりですか)
少女は樹上から降り立つと土を蹴り散らしながら迫る。
その時だった。
凄まじい爆裂が空気を切り裂いた。直後、全方位から衝撃波が襲う。土が身体に降りかかる。少女は足を止めると、衝撃の源に向かい警戒態勢を取る。
全身から洩れ出ていた暁光が瞬時に消え失せる。彼女の見る方角に目を向ける。
そこでは鮮血のような紅の光芒が空間を埋め尽くしていた。紅に染まった霧が吹き荒れている。強すぎる腐食の匂い―― 飛沫が飛び皮膚を濡らす。皮膚が紅に染まり、広がった紅は次の瞬間に溶け落ち、粘液状になって流れ落ちていった。
「ぐ、あッ……く…………」
血が溢れ出る。僕は霧に背を向け全力で逃げ出す。ロボットは既に大きく跳躍し、霧の圏内から遠く逃れていた。
(……これは何ですか!)
ロボットは呆然と問う。僕に答える余裕はない。
皮膚の溶け落ちた片腕から激痛が伝わる。ロボットもまた片腕を抱えていた。霧の飛沫を受けたのだろう。右腕の手甲が溶けてしまっている。少女は役立たずになった装備を分離させると、その場に放り捨てた。合金の屑は重い音をたて、黒土の上に転がる。アダマンティウム自体は原型を保っているが、それ以外の材料で作られた部品全てがどろりと溶けてしまっていた。
(アダマンティウムを腐食しているのですか、この霧は、何という理不尽な…… ありえない、こんなものありえない、こんなもの、どうやって……)
少女の声は困惑を隠さない。
僕も混乱していた。なぜ迷宮奥深くに封じられた狂える貴族がこんなところまで出てきているのか?
濃密な霧の向こうはよく見えない。何者かがその中心で戦っているようだが、それを見ることはできなかった。だが僕はその霧の紅の色彩を知っていた。忘れるわけがない、災厄の日の紅、永遠の都ミレニアムを溶かし尽くし、僕から全てを奪ったレンフルーの紅の霧。
(レンフルーとは何……で……か?)
僕は少女に目をやる。紅の霧が深まると共に声の質が悪くなる。通信が霧によって妨害されているのか。ロボットがこちらに近付いてくる。僕は逃げる気にもなれなかった。障害物のない平地では速度の差がありすぎた。彼女は僕の首を掴む。気管が締め上げられる。
「ぐか……か、くはッ……」
強引に草原に押し倒される。気が遠くなる。もがくがどうにもならない。
(やっと捕まえました。これで通じるようになりましたね。説明してもらいます)
誰がお前なんぞに協力するか。鼻で笑い飛ばしてやる。僕はこいつに屈する気はない。
(拷問が希望ですか、そうですか。ならばあなたたちの意志というものが、どれほど脆く、折れやすいものなのか、その身体に教えてあげましょう)
ロボットは苛立ちを隠さない。首を絞める指に力がこもった。
その時だった。
ロボットが振り返る。
洩れていた暁光が瞬時に消え失せる。僕は地面に膝をついて咳をした。その直後、森の奥から何かが転がりだしてきた。溶けかけの薄汚れた襤褸を着た人間だ。それはバネみたいに素早く跳ね起きた。
「いたたたたっ」
艶やかな黒髪はぼさぼさで、澄んだ金色の瞳は、くりくりと僕らを見ている。
「ア、アリス?」
アリスは僕らを見るなり、目を丸くし、口笛をひゅーひゅーと鳴らして、にひひと笑った。
「据え膳はきっちり頂くのが、ラッカードさんのいい所だけど、時と場所は選んだ方がいいよ? ほんと首輪が必要かな? この年中発情中の犬めっ!」
この状況を把握していない阿呆は何だ。このアホ貴族は本物の馬鹿だ! 僕は心の中でその呑気さを罵る。そこでアリスは目を細めた。
「というかさ…… キャンプから出るなって、あたし言わなかった?」
アリスの低い声に僕は呻くしかない。
「それは…… すまない」
「もうしょうがないなあ」
アリスは小さくため息をつくと、唇の前に人差し指を立てる。
「奴はまだこっちには気がついてない。静かにやりすごすのが一番だよ」
僕らは体勢を低くして霧の源を窺う。ロボットも今はその助言に従うつもりのようだった。
狂える貴族――
真っ赤な霧の嵐の中心に立つ影は、威を示すように周囲を睥睨し、紅の霧の触腕を四方八方に伸ばす。
森の木々が朽ちていく。
その貴族は己の死角という死角を執拗に狙い腐食させた。その中から何かが飛び出した。濃厚な霧に紛れてよく見えないが、何かが紅い奔流を掻き分けて、腐り果てた黒い大地に現れる。おそらく貴族だ。それは微かに光を放っている。
創生光と創生光が激突し、滅びの歌を奏でる。
それがどれほど続いたのだろうか。僕らはただ地面に伏せ、腐れた土を被り、息を潜めていた。身体がかじかんだ。夜のベルトは凍えるほどの寒さだ。気付くと霧が薄れ始めていた。
未だに霧の一部はまだ猛威を振るっている。しかし狂える貴族の姿はもうない。見上げる大地の中心では、スターライトの照射が始まろうとしていた。世界が光に照らし出され、立ち昇る水蒸気を白く染め上げる。
霞だ。朝が来たのだ。
だがそれから更に数十分―― 紅の霧が完全に消え去るまで、僕らは草原に身を伏せていた。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
やがて大地と空の色が正常に戻る。僕たちはやっと身を起こす。早朝の冷気が疲労した身体に響く。寒さに身を震わせながら、僕は顔を上げる。ロボットは事態を静観しているようだった。僕の身体に触れた状態のまま沈黙している。アリスはひょいと立ち上がると服についた土や植物を払った。
「ああもう、やっと行ってくれたね。一晩中待機することになるなんて、しかもこんな泥だらけ、うう最悪。でも命があるだけ儲け物かな。ほんっとに危ない所だったんだよ。分かってる? ラッカードさん」
僕も立ち上がる。
「アリス、用事って」
アリスは頷いた。
「そ。セントラル天文台のへたれどもから。マクストンからぼけ老人が出てきたんで、こっちでどうにかしてくれって、うるさいぐらい連絡が来たわけ。しょうがないからとりあえずベルにぼこってもらったんだけど。あ、おかえりベル! どうだった?」
アリスが見上げている先には、大きな放物線を描いて落ちてくる小さな影。その着地は長い落下と引き合わないほど、柔らかで静かなものだった。全身で衝撃を完全に殺しているのだ。ベルは少し汗をかいていたが、それ以外はいつも通りだった。
「仕留めるつもりで戦ったが、追いつめきれなかった。だがあれだけの損害ならば、しばらくは巣に篭っているだろう。止めは刺し損ねたが、姿は確認した。あれは本家の先々代、六十二代目だ」
アリスが唸る。
「うわあ、六十二代目って、そりゃまた、生きていたらもう六十歳だよ?」
「あの姿と技は確かにあの六十二代目。しかも結晶は確実に成長している。あの霧の密度、並みの貴族ではもう近づくこともできない。あれを追い詰めるのは、かなり骨が折れそう」
「何だか大変なことになりそうだね。また討伐隊を組織しないとだけど、ああ、ああもうめんどくさいなあ」
ベルは頷き、それから僕を見た。
「ロッド…… あの陽電子脳の墓場とは、キャンプを挟んで正反対の位置だ。どうしてこんなところにいる? その子も一緒とはどういうことだ? こんな森の中で何をするつもりだったんだ?」
ベルが全てを見通すような目で僕を見る。僕は表情を押し消す。
「何をするつもりって……」
僕らは見つめあった。これまで起きたことが全て夢だったような気がした。だが広がる黒い腐食した土の大地と、一部溶けたり薄汚れたりしている僕ら自身が、全てが現実であったことを証明している。そんな惨状で僕はベルに肩をすくめられる。
「お前は本当に、どうしようもない男だな」
誤解が解けてしまえば僕の命もないのだが軽蔑されたままというのも辛いものだった。ロボットは何も言ってこない。どうするべきか迷っているのかもしれないし、既に策は成っているのかもしれない。何にせよ、今は好きにしろってことだ。なら好きにしてやろう。
「ラッカードさん、あたしも言いたいことあるんだけどな」
アリスが口を挟んできた。にゅいっと首を伸ばして僕の腕にしがみついた少女を見つめた。
「ラッカードさん、あたし言ったよね、外出禁止だって。それで、なんで二人して出て来るの?」
僕は力なく首を振った。頭がもう限界だ。
「とりあえず、戻って一度眠らせてくれ。説教はそれから頼む」
「んー」
アリスは僕の様子を眺め、
「それでもいいけど、逃げちゃだめだからね」
僕の溶け落ちた皮膚の応急処置を終えた後、朝の冷たい空気の中を四人で歩いて帰った。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
帰り道は四人とも言葉少なだった。このロボットをどう処理するか、考えるだけで僕の頭は一杯だった。
ともかくこれは陽電子脳なのだ。人類の殲滅を狙っている脅威だ。といっても僕たちとは関係のない場所で戦い、勝手に野垂れ死んでくれるなら、それはそれでよかった。問題は僕を利用したいという奴の思惑だった。どうしてこんなことになってしまったのか。僕が奴の正体を知ってしまったことがそもそもの問題だが…… よく考えれば先に知らせてきたのは向こうだ。何て不条理な流れだろう! 勝手に知らせておいて、それを理由に今度は死か傀儡かの二択だ。世の中は理不尽なのかもしれないが、これはその中でも理不尽すぎる。
(とりあえずお前はこれからどうするつもりなんだ?)
僕は尋ねた。ロボットはしかし問いを無視して、少し先を歩くアリスに尋ねた。
「アリスさん」
「アリスでいいよ」
「その、アリス。少し気になっているのですが、レンフルーって何なのでしょうか?」
(な、何を)
その瞬間、酷い寒気を感じた。貴族二人の表情に鬼気が走る。空気が凍りついたかのような。僕にさえ感じたのだ。ロボットも感じたに違いない。
(全く余計なことばかり言いやがって)
(……これは、どういうことですか?)
二人は既に柔らかな表情に戻っていた。
「レンフルーという名をどこで聞いた?」
少女は僕を見た。
「ラッカードさんが言ったんだね」
「はい。あれはレンフルーだって」
この嘘つきめ。僕にそれを言った記憶はない。脳内を盗み聞いただけなのだろうが、それはロボットとしての力を前提としている。人間であり部外者である奴が知っているなら、それは僕が教えたからだと考えるしかない。今の僕には弁明のしようがなかった。アリスは静かに微笑む。
「ごめん。君には教えられないことなんだ。聞かなかったことにしてくれると嬉しい」
そしてぐるりと首を回し、僕を睨む。
「それとラッカードさん、説教追加だからね」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
そして僕たちはキャンプに着く。少女は僕から離れたくないとごねたが、ベルが強引に引っ張っていった。
超人的な体力を持つ貴族二人に後のことは万事任せることにして、僕はテントの中の寝床に潜り込んだ。普通の人間には休息が必要なのだ。意識は一瞬で眠りに落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます