第6話 傀儡と死の選択
少女はキャンプの外れにいた。
「これは、何ですか?」
彼女が眺めていたのは寝そべった偽竜である。
「僕たちは偽竜と呼んでいる。これが大陸に住む変異生物、その一種だ」
僕たちにとっては見慣れた生き物だが地球には存在しなかったらしい。暗黒時代の産物である。
偽竜は四本足の爬虫類だった。褐色の鱗に退化した翼。二本の短い角が頭から後方に伸びている。膂力の強い魔物だ。しかし穏やかな気性で、移動や運搬の手段として重用されていた。
「……変異生物、ですか。実際に見るまでは信じられませんでした」
少女はそっと鼻先に手を伸ばした。偽竜はその指先をぺろりと舐める。ロボットは呟いた。
「私は既に死んでしまっていて、末期の夢を見ているだけなのかもしれません。仲間は全て滅び、人類は怪物に変化し、世界はデタラメに満ちている。現実と言える範囲をもう越えています」
「別に誰の夢でも構わないが」
僕は頷いた。
「君が死んだなら部品は僕が有効活用しよう」
少女は半眼で僕を睨んだ。
「どうして私が死ななければならないのですか?」
「悪夢からの脱出法は自殺と決まっている。ものは試しに一度やってみてはどうかな?」
僕は笑う。
「どこの物語のことですか。安易な解決方法です」
少女も少し笑った。
「古い映像や物語は学院で山ほど見た。 多すぎてもう分からないな」
「そういう情報は残っているのですか」
「地球の図書館が丸ごと入ったメモリが一つだけ生き残っていたんだ。おかげで地球大脱出時代までの知識は無事でね、僕たちだって地球のことはよく知っているんだ」
「そうなのですか」
僕は偽竜の鼻先を撫でた。偽竜は少し煩わしそうに尻尾を揺らした。
「今の世界がおかしいことぐらい、僕たちも分かっている。偽竜にしても外見こそトカゲに近いが、中身は哺乳類や爬虫類が入り混じっている。進化論ではありえず、ジーン・デザインでも、ここまで安定した生命を創るのは難しい。魔法とでも考えるしかない。だが現にこうして、おとぎ話の世界がここにあるんだ。見て触れられるものを信じられない人間は狂うしかない。なら受け入れるだけだ」
僕は少女を見つめた。
「ここで生まれた僕たちにとっては逆にかつての理論の方が疑わしい。例えば重力の逆二乗則なんて、ここでは全くの無意味だろう?」
既に科学は実効性を失っていた。超越駆動器の気紛れな意思こそ、この大地の重力だった。陽電子脳? 人類の科学と正義の結晶? 僕たちにはそんなもの脅威でも何でもない。時代遅れの代物だ。
「この変貌しきった世界で君はどうするつもりだ?」
この世界、この大陸―― ここは人間と変異生物と貴族の住処だ。機械の入る隙間はない。限られた資源しかない世界に、時間効率など不要の概念だ。そこにあるのは変異した生態系と、暗闇の中に浮かび上がる遺跡―― もはや理解しがたい古代の遺物と、魔物のような異形の生物―― それが現在の文明の全てだった。
「……分かりません」
ロボットは寂しそうに呟いた。
「ですが与えられた目的を放棄することはできません。それだけは決定事項です」
「無理だと分かっていても?」
「無理だとは思いません」
僕は呆れるしかなかった。だが少女は本気のようだ。
「決して無理ではないはずです。不可能とされる事象の大半は成功確率が微小であるというだけで、不可能なのではないのです。そして、私はあなたがたが計算できるような存在ではありません。オリオンとは異なりますが、ある意味では私もまたオリオンと同等の特別な存在なのですから」
「くろがねの巨神とお前が同等だってのか?」
僕は笑う。伝承に謳われるくろがねの巨神、その能力は文字通り神域にある。だが少女は本気のようだ。
「その通りです」
「あれと戦って勝てるってのか?」
「時と場の条件さえ合えば一撃で」
嘘だ。嘘に違いない。だが妙に自信があるようだ。本当にそうなのか? このロボットにそこまでの力があるのか?
……僕には、そうは思えなかった。
身体を不安定に揺らがせ、地面に倒れる彼女の姿が頭に浮かんだ。その軽さを思い起こした。少女に強さを見ることはできなかった。無論、一個のサイボーグとしては十分な脅威だ。だが貴族との戦いにはきっと耐えられない。
「信じられませんか? ですが私は十分に貴族に対抗できる。それは事実です」
「ベルが見せた力が貴族の全てだと思ってはいないか? 本当の貴族の力はあんなものじゃないんだ」
確信に満ちて少女は微笑んだ。
「そろそろあなたとの関係を考えなおす時が来ているのかもしれません」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
少女の雰囲気が変化した。周囲の精霊が奇妙に身じろぎ、踊り始める。一瞬、その背後に夕焼け色の光が放射されたような気がした。気付くと、あの見慣れない姿の精霊が辺りに群れをなし始めていた。
「私の真の力の一端をお見せします」
輪郭が溶けていくように世界がその姿を変えていくのが見えた。目がその変化についていけないというように痙攣した。上方に向けて伸びる木々がまるでのたくる蛇のように曲がる。
「例えば世界を歪ませることができるのなら、それはどのような力でしょう?」
僕は呆然とその変化を見つめた。少女はふわりと歩くと一瞬で掻き消えた。――何が起きた? 僕は背後に小さな足音を聞いた。振り返るとロボットはそこで宙に浮かび、愉しげに地面を足先で小突いた。
「そろそろ分かってきましたか? あなたは、私のことを弱く脆い存在だと思い込んでいるようですが、それは全くの錯覚です」
僕は目を疑った。
少女の背後に闇が生まれた。闇は少しずつ視界に広がる。中心に絞り込まれていくスクリーンのように、世界は闇の中に消えていく。
光が闇になる。色彩が消える。
僕には暗闇の中の小さな影が底の知れない闇に見えてきた。僕はその瞳に表情を見ていたはずだった。そこに感情を見ていたはずだった。とりわけ弱さを。だがそこにはもとから何もなかったのだ。ただそれは人間を象っているだけだった。
僕は闇雲に少女につかみかかった。何のこともなく掴めた。だがそれは掴まされただけだった。
「身体に教えてあげましょう」
その瞬間、万力のような力で引き剥がされる。指は骨を砕くような力で捻り上げられた。見ると少女の身体は暁の光に輝いている。彼女は掴んだ指を支点に僕の全身を投げ飛ばした。
圧倒的速度で受身も取れず叩きつけられる時、地面は凶器になる。衝撃と痛みに頭の中が真っ白になった。
「私は確かにまだ完全ではありません」
気付くと、既に世界は元通りになっていた。サンライトの弱々しい光に照らされた世界は、薄い影絵のような夜の表情に戻っていた。少女はすっくりと大地に立ち、僕は地面に這いつくばっていた。
悪夢の世界は消え去った。だが悪夢は今ここにある。当たり前の日常という虚構は幻のように消え、呪わしいほどの現実がここにあった。
「ですがあなたが考えているほどに、か弱いわけではないのですよ」
陽電子脳は嗤った。勝ち誇っているように見えた。見下ろされているからだろうか。気に入らなかったが、それ以上に怖かった。僕は項垂れた。敗北を認めたのだ。少女は鷹揚に頷き、そして厳かに告げた。
「あなたには二つの選択肢があります。私の一部になるか死ぬかです」
少女は突きつけたのは奇妙な選択肢だった。彼女の一部になるか、死ぬか。詳細を尋ねると少女は口を開いた。
「あなたの延髄にあるナノマシンターミナルは、元来、情報提供者の余生を管理するもので、その機能は対象の言動を監視し、必要に応じて起爆するだけの単純なものです。ですからあなたが私の僕として行動する場合、あなたと私の間での緊密な意思疎通と、複雑な要求の伝達を実現するため、それなりの増強を行う必要があります。それは結局のところ、あなたのありようそのものに食い込むものとなるでしょう」
「つまりはどうなるんだ?」
「私が恣意的に、あなたの記憶を改竄し、強迫観念を植えつけ、思考を歪曲して、生まれる感情そのものを操り、場合によってはあなたの意識に代わって直接その身体を操作するということです」
「最悪だな。そんなもの死んだ方がましだ」
「私はそうは思いませんが、あなたがそう思うこともあるだろうと安楽死の選択肢も用意しておきました。しかし私の要求を呑んだとしても日常生活においてはあなたの意識を極力尊重することをお約束します」
僕は血管中に最後の闘志が放出され、全身を駆け巡り始めるのを感じた。選択肢だと? 選べだと? それは運命の選択か? 尊重だと? 笑わせるな。そんな甘言に騙されると思うのか? 死ぬ。僕は死ぬ。どちらにしても今の僕は残らない。僕は終わりだ。なるほど笑える結末だ。蛇の巣穴に手を突っ込んで、似合わない婆さんの真似をしてこうして死ぬ。最高に自業自得で僕にふさわしい馬鹿らしい終わり方だ。だが僕以外は終わらない。ベルもアリスも僕が死んでも生き続ける。だから僕はあいつらが安全に生きられる未来を確保して死ななければならない。信頼されている僕が最初に悪魔の手先になっている。そんな未来はあってはならない。だが諦めるにはまだ今の人生は居心地がよすぎた。結局、僕の取れる選択肢は一つだった。
「問題外だな」
僕は言い放つ。
「それは死を選ぶということですか?」
「別にそういう訳じゃない。僕は死なないし、お前の傀儡にもならない」
「寝惚けているのですか。ならば現実を知り、目を覚ましなさい」
僕が取るべき選択肢は一つ。逃げることだ。だがロボットの動きは速い。僕が身体を翻すよりも早く、一瞬で僕の懐に入り込んだロボットは腹部に突撃するようにして僕を押し倒した。内臓が圧迫され、呼吸が止まる。そして肌が触れ合った直後、世界が消えた。光もなく、音も、匂いも、触覚もない。時間の経過も分からない暗闇に僕は押し込められた。これで僕は完全に無防備だ。煮て食おうが焼いて食おうがご自由に。できれば安楽な死がいいなと理性で考えて、自分の中にある未練に気づく。
操り人形となっても生きて戻りたい。僕はどこかでそう願っていた。破滅的な選択だが、不思議な実感があった。これが人生の最後なのに笑い出したくなる。当たり前のことだが、僕も人間だっ――
――った、ん……? 今、のは、何、だ?
意識が途切れたような奇妙な感触と共に、僕は唐突に五感を取り戻していた。見上げる先のロボットは、僕の首筋に手を伸ばし、そのままの姿勢で呆然としていた。反射的に僕は少女の股下から逃れ、転がりながら勢いをつけて立ち上がる。
な、何が起きた?
何が起きたのか。それは分からない。何かが起きた。それは確かだ。
だがこれは好機!
僕は遺跡に向けて全力で駆ける。ベルの側なら実力行使はできない。僕も何も言うことはできないが、それ以外に生き残る方法はない。
「逃げられると思っているのですか!」
遅れてロボットが動き出す。
だが僕が半分も走る前に僕を追い越し、進路を塞ぐ。
僕を捕まえることよりも前進を止めることを優先したのだ。同時に世界が歪み始める。視界が暗闇に閉ざされていく。僕にはまだ選択肢が残っているが、それは希望に満ちてはいない。
ベルたちと合流することを諦めて、僕は踵を返し、森に逃げ込む。子供の頃を思い出す。あの頃は鉄柱の林立する廃墟や、木々の絡み合う森が僕たちの根城だった。その中での逃げ回り方は心得ている。逆にロボットは木々や下草が邪魔になる。今までほどに素早くは動けないはずだ。走りながら、靴から足を引っこ抜く。足裏の皮が少し薄くなってはいるが構うことはない。僕は全身に気を廻らせると大樹の幹を駆け上がり、枝に指をかけると勢いのまま全身を持ち上げ、裸足で枝を踏みしめると行く先も分からないまま全力で森の奥へと逃げ出した。
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