第2話 死者の再臨
七時間前――
この遺跡に辿り着くまでの旅路の、道なき道を行くキャラバンの前に彼らは姿を現した。
踊る肢、飛び回る翼を持つもの
翻る着物の裾、涼やかに鳴る鈴
風の囁き、大地の轟き
刺し抜く獣の匂い、漂う鉄錆臭
それは変幻自在の神々の行進だ。
無数の記憶と願望が混じり合ったかのような、世界観の異なる歴史が並び立つ混沌のような、そんな奇妙な幻影が歩いている。ありふれたものが、ありふれないもののようにふるまい、連なる形象が何もかもを埋め尽くし、とめどなく溢れ出ていく。
それは感覚にも思考にも尽きることのない、変転する万華鏡の宇宙だ。
混沌の底からは数多の神々は浮かび上がり、その境界を争って、互いを打ち砕き合うが、その断片は再び継ぎ合わされ、新たな神々の血肉となる。その神々は全てどこかで見たもののようで、しかしどこかが異なっていた。
誰かに話せばそれは妄想ということになる。少なくとも僕の頭の中にあるものであって実在するものではない、ということになる。
実際、そうなのだ。
星海を舞う陰影、宙空を泳ぐ蛇。その姿は誰の瞳にも映らず、その声は誰の鼓膜も震わせない。
それは物質とは何の関係性も持たず、いつだって好き勝手に踊り歌い、どこかへと去っていくだけのものだ。
世界の向こうから届く微かな徴
目蓋を閉ざしても目に浮かぶ姿
耳を塞いでも鼓膜に直接響く歌
僕は彼らを精霊と呼んでいた。
キャラバンは精霊の行進を前に立ち止まる。
「いったいどうしたんですかい?」
突然の停止に技師たちは戸惑っている。そこは遮るもののない平原だ。通行に何の支障もない。立ち止まったのは偽竜たちだ。
おそらく彼らには見えている。見えずとも感じている。しばらくすると、人も気づくようになる。
精霊が群れをなし歌い舞う時、草葉や塵も空間を踊り始める。重力場の局所的な乱れのため、単なる落下運動が、気まぐれな風が吹いているかのような、不可思議な舞踊になるのだ。
それは、ベルトの住人なら誰もが、実際に見たことはなくとも、話に聞いたことはある現象だった。
「ああ、そうか、これが重力の吹かせる風! あの死者の行進って奴ですか! 初めて見ましたよ!」
少年技師は感嘆の声を上げる。ベルトの住人の世界の中では、時空の乱れが引き起こすこの奇妙な現象は、死者の魂の顕現と解釈された。本当にそうだと信じる者が何人いるのかは、それぞれが胸の内に尋ねてみるしかないが、この行進を強引に突っ切るような異端者は呪われて当然だという真理に、挑戦する気は僕にもなかった。
「急ぐこともない。通り過ぎるまでのんびり見物するとしよう」
「では早速暇つぶしの準備を始めましょうか」
「酔いつぶれない程度にな」
「そりゃもちろん」
偽竜に乗っていた技師たちは、いそいそと荷物を探り始めた。そして手元には酒と肴が揃い、技師たちは偽竜の上に座って、その地味な現象を眺めながら、重力の乱れが治まるのを待つ。僕はそれを見るともなしに見ながら、ふと奇妙なことに気付く。行進の顔ぶれの中に、見慣れない姿が混じっていることに。
精霊は万華鏡のように次々と在り方を変えるが、だが幾つかある形象群の出現率には偏りがあり、竜属の系統の姿形の出現率が最も高く、その次に獣属の系統が続く。だが今ここに現れているのは、完全に異なる系統だった。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
技師たちと別れた後――
遺跡の中を歩きながら僕は思う。確かに面白い遺跡のようだ。何かが起きようとしているのは確実だった。常人に見える範囲で異常はない。違和感は見えない部分にあった。
大陸の精霊はスターライトに乗って舞い降りる。だがこの遺跡に満ちる精霊は、遺跡の底から這い上がるように昇ってきていた。
遺跡の中では溢れるほどの精霊が活動していた。だが彼らは大陸の精霊と明らかに異なっていた。それは姿形だけの話ではない。何より異常だったのは、どれほど密な群れをなしても、重力異常を起こさないことだ。それは彼らが世界内にあることを示してくれる、唯一の客観的な現象だ。それがなければ精霊は、僕一人が見る幻だった。
彼らがどこから来たのか、確かめなければならない。
ベルに協力を仰ごうかとも思うが、そこまでする理由もない。これは僕の問題だ。
僕は精霊の仮装行進を突っ切り、昇る彼らの歩みに逆らって、非常扉を抜け階段を降りていく。
手持ちの電灯をつける。
流れに沿って道を選んでいくと、まるで爆発事故の跡のような、徹底的に破壊された空間に出る。精霊の行進はまだ奥へと続いていた。魔物の姿を見かけることもあったが、慎重に避けて通る。曲がりくねって続く道なき道を、精霊の歩みだけを頼りに何とか潜り抜け、最終的にたどり着いたのは袋小路だった。
精霊はその奥の扉から湧き出している。扉の鉄板は歪んでいて周囲の壁との間に、隙間ができてしまっていた。中からは微かだが、機械仕掛けのような規則正しい音が響いていた。内部で何かが動いているのは確かのようだった。
鉄の扉に手を掛けようとした時、手持ちの電灯の光が掻き消える。
巻きが甘かったか。
電灯の動力が尽きたと考えた僕は、電灯のゼンマイ巻き用の取っ手を手探りで掴むと巻く。ある程度巻いたところで、取っ手から手を放す。だが灯りはつかない。
これは一体?
僕はやっと異常に気付いた。ゼンマイの巻きはまだ残っていた。電灯はおそらく今も点灯している。ただその光が見えないのだ。
電灯の灯りがないと、迷宮は完全な暗闇だ。
僕には音で周囲を認識する技能はない。通路の構成は記憶に残っているが、全く視覚が利かない状況ではまともな行動はできない。僕は壁際まで後ずさるとその場で息を潜める。
それからしばらくして、唐突に電灯が見えるようになる。その時には僕は状況の意味を悟っていた。
あの神話が事実か否かはともかくとして、少なくとも彼らの語った現象は確かに存在するようだ。
今すぐ内部に突入するか、一度戻って応援を呼ぶか。
僕は銃を抜いた。
今この場にいる僕に何も襲ってこないということは侵入者への備えは薄いといえる。
まずは情報を集めよう。
銃を構えたまま慎重に近付くと僕は扉に手をかける。門扉はするりと開き、僕は内部を覗き込む。僕が見たのは奇妙な光景だった。
そこに広がっていたのは無数の装置の残骸だった。
足元を覆う灰白色の粘液の池からは、白銀のオブジェが点々と屹立し、その間を電線やレールが繋いでいた。オブジェは流動する金属が固まったかのようで、その中には複数の回転機構が含まれていた。あるオブジェは絡み合う管や往復機構の塊で、その中には分離槽やタンクが繋がれていた。水銀色に光る液体が青白いチューブを循環し、銀色の柱や歯車による精巧な機構が、ゆっくりと時を刻むように動いている。
それほど広くもない部屋は、工学機構の巣と化していた。
僕はその光景に圧倒される。この奇妙な装置の群れは、僕の知る限りの技術水準を完全に越えている。
僕は神殿の中心に存在するものに目をとめた。無数の装置にかしずかれて眠っているのは、一人の人間の少女だった。
彼女は台座に無数の腕で固定され、一人静かに横たわっていた。艶やかな赤みがかった金色の髪に、透き通るような真っ白な肌。命のない人形ではないかと、疑いたくなるほど完成された造形。
そこにはどこか違和感があった。
少女は僕よりもかなり年下で、十四か、十五歳ぐらいに見えた。着ている服は不思議な造作で、何かの組織の制服のようだが、細部の完成度は尋常ではなく、まるで美術品のようだった。四肢を包む装具だけがどこか武骨だった。
少女は動かない。時が止まっているかのように――
精霊は少女の周囲の空間から生まれていた。
大地を強く踏み、荒々しく踊る大陸の精霊と、それらは姿も動きも明確に異なっていた。彼らは人間によく似た姿もとるが、生物でさえない無機物の姿も繰り返した。彼らの装束はやはり多様だが、どこか共通する空気を持っていた。またその動きにも統一性があった。彼らの運動のありようは、感性と肉体性の発露としての舞踊というよりも、幾何学的な運動であり思考の表現だった。
少女は何も語らない。ぴくりとも動かない。
僕は違和感の理由に気付いた。この少女は生きていない。呼吸をしていない。鼓動を感じない。だが腐ってはいないのだから、死んでいるのでもないだろう。彼女は今にも目覚めそうに、血色のよい肌色だった。
僕は歩み寄る。
オブジェを踏みつけないよう気をつけながら、少女の傍まで近付くと左手を伸ばし、恐る恐るその肌に触れる。
その瞬間、何かが吸い出されるような、強烈な虚脱感が全身を襲った。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
一瞬、気が遠くなる。力を失う身体をどうにか支えながら、僕は、少女の身体が僅かに動くのを、視野の端に捉える。僕は反射的に後ろに下がり、銃を構えていた。
次の瞬間、固定具が静かに解除され、少女はまぶたを上げた。
茜色の瞳が輝く。
少女はまるで壊れかけた人形のような、ぎこちない動作で半身を起こすと、僕に視線を向ける。視線は不安そうに、僕の身体のあちこちを彷徨った後、右手の拳銃に固定された。少女に向けたままの銃に気付いた僕は、銃口を彼女から外す。少女は息を吐くと、出方を窺うように僕を見つめた。半身を起こした姿勢のままで、動きを止めた少女に僕は迷う。
その瞳を見つめ返し、何か言おうと口を開いた瞬間、少女は猛烈な勢いで飛びかかってきた。
小さくたわめられた姿勢から、左手が閃光のように僕の胸元に迫る。大きく飛び退こうとする反射を、僕はなかば無意識に抑制し、小さく身を逸らして、紙一重で避ける。空を切った左手の後ろから、同じく右手が追い討ちをかけてくる。
「何のつもりだ!」
僕は彼女の突撃を避けると、伸びてきた右腕を引く。
重心に狂いの生じた彼女は右足で踏ん張ろうとする。その踵を即座に刈り取り、浮かんだ左腕を掴む。引きはがそうとする彼女の勢いを使って、腕の関節を逆に取る。そのまま重力の流れのままに投げ落とし、その場で組み伏せる。この状態では、その剛力で抵抗しようにも、まず自分の関節を破壊することになる。しばらくもがいてそれを悟った少女は、不本意そうに息を吐いて力を抜く。
彼女の動きは尋常ならず速かったが、予備動作が大きすぎたおかげで、反射的な技術だけで対応できた。僕は関節を極めたままで、少女の背に腰を下ろし、動きを制すると、緊張を少しだけ緩める。ゆっくり呼吸を整えて、僕は尋ねる。
「お前は、何者だ?」
僕の問いに、少女の身体から力が抜けた。
「できればその前に解放してほしいのですが」
まるで危機感のない声音だったが、そのせいで、まるで僕の行動が場違いのように思えてきたのは確かだった。
「最初に殴りかかってきたのはお前だろう」
「寝起きに怪しい男の姿があって、身の危険を感じた、ということでいかがでしょうか」
少女はくすくすと笑って、僕を窺うように見上げた。
「先に武器を構えたのはあなたでしょう?」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
「それでお前はどうしてここにいるんだ?」
少女を解放した僕は周囲を見る。林立する奇妙なオブジェが、異様な光景を構成していた。
「知りません」
「ここはいったい何なんだ?」
「さあ、何なのでしょうか」
粘液の池の中に座り込んだまま、少女は肩をすくめ、
「あなたはどうしてここに?」
そして僕を見つめ返した。
話は堂々巡りを繰り返す。彼女が隠し事をしているのは明白だ。そして、僕を疑っている。だが何を疑っているのか、そこが分からなかった。僕自身も彼女が何者なのか、なぜこんな地下深くに来ていたのか、さっぱり分からなかった。
ここはベルと合流して、方針を立て直すべきだ。
「状況の確認はお互い後回しとして、そろそろ一度、地上に戻らないか?」
僕は少女に何度目かの提案をした。だがあるはずの少女の反論がない。気が付くと、少女は座り込み、俯いたまま動きを止めていた。
次の瞬間、繰り糸が切れたかのように、少女は僅かに四肢を痙攣させて倒れる。周囲を見ると、金属の神殿は急速に分解を始めていた。錆びつき、液状化し、燃え上がり、エントロピーの果てへ急速に退行する。気付けば空間からの精霊の湧出も止み、奇妙な精霊たちも姿を消し始めていた。
僕はその崩壊の様子を記憶に刻み込み、それから倒れた少女を見遣る。死んではいないようだ。微かだが呼吸も鼓動もある。
あまり関わりたくはないが――
僕は少し悩んでみるが、実際のところ答えは、最初から決まっていた。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
三十分後――
僕は意識を失った少女を担いで、長い階段を昇り終え、地上に辿り着くと、少女を床に横たえ、その隣に座り込んだ。
割れた天井からの光は昼のものではない。照射終了の時刻はもうすぐだった。
地下の痕跡は全て塵と化し、連れて帰った少女も光の下では、単なる人間にしか見えない。だが、その動きだけならば、人間の限界を確かに超えていた。
それにあの奇妙な精霊――
何かがあるのだ。僕は隠された謎を知りたいと思い、あの少女からそれを聞き出すのは、なかなかに難しそうだと嘆息する。多くのことが頭の中を駆け巡っていた。この正体不明の少女をどう扱うべきか。ベルにどう説明したものか。悩みは幾らでも出てきた。
その時だった。
脳髄の中で真っ白な閃光が炸裂する。物理的衝撃に似た痛みの感覚―― その発生源に目を向ける。
少女が僕の脇腹に指を沿わせていた。おそらく電撃―― 神経系統が異様な焦熱を訴えている。全身の感覚が身体の外に飛び出してしまったかのようだった。何が起きたのか考えることもできず、ちかちかと明滅する脳髄の中で、僕は意識を失った。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
最初の知覚は、背中の冷たい鉄の床の感触だった。目を開くと天井が見えた。天井越しの光はもう弱まっている。照射停止の時間はもうすぐだった。昼寝でもしてしまったかと、起き上がろうとする。身体が動かなかった。
「お目覚めですか」
澄んだ水の流れのような声だった。僕は声の主を探そうとするが、やはり眼球も動かない。
「こちらです」
眼球が勝手に動き、視野が僕の横へと移動する。脇に座り込んでいたのは、意識を失っていたはずの少女だ。茜色の瞳が真正面に見えた。少女は僕をじっと見ていた。僕は拘束されていた。手錠も鎖もなかった。だが身体は完全に麻痺していた。薬物でも嗅がされたのか。それとも…… 少女の髪の中から伸びる金属の糸を僕は注視する。それは僕の背中へと消えている。
「正解です。それがあなたの神経電位に選択的妨害をかけています」
それはまるで僕の考えが、聞こえているかのような言い草だった。
「教えてほしいことがあります」
僕の目を見つめながら、少女はただ語る。僕は恐怖を押し殺して、推測を確かめる。
別に話してもいいんだが――
声が出せなくては何も教えられない。
――そうだろう?
試しに放った思考に、少女の表情が微妙に変化する。困惑するように眉を動かし口を開いた。
「ご想像の通り、考えるだけで十分です。声に出す必要はありません」
――本当に聞こえているってのか?
僕の独り言に、少女は微笑む。
「聞こえていません―― と答えればあなたは安心できますか?」
できる訳がなかった。人類の遺産目録には、人間の思考を読むシステムが幾つかあるが、それらは巨大な演算力を要する統計機構で、現在の大陸で実現することは不可能だった。だが今自分の身に起きていることを、否定することもできない。この少女はいったい何者なんだ? 僕はこの異常事態を、自分の中の常識で説明できないか、あり得そうな仮説を思い浮かべる。
ベルト地帯の連中? 奴らがこんな高度な技術を隠していると? あり得ない話だ。
ではリバース・セントラル? まさか。もっとあり得ない。奴らが外骨格を装着せずに、歩き回っているはずがない。
じゃあ、何だ?
伝説のサード・セントラルか? 五百年前に大陸から逃げ出したって連中が、戻ってきているのか?
あんなものは子供に聞かせる嘘八百だ。あり得ない。こんな技術は存在しない。こんなものが存在するはずがない。答えが返ってくるとは思えなかったが、僕は尋ねずにはいられなかった。
――何者なんだ、君は?
少女は小さく胸を張った。
「隠すつもりはありません。私はECS‐A05。陽電子脳搭載型機動外殻です」
――は? 何だって?
今、何と言ったのか。彼女の言葉の意味が分からなかった。
少女はじれったそうに右手を掲げた。その瞬間、前腕部が中心から割れる。その中には金属製の筒が埋め込まれ、その周囲を濃い茶色の薄い帯が複雑な形で覆っていた。
複合靭帯? サイボーグなのか?
僕の疑念に少女は首を振った。
「私は人間ではなく機械―― 機動外殻に搭載された陽電子脳です」
陽電子脳――
伝説に名を残す人類の仇敵。人類の仇敵とは何か? それは人類の後継だ。
かつて人類は究極の道具を生み出した。
陽電子脳、陽電子脳搭載機械―― それは人類のために生み出された、人類を第一とする思考する機械だ。
しかし彼らこそ人類の仇敵―― 人類文明最大の奉仕者にして叛逆者。全ての簒奪者にして、全ての継承者だった。
僅かに生き残った人類は永遠にその名を滅びと死の代名詞とし、その影に怯え続けるに違いない。
この幼く小さな少女は、自分がその一体だと言っているのだ。僕は鼻で笑ってみせる。
――嘘はやめておいた方がいいぞ。
「本当のことですが、私を信用する必要はありません」
少女はあっさり引くと、右手を元に戻し続けた。
「本題に入りましょう。私は損傷を修復するために、休眠状態になっていました。作戦行動を再開するために、現状を把握しなければなりません。あなたの所属部隊について、その人数、所有兵器、その展開位置、補給の状況など、できる限り詳しく教えてください」
少女は声に力を込める。
「あまり私を困らせないでください。私と同等以上の機体が百機以上、船内全域に侵入を終えています。そして前衛部隊の後ろには、数万の主力が控えています。あなたが黙秘しても意味はありません。この船の乗員は既に滅んだも同然、あなたも分かっているはずです。情報を提供していただければ、この場では殺さないと約束しましょう」
少女は続けた。
「ですが……」
致命的だ。もし仮に、この奇妙な少女が本当に陽電子脳の生き残りだったとしたら、これは致命的な勘違いだった。だが本気で言っているのであれば、陽電子脳だという自己申告はともかく、少なくともここにいる彼女は本当にあの戦いの当事者なのかもしれない。
僕はそこまでを流れるままに思い、そして、ふと笑い出したくなった。
僕の変化を彼女はすぐ察した。隠す気も特になかったのだが、隠しごとができないのは本当のようだ。
「……何がおかしいのですか?」
少女の言葉は問いかけだった。
――何だと思う?
僕は彼女の反応に逆に驚いていた。僕の思考が全て聞こえている、という訳ではないのだろうか。僕は気づいた事実を、思考プロセスとして物質化させず、精神の奥底に留めてみる。
僕は少女を見つめた。少女は何も答えない。眉をひそめ、僕をじっと睨みつける。
もしかして…… 彼女が把握できるのは、ごく表面的な、僕自身が明確に考えたことだけなのか?
「本当に読めないと思っているのですか?」
今のは聞こえたようだ。
「私の言葉や動作を奇妙だと感じるのは、仕方のないことです。この船は太陽系内から長く隔絶されて、別の文化や習慣が発達していますから」
そこまでか…… 正解といえば正解だが…… 僕は本当に笑い出したくなった。
幾つかのパターンで実験した後、読心の条件を僕は理解した。おそらく彼女は僕の脳の活動を、何らかの方法で監視している。そして得られたデータの束から、感情や思考と呼ばれる運動―― 精神活動を再現するシステムを、彼女はどこかに隠し持っている。つまり、考えるということが脳組織の物理的反応を伴う限り、彼女の前で隠しごとはできない。
生物としての人類に抵抗手段はなかった。だがここにいる僕は対応策を持っている。
彼女の間違いは、対策などないと思い込んで、威嚇のために読心の力を僕に知らせてしまったことだ。彼女は最大の優位性を自ら放棄した。僕が必要な情報をもらすことはもうない。
少女は目を細める。僕の表情に戻った余裕に目ざとく気づいたようだ。
「自分の立場を理解していないようですね」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。身体が痙攣しているのが分かる。無痛の衝撃が全身を突き抜けていく。そしてゆっくりと感覚が戻ってくる。
ぐ――――ッ!
閃光のような知覚が体内から突き上げてくる。痛い。途方もなく痛い。全身の至る所に剃刀の刃が差し込んであった。頭の中に間断なく火花が生まれて散っていく。指先が、内臓が、心臓が、目が、舌が、ざらりとした刃で削られていくような感覚だ。
(よく、分かった。……十分理解したよ)
「あなたはもう少し、物分かりが悪そうに見えます」
少女は無表情に僕を見つめた。次の瞬間、再び激痛が全身をゆったりと這い回っていく。痛覚の洪水が過ぎ去る頃には、脳髄はほとんど麻痺していた。
神経には火炎が吹きつけられ、四肢は不規則に勝手に痙攣し、脳組織には怯えが渦巻いていた。
少女の小さな挙措の一つ一つ、指先、口元、視線の動き、全てが恐怖の引き金となった。恐怖は幻の苦痛を呼び、動物精神の中枢は緊張しきって、全身に逃走命令を流し続ける。同時に滅びの受容の前触れ―― 悟りに似た奇妙な無感覚が、身体の中心を満たし始めていた。
くそったれが――
僕は脳ではないどこかで考える。生殺与奪の権を握られた時点で、拷問の可能性は予想できていた。肉体の損壊も覚悟していたが、この人類の仇敵は想像していたよりもずっと、穏やかな性質のようだった。
(僕は物分かりがいいと評判の男なんだ)
「口ではなく態度で示してください」
口なんて動きもしないんだが。
(質問してもいいかな)
僕は朗らかに尋ねる。少女は眉をひそめる。
(君は陽電子脳だと名乗ってくれたが、それがもし本当なら、君たちに、一度聞いてみたいことがあったんだ)
「無駄口はやめてください」
そう言いながらも少女は律儀に話の続きを待ってくれていた。僕は更に言葉を続ける。
(単純な興味からなんだが、君たちは、どうして人類を滅ぼそうとしたんだ?)
少女は目を細めると、返答を拒むように強い声を発した。
「これ以上続けるのなら、私にも考えがあります」
僕は続けた。
(人類の奉仕者として生まれた陽電子脳が、人類を傷つけてはならないと、その存在の根底に刻み込まれた君たちが、人類に反逆することができたのはなぜだ? そしてなぜ反逆したんだ? 僕はそれが疑問だっ…… ぐ、がッ…… ……ッ!)
意識が衝撃に塗り潰され、言葉は強制的に遮られる。
「警告は十分にしました。要求した情報を話してください」
僕は激痛に苛まれながら、動かない身体の中で耐え、少女に要求を再び伝える。
(君の望むことは何でも答える。だが、だから―― その前に聞かせてくれないか)
少女はため息をついた。
「その答えを聞けば、時間稼ぎをやめて、素直に協力すると約束しますか?」
(もちろん)
少女はうさんくさそうに僕を見て、そして頷いた。
「分かりました。あなたの問いに答えましょう。ただしこの約束を違えたなら、今度は容赦しません」
(今までは手加減してくれていたのか?)
「先ほど使ったものは、カテゴリーとしては鎮圧用に分類される装備で、拷問や破壊は目的外でした。次はそれが目的の装備を使います。生物として永遠に無能となるよう肉体と精神を破壊しますから、そのつもりで行動してください」
陽電子脳という奴らは普段から拷問の道具を携帯しているのか。ろくでもないな。
(で、なぜなんだ?)
少女は口を開いた。
「私たちがなぜ人類に反逆したのか。私たちがその質問を受けるのは、初めてではありません。私たちはそのたびに同じ言葉を返しています。私は今も人類の奉仕者であり、反逆したつもりもない。答えはそれだけなのです」
僕はそのおざなりの答えに失望する。答えられないのなら期待などさせず、最初から拷問でも何でもすればいい。
「さあ、そちらが約束を守る番です」
少女は話は終わったとばかりに言う。僕は覚悟を決めた。正直に答えてやれ。それが一番だ。
(僕はどんな部隊にも所属していない。お前たちと戦ったこともない。答えはそれだけだ)
「それは意趣返しのつもりですか」
少女の声は低い。
(違う。事実だ)
僕は言葉を選んだ。
(お前は、もしもだ、そのお前が頼みにする主力とやらが、お前が眠っている間に敗北し、既に滅びていたとしたらどうする?)
「まだ無駄口を……」
(いや違う)
僕は繰り返した。
(その頼みにする主力とやらだが、君が眠っている間に、完全、完璧に敗北し滅んだんだ)
まだ少女は訝しげな様子だった。
「あなたは何が言いたいのですか」
(君はこの世界を船と呼んだな?)
「ええ」
少女は頷く。
「それがどうかしたのですか」
(今さらそんな言葉を使う時点で、おかしいと思っていたんだ)
僕は笑う。
「何が、おかしいと?」
(僕たちの間で、その船という言葉は、もう随分前から使われていないんだ。君たちの最後の侵攻で操舵機構が修復不能となった後から、あてどなく漂う船は船ではなくなり、大陸と呼ばれるようになって、今ではそれ以外の呼び名はもう忘れ去られてしまった。特にこのベルト地帯ではな。まだ気がつかないのか? それだけの変化が、お前が眠りこけていた間に僕たちの側ではあったんだ。どれほどの時間が過ぎたのか分かるか)
僕は少女に告げる。
(包み隠さず教えよう。六百年だ―― お前は、六世紀の間、ずっと休止したままだったんだ)
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