木兎異聞

橘光希

木兎異聞

 そのミミズクは誰にも気づかれないようにそっと息を吐いた。時刻は当に零時を回り、嘲笑ったような上弦さえもすでに疲れたと言わんばかりに中天を過ぎている。ただこの部屋の主人だけは、未だランプを頼りに一心に机に向かっていた。ミミズクは囚われた籠からその人間を見やる。そして再び息を吐いた。今度のそれは侮蔑に近い。囚われた己に対しての、そして託された任務に対しての。

 ミミズクは慎重に人間を見遣り、そしてごちゃごちゃとすっきりしない部屋の中を見回した。揃えられた調度品は様々だったが、その全てが最高級の品であることが夜目にも分かる。

(ミミズクは夜目が効くからな…。)

 おそらく部屋の主人はそれを知らない。なぜならミミズクを献上した商人が、自分を「鷲」だと言ってしまった。まったくどうしてそうなった。まったく無知とは恐ろしい。見よ、この美しい羽角を。何をもって自分を野蛮な鷲などと同じにするのか。ミミズクはふとそんな憤りを感じ、そして自分のミミズクと呼ぶには些か膨よか過ぎる身体を見回した。しかしそれは些細なことだ。鮮やかな橙の身体を、緑をベースに色とりどりの羽角が彩り、美しい。そう、俺は美しいのだ。やはり野蛮な鷲なんぞと同じにされてたまるものか。

 ミミズクはキッと部屋の主人を睨め付けて、それに意味のないことを悟ると三度そっと息を吐いた。部屋の主人は気づかない。ただ一心に机に向かって、新しく手に入れたガラスでできた万年筆を一途に試し続けていた。


 岡崎弘子は変わっている。由緒ある岡崎家の令嬢として、いや世間一般の令嬢たちから考えて、岡崎弘子は大変変わった令嬢だった。妙齢の令嬢なら好みそうな事柄なんぞに微塵も興味を示さない。仕舞いには親の勧める見合い相手にさえも、興味がないとけちをつける。彼女が興味をもったのは、例えば珍しい調度、珍しい文房具、珍しい生き物…。弘子は近所でも評判の変人だった。

「んー…?」

 何かが気に入らないらしい。弘子はしきりと首を傾げてはお気に入りの洋墨に手に入れたばかりの硝子筆を何度となく浸していた。筆先は繊細な音を立てて紙の上を走り去る。都度洗われる筆先と、洋墨に染まる切り子のグラスの水面をうっとりと見つめ、再び首を傾げては筆先を紙に走らすのだ。

(…何やってんだ。あいつ)

 ミミズクは呆れて独言る。勿論、心の中で。この変わったものを好む変わった令嬢に、自分が人間の言葉を解する変わったミミズクだと露見すればどうなるか。そんなこと火を見るよりも明らかだった。だから今は口を噤む。ただでさえ変わった見た目を気に入られ、こんな所に閉じ込められているというのに。うっかり無駄口を叩いて無駄にできる時間はミミズクにはなかった。

(自分には崇高な使命があるのだ。)

「使命」なんて言い回しで自分を鼓舞しなければやってられない。ミミズクはその為にこの国までやって来たのだ。今は時機を待つしかない。ミミズクは再度息を吐くと、そっと瞳を閉じた。


 この国のずっと遠く。ユウ・リンドー公国。この国と気候のよく似た、四季のある穏やかな国だが、他国と特別な交流を持たない閉鎖的な小国だった。名物は乾燥させた漬物。ミミズクはこれを好きにはなれなかった。治めるのはマ・ニータ公爵。ミミズクはそのマ・ニータに仕える、名をR.B.ブッコローと言った。

 ブッコローは公国において確固たる地位を持つ生き物だった。見た目は変わったミミズクであるが、その実、「知」を司る精霊だった。簡単に使役できる生き物ではない。ではなぜマ・ニータに従っているのか。それは精霊としての「知」を束ねた「本」をマ・ニータに奪われてしまったからだった。マ・ニータはあらゆるものに興味を示し、そしてあらゆるものに興味をなくしていった。その興味の途中で、マ・ニータはブッコローの「知」の本にも興味を示した。マ・ニータが手に入れたところで本を使いこなせるわけではないのだけれど。とにかくマ・ニータは公国の君主という立場を利用してブッコローから本を奪い、そしてこき使っている。それがこの任務である。

(くそ。「知」の本さえあれば…。)

 幾度そう考えたことか。しかし奪われたことには仕方がない。以前ちらっとマ・ニータに本の話をした時、「あぁ、…うん?」と気のない返事を返されたことを思い出す。あいつはきっと本を奪ったことさえ忘れている。温厚な自分でなければ、あんな上司の下ではやっていけまい。

 ユウ・リンドー公国は閉鎖的な国ではあったが国民は愉快に暮らしていた。それはマ・ニータがあまり積極的に人民を支配しようとしなかったからかもしれないし、町民に扮し、お忍びで城下町の皿洗いをしながら人心を掌握していたからかもしれない。結局全権を握るのはマ・ニータである。突拍子もない命令でも、部下はそれに従う他選択肢などないのだ。


「妃が欲しい。」

 それは麗らかな春の午後だった。マ・ニータの執務室に呼ばれたブッコローは出会い頭にそう言われた。

「…は?」

 返す言葉が見つからない。発せられた言葉の意味を理解するまでにざっと四十秒はかかっただろうか。

「妃が欲しいんだよ。」

「…。」

 だからどうした。と喉まで出かかった言葉を寸でのところで押さえ込む。マ・ニータは執務机に両肘を突いて、物憂げな上目遣いで見上げてくる。たじろぐブッコローを他所にマ・ニータは話し続ける。

「そろそろ私もいい歳ですし?妃の一人や二人、必要かと思いまして。」

 そうしてこれ見よがしにため息を吐いた。

「娶ればいいじゃないですか。」

「そう簡単にいかないから困っているんじゃないか。」

 だから、とマ・ニータは勿体ぶってブッコローを見遣る。

「どなたかいい人、探して来て下さい。」

「はぁ?」

「私の占いによれば西の果ての国に求めし人物が居るそうです。」

「…どうして自分が行くんだよ?」

 適任は他にもいるはずである。

「西の果ての国とわかっているなら誰か人を遣ればいいでしょう。」

 そこまで言ってブッコローは気づく。まさか。

 しかしブッコローが言い募るより先にマ・ニータははっきりしない瞳を更に窄めて、はっきりしない満面の笑みをこちらへ向けて来たのだった。

「だって、あなただったら交通費かからないでしょ?」


 そうしてブッコローは無理やりこの国へと遣わされた。確かにミミズクの仲間は渡り鳥である。しかし断じて自分は違う。そもそもミミズクではあるがミミズクではない。「知」を司る精霊である。あいつは自分を何だと思っているのだ。いや、ただの使いっ走りのミミズクとしか思っていないだろう。

 ブッコローは今夜何度目になるかわからないため息を吐いて、そっと瞳を開いた。

「わぁああぁあぁあっ!!?!!」

 そして分厚いガラス越しに爛々と輝く瞳とかち合う。しかも至近距離で。自分のものとは思えない悲鳴を上げて、ブッコローは狭い籠の中を目一杯後退った。目の前、籠のすぐ脇に先ほどまで机に向かっていたはずの岡崎弘子の顔がある。弘子の瞳は好奇心を一杯に溜め込んでいる。まじまじと見る必要もない。この瞳はまずい。視線を逸らして合わせないようにするのが精一杯だった。

「あなた、今喋った?」

「………。」

 やたら鋭いのは何故だろう。ブッコローは冷や汗を流しながら視線を逸らし続けた。弘子は右手に持った硝子筆の柄を顎に当てて、四方八方から覗き込んで来る。途中「んー…?」と可愛らしく小首を傾げているが、ブッコローからすれば全く可愛くない。眼鏡の奥の目は獲物を見つけた時のミミズクのそれだ。ほら、全然可愛くない。

「…まぁ、鷲が喋るなんてこと、あるわけないか。」

「鷲じゃねぇ!ミミズクだ!」

 どうしても譲れないものなんて誰でも一つや二つは持っているものだ。ブッコローにとってはミミズクとしての矜持、いや正確には「精霊」としての矜持が、思わず口を動かしてしまったのだった。

 交わった瞳と瞳。訪れる沈黙。すでに地平に近づいた上弦は、やはりブッコローを嘲笑っているのだろう。


 岡崎弘子は目の前のそれを見下ろしながら興奮が溢れそうな己の顔面を無表情で覆い隠す。でもきっと瞳の奥から覗く興味は隠しきれていなかったのだろう。目の合ったミミズクがその膨よかな橙の身体を一瞬びくつかせたのを弘子は見逃さなかった。

 籠から出されたミミズクは、弘子の前で居住まいを正して正座している。視線はほとんど合わない。時折そっと上がった瞳が弘子を窺うように空を彷徨って、そしてまた敷き詰められた赤い絨毯の下へと戻っていくのだ。

 弘子はミミズクをじっと観察して、それからついと腕を組んだ。

「で、あなた何?」

「………。」

「今、喋ったよね?」

「………。」

「………。」

 ミミズクからの反応はない。弘子は一度首を傾げて考え込むと腕を組んだまま小さくつぶやいた。

「…鷲。」

「ミミズクだ!!」

 それだけは脊髄反射で反応してくる。ミミズクはしまったと表情だけで訴えて、また視線を逸らして黙り込む。

 この繰り返しである。

「………。」

 どのくらいこうしていたのだろう。それでも弘子の興味はこの喋るミミズクから離れない。結局ミミズクは意を決したようにキッと顔を上げたのだった。


 ブッコローの視線はふかふかの絨毯の上を彷徨い、時折壁、窓、岡崎弘子、窓、壁、そして絨毯と部屋中を移動し続けていた。

 相変わらず岡崎弘子の視線はうるさい。全身から出される興奮は、どんなに抑えようともブッコローを突き刺した。

 まずい。これは非常にまずい。妃探しどころじゃない。これがもしマ・ニータにバレでもしたら、いったいどんな嫌味を言われるかわかったものじゃない。何か打開策を考えなければ。

 ブッコローは必死に、しかし弘子に気づかれないように部屋中に視線を巡らした。

「…あ、……。」

 窓際、差し込む朝の薄明かりとランプの灯がぼんやりと照らす弘子の机。その机の上にブッコローは見つける。見つけてしまった。

「お前……文房具が好きなんだな。」

「え?」

 急に話し始めたブッコローに弘子は咄嗟に返事ができない様子だった。ブッコローは初めてきちんと顔を上げ、真正面から弘子の顔を見た。やはり弘子の瞳には好奇心がいっぱいに湛えられていたが、ブッコローはもう動じない。思いついた打開策は全員にとって完璧だ。

 弘子の机の上には今夜彼女を夢中にした美しい硝子筆があった。洋墨に染まった水を湛える切り子のグラスがあった。幾度も筆先の走った紙があった。それらの奥、革でできた筆立てに大事そうに保管されていたそれ。

 あれはユウ・リンドー公国一番のお勧め文房具。文房具に興味のないブッコローさえも魅了した筆。

 あれは間違いなく、三代目直記筆である。

「お前、文房具が好きなんだろ?」

 もう一度同じ言葉を繰り返して、ブッコローはニヤリと笑う。

「俺の名前はR.B.ブッコロー。ユウ・リンドー公国から来た。」


 考えてみれば簡単だった。そもそも西の果ての国に探し求める人物がいたとしても、その人物が東の果ての国に来てくれなければ話にならない。ならば理由はなんであれ、自国を捨てて東の果て、ユウ・リンドー公国まで来てもらえる人物を探す他ない訳だ。

 その点、岡崎弘子は適任ではないか。

 興味のあることにとことん熱中する彼女は、ありがたいことに我がユウ・リンドー公国一推しの三代目直記筆を愛用している。確かに面白い文房具でブッコローも気に入っていたが、これをあえて所持する(しかもほとんどこの国では流通していない)のはかなりの愛好家に他ならない。

 つまり岡崎弘子であれば、沢山の珍しい文房具と引き換えに、間違いなくユウ・リンドー公国について来る。そう考えたのである。

 ブッコローは慎重に言葉を選んでユウ・リンドー公国の魅力をアピールした。どう考えても「妃が欲しい」というマ・ニータの本意を伝えてしまえば、弘子はユウ・リンドーに来てくれないだろう。

 沢山の珍しい文房具に囲まれて、あまつさえそれを好きなだけ作ったり試したりすることもできる。しかも公国の経費として。まだ見ぬ文房具に触れることのできるまたとない機会である。

 ブッコローはそうやって弘子に取り入った。初めは不審そうに聞いていた弘子だったが、ユウ・リンドー公国の勅使印を見て、そしてブッコローの話を聞いて、いたく興味を持った様子だった。

 そこからは話が早かった。弘子は人に知られると止められるからと明日中には屋敷を出ようと言い出した。路銀は少しのお小遣いと、要らない家具をこっそり売って作るらしい。ブッコローはほくそ笑む。この単純な女のお陰で、どうやら自分の任務は早々に解決したらしい。しかも帰途は船で帰れる。この上ない幸福だ。

 うきうきと準備を始めた弘子を見て、ブッコローはこの日初めて安堵のため息を吐いたのだった。


 しかしそれは束の間の安堵であった。


 ユウ・リンドー公国に着いた弘子は、案の定文房具にしか興味を示さなかった。しかし幸いなことにマ・ニータに気に入られ、その部下として文房具の仕入れを任されることとなった。マ・ニータと弘子は上司と部下として上手くやっているようだった。

 そうして弘子が「妃になりそこねた女」と呼ばれるようになった頃、解決しなかった問題が顔をのぞかせたのだった。


 再び春を迎えたユウ・リンドー公国執務室に、ブッコローは呼び出された。

 執務室には偉そうに座るマ・ニータ公爵と、その隣で大量の新しい文房具のサンプルを抱えている岡崎弘子がいた。

 弘子はブッコローに気付いてサンプルを抱えたまま部屋を出た。すれ違いざまブッコローの耳元で「がんばって。」と囁いた言葉をブッコローは今後、何度も思い出すことになる。

 弘子のいなくなった執務室で、マ・ニータは咳払いを一つすると、ブッコローにこう言った。

「妃が欲しい。」


 次にブッコローが行かされる国は、いったいどこになるのか。ユウ・リンドー公国の麗らかな春の日。ブッコローの声にならない叫びが、執務室にこだました。


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木兎異聞 橘光希 @momomoeri

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