#29「紛れもない夢」


 ――それは遠い昔の記憶のようで、しかし紛れもない夢だった。


 茜色に染まった夕暮れの公園。


 ブランコに座りながらしくしくと泣いている十歳にも満たない小さな女の子と向かい合うように、の俺――相模さがみ あさひは立っていた。


 ふと、気弱で引っ込み思案な少女が袖で涙を拭い、嗚咽しながら呟く。


「あっくんもういいよ、帰ろうよ……」

「……全然良くない」

「もういいって言ってるじゃん。わたし、あんな人形もういらない」

「そんなわけないだろ」

「なんで、あっくんがそんなこと分かるの……?」

「だって、泣いてるじゃん」


 やはり、これは夢だと思った。


 だって目の前の少女がどんな顔をしていて、どんな名前だったかすら思い出せないのだから。


 いま俺に分かるのは、彼女がいじめっ子に大切な人形を取られて泣いている……ということだけだった。


 俺はブランコに座る少女に近付き、ぽんぽんと頭を撫でる。


「もう泣かなくていいよ、俺が取り返してきてあげるから」

「……ホント?」

「うん、大事な人形なんでしょ?」


 優しく微笑みかけると、少女は目にいっぱい涙を溜めながらこくりと頷いた。


 そして、俺は彼女の人形を取り返すため、いじめっ子のもとに向かう。


 近所の河川敷に来ると、俺よりもひと回りほど体の大きな少年を中心にした数人の少年少女が遊んでいた。


 その中の一人の少女が、見覚えのある人形を抱いているのが見える。


 俺はその女の子に近付いて声を掛けた。


「ねぇその人形、○○のだから返してくんない?」

「は? この人形はあたしのだもん。タカくんに貰ったんだもん」

「でも、元々それは○○の物なんだよ。だから返して」

「やだ、やーだ! ねぇタカくん、この子があたしのことイジメるのっ!」


 人形を抱いた女の子が駄々をこねるように言うと、タカくんと呼ばれた体の大きな少年が詰め寄るようにしてこちらに近付いてくる。


 不意に肩をドンと押され、俺はたたらを踏んだ。


「おい、ハナちゃんをイジメてんじゃねぇよ!」

「……その人形、○○のだから返してくれ」

「はァ? そんなヤツ知らねぇよ」

「嘘吐くな、お前が○○から人形を奪い取ったんだろ」


 俺が問い詰めると、タカは「はぁ……」とため息を吐いて悪びれる様子もなく言う。


「あー、ハナちゃんが欲しいって言うから、あのチビにくれって言ったら譲ってくれたんだ」

「○○泣いてたんだぞ、返せよ」

「そんなの知るか、お前しつこいんだよ!」


 すると、タカは堪忍袋の緒が切れたのか腕を振り上げ、殴りつけてくる。


 ドゴッ――と、顔を殴られ、口の中に血の味が広がった。


 それでも、俺は負けじと相手を睨み付ける。


「○○に謝れよ……」

「うるせーな、いい加減にしろ!」


 そこからは殴り合いの喧嘩に発展した。


 子供同士の殴り合い。


 周りで遊んでいた連中が心配した顔でこちらを見守っていたが、俺がタカの敵だと認識した途端、子供たちの罵詈雑言や暴力が降り注いでくる。


 だが、俺は一歩も引かず、たった一人で立ち向かった。


「○○に謝れッ……!」


 そして、気が付けば俺は河川敷で仰向けになっていた。


 なにがあったのかほとんど思い出せないが、体のあちこちがジンジンとして痛い。


 すると、不意に真上から少女の顔がこちらを覗き込んでくる。


 さっき公園で泣いていた女の子だ。


 俺はボロボロの体をなんとか起こして、連中から取り返した人形を差し出した。


「……これ、取り返した」


 言うと、女の子は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら泣き出してしまう。


「なんで……? なんで、あっくんはいつもわたしを助けてくれるの……?」

「別に、○○を助けるのに理由なんかないよ」

「意味わかんない! そんなにいっぱい怪我してまで、わたしなんか助けたって……」

「わたしなんか……とか、もう言わないでよ。俺は○○を助けたいと思ったからそうしたんだ。助けた理由なんて、君が○○だから……それだけで充分なんだよ」


 そうして俺が笑いかけると、少女はおもむろに涙を拭ってこくりと頷いた。


 そして、意を決したように口を開く。


「わたし、もう泣かない。わたしもあっくんを助けたいから……」


 語尾に不安が滲んでいるものの、そこからは確かな決意が感じられた。


「だからね、あっくん……。わたしもあっくんを守れるように強くなりたいんだ……」

「うん、○○ならきっとなれるよ」


 俺が頷くと、少女が不器用に笑いながら手を差し出してきた。


 俺はその手を掴み、微笑み返す。


 ――やはりこれはどこか遠い昔の記憶のようで、紛れもない夢なのだった。



   ◆ ◆ ◆



 ――時は少しさかのぼる。



「旭さん、どうかしましたか?」


 トロピカルウォーターランドで一日中遊び尽くし、プールサイドから更衣室へと向かう途中。


 唐突に立ち止まってプールの方を眺めている旭に気が付き、凪紗なぎさは足を止めた。


「あそこ、誰か溺れてませんか……?」


 言われて、プールの方に視線を向けると、浮き輪を失い溺れている子供の姿があった。


「た、大変、早くスタッフの人を呼ばないと……!」


 泳ぎが苦手な凪紗では溺れている子供を助けることはできないだろう。


 プールサイドの見張りをしているスタッフをすぐに呼ぶべきだと思い、周囲に視線を巡らせた瞬間――。


 不意に、隣に立っていた旭が突如走り出し、プールに飛び込んだ。


 周囲の人が狼狽える中、ただ一人……旭だけが何の躊躇いもなく駆け出したのだ。


 こういう時に咄嗟に体が動く人と動かない人がいる。


 きっとほとんどの人が後者で、誰かのために咄嗟に体が動く人なんてほんの一握りしかいないのだろう。


 それが凪紗は特別なことだと思った。


 彼は特別な人だ。別にそれは今に知ったことじゃない。


 ずっと昔から、いつでも彼は誰かを救うヒーローだったのだ――。


 旭がプールに飛び込み、溺れている子供の方に泳いでいく。


 だが、旭が子供のもとに辿り着くよりも先、偶然子供の周囲にいた男性が溺れている子供の手を引き、プールサイドまで引き上げたのだ。


 様子を見る限り、子供は無事だったらしく、凪紗もほっと胸を撫で下ろす。


 そして、異変に気が付いたのはそれから数秒後のことだった。


 さっきまで子供がいた方へ泳いでいたはずの旭の姿が見当たらないのだ。


 ふと、隣にいた樹里じゅりが怪訝な顔をする。


「あ、旭のヤツ……なんで水面に上がってこないんだ……?」

「え?」


 樹里の視線を追ってプールの中央辺りに視線を向けた時だった。


 不意にバシャバシャと水しぶきが上がる。


 明らかに旭の様子が変だった。


「も、もしかして旭くんっ……⁉」


 その異変を感じ取ったのはどうやら凪紗だけではないらしく、近くで双葉ふたばが顔色を青ざめながら両手で口を覆った。


 必死にもがくようにして手を動かす旭。


 凪紗の脳が、彼が溺れていると認識した瞬間――すぐに助けなきゃ……と思ってプールの方に駆け出したのだが、まるで体が鉛になってしまったかのように重かった。


 彼を助けたいのに動揺のためか、上手く体が動かないことに苛立ちを覚える。


 そんな中で、誰よりも早く動き出したのは他の誰でもない――だった。


 花火はなびはさっきの旭と同じように咄嗟にプールに飛び込むと、旭の方に泳いでいく。


 そして、ワンテンポ遅れて動き出した周囲の人たちと協力しながら旭をプールサイドに引き上げたのだった。


「あ、旭さん……!」


 凪紗は自分の情けなさを噛みしめながら旭の方に駆け寄る。


 彼は意識がない様子で、ぐったりとしていた。


 そんな姿を見た瞬間、背筋が冷えて冷や汗が頬を伝う。


 さっきから心臓は煩いほどに拍動しているせいで痛かった。


「旭、しっかりしろよ……!」


 樹里や双葉も心配した様子で旭の顔を覗き込む。


「二人とも少し離れて」


 不意に花火が二人に離れるように指示する。


 そして、そっと旭の顔に触れて気道を確保し口を開かせると……花火は濡れた髪を耳にかけ、躊躇うことなく唇を近づけた。


 旭の口に自身の口をあてがい、ゆっくりと息を吹き込んでいく。


 いわゆる人工呼吸。それが医療行為だと理解はしていたが、その光景を見た瞬間……凪紗はぎゅうっと心臓が締め付けられるような感覚に襲われた。


「――はッ、げほッげほッ……」


 不意に、旭が息を吹き返してせき込んだ。


 どうやら旭が意識を取り戻したようだった。


 その瞬間、全身の力が抜けるほどの安心感が込み上げてくるとともに、凪紗は大変な事態だったというのに邪な感情を抱いてしまったことに心底嫌気が差したのだった。

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