第9話

 2023年。


『千葉市内で蜘魅発見……河童……居合わせた少年が騙されて……逃がしちゃったみたい……今、女性を追いかけてる……』

「了解」


 無線から流れてきた河童の情報。どうやら奴は、人を騙くらかして逃げ回る癖が消えぬようだ。

 思わずこぼれた舌打ちは、誰に聞かれる間もなく風と共に消えていった。


「っあ!」

「大丈夫!?」


 小学生くらいの男児が小石に躓き体勢を崩した。隣を走っていた女がすぐさま両手で受け止めたため、怪我はない。だが、その小さな肩は恐怖で震えている。

 もう走れそうにない……そう察した女は男児をおぶりながら走ることにした。足を動かす度、胡桃色の髪が揺れる。


「おねえちゃん、アレは何? すごく気持ち悪かった」

「……さあ、なんだろうね。私にも分からないけど、絶対捕まっちゃダメだよ」


 女は、本当は分かっているが混乱を避ける為わざと知らないふりをした。

 運が悪いことに少年は河童とはちあわせてしまったらしい。奇妙な容姿に驚いて大人を呼ぼうとしたら言葉巧みに懐柔され……油断したところを喰われかけた。たまたま通り掛かった女がひっぺがしたため最悪の事態は防げたが、今度はふたりとも追いかけられる羽目になってしまった。文字通り命がけの鬼ごっこだ。


「捕まったらどうなるんだろう。さっき、食べられそうになった気が……」

「分からない。でも、捕まった後のことより捕まらないための方法を考えた方がいいと思う。……えっと、名前聞いてもいい?」

「陽翔」

「陽翔くん。鳴子お姉ちゃんと一緒に安全な場所まで逃げよう、ね!」


 息を切らせながらも明るく振る舞う鳴子の耳は確かに拾っていた。ぺたぺたと、水気を含む足音を。体を動かしたから、とは違う汗がこめかみを伝う。


(そろそろ体力が持たないか……っいや、いける!)


 急に方向転換して左へ。向かった先は使われていない路地だった。

 陽翔は、あの気味の悪い生き物から逃げれる抜け道があることを期待した。だが鳴子の肩越しに己の目が映すのは冷たいコンクリートの壁。

 そこで、なんと陽翔を降ろした。陽翔の表情に再び恐怖が現れる。


「おねえちゃん、行き止まりだよ!? なんで……」

「大丈夫だから、ここにいて」


 裏腹に、鳴子は落ち着いた声で諭す。

 迷いの無い真っ直ぐな眼。それを見れば見るほど心が安定してくる、独特な雰囲気を纏っていた。

 ホコリ被った大きな室外機の影にふたりとも隠れたところで、足音が一際大きく響く。

 

「やれやれ。人間は路地裏がお好きなようですね」

 

 蛇が這うように不気味な声。顔の半分ほどを占める大きな金目。口裂け女のようなくちばし。毒々しい緑色で、ぼこぼこと盛り上がっている皮膚。ふたりを追っていた張本人、河童が現れた。

 陽翔は身を震わせたが、鳴子は違う。なぜなら、あえてこの場に引き寄せたのだから。

 大きな眼に力を入れ、しっかり足を踏みしめて飛び出した。突然現れた鳴子に河童はすぐに気づく。

 

(はて、自棄を起こしているのでしょうか? 自ら懐に入ってくるなんて、なんと無謀な)


 まるで食べ物が自ら降ってきたようだ、と人を食らう化け物は舌舐り。水掻きが大きいこの手が一瞬でも触れれば尻子玉を引っこ抜けるからだ。腹を空かせたそれは鳴子の腕を掴もうとして……。

 逆に手首を掴まれた。

 

「!? いただだだだた!」


 女性とは思えない力で、握りつぶされるかと思った。尻込みする間も与えてくれず懐へ入られ腕を引っ張られて身体が浮いた。所謂、背負い投げ。

 こんな人間業を蜘魅が知るよしもない。だが己の背が地面に叩きつけられることは容易に想像できた。なので上半身を捻って鳴子の脇腹を蹴る。少し重心がずれた。これによって、投げるためには両足を地に着けなければならないが、片足が浮いてしまった。これは好機だと、河童は更に身をよじる。


「くっ……」


 鳴子の苦痛を伴ったうなり声。かなり強く蹴ったのでこのまま倒れるだろうと、河童は確かにそう油断した。

 その期待にあっさり応えるほど鳴子は甘くない。だんっ! と足を着け直し、両腕に力を込めてこう叫んだ。


「柔道黒帯なめんな!」


 声よりも強烈に河童をぶん投げる。宙に投げ出された緑色の身体は重力に従い、曲線を描きながら落ちていく。

 べちゃ、と雑巾を床に叩きつけたような音をたて顔から着地。痺れるような痛みに顔を歪ませる。

 河童の悲劇はここからであった。


「……よう」


 一拍置いて頭上から聞こえた低い声。痛みに耐えながら顔をあげると、目の前に黒いつなぎとキャップを身に付けた男が立っている。薄暗い路地でも映える銀髪に、空色と苗色のつり目。紛れも無き、十九歳になった米沢会津だ。

 会津は高校卒業後警察学校へ入学し、この春から寄す処警察へ就職したのだ。


「人間、七年も経てば変わるものだが……蜘魅であるお前は何も変わらねぇんだな。何時までも反省しないから悪党なんだと、クソガキだった俺に教えてくれたことは感謝してるが」


 嫌悪感丸出し。声も表情も恐ろしい。

 空色と苗色のつり目は河童に見覚えがあった


(七年……? まさか、あのときの!)


 あのときの事は河童も覚えている。空腹を満たすために声をかけたのだが、彼の瞳を見た瞬間その気が失せた。古くから言い伝えられているのだ。若葉と快晴を彷彿とさせる瞳を持つ寄す処人には近づくな、と。

 だから善人のふりして逃がしたのに翌日切り刻まれた上、また出会ってしまうなんて。しかも、より力をつけた状態で。

 七年前の斬撃を思い出し血の気が引いた。

 頭を回し速攻で練った作戦は、すぐ近くにいる女子供を人質にすること。痛む足を奮い立たせふたりへ向かって走り出す。

 目的を察した会津の何かが切れた。


「伏せて!」


 察した鳴子が陽翔に覆い被さった。

 瞬間、突風がふたりのすぐ後ろを駆け抜け、河童だけ吹き飛ばされていく。空中に浮かぶ身体の回りを突風が包み込み、洗濯機で洗われる衣服のように回されている。

 その間抜け面を会津は冷たい眼で見上げていた。


「人質作戦とは恣意的な。……させる訳ねぇだろ馬鹿が」


 己の人生を変えた因縁の敵が、あの頃の自分と同じ年頃の男児と幼馴染みを襲おうとした。会津の沸点を越える理由はこれだけで充分だ。

 殺気を顕にした眼で呟く。この七年で身に付けた力を最大限発揮できるように敵を視界に入れながら。


「翠玉の檻」


 ザン! と河童の四肢を風が貫いた。細く速いその風は、槍のような鋭さを持つ。風で作った檻に閉じ込め、その中で細かい斬撃を繰り返すその様は、傷のような内包物を隠し持つエメラルドのようであった。

 大量の血を噴き出しながら地面に倒れこんだその場所にあるのは縄で繋がった透明な石。

 

(これは……っ、封石!)


 妖怪を石に封じ込めて二度と出られなくする、監獄への鍵。

 風術で鳴子たちから引き剥がしたと同時に封石を撒いておいた。それから死なない程度に攻撃してから封じ込める。河童の着地点に至るまで何もかも、会津の計算通りだった。

 今さら気づいて逃げようとしても遅い。一見滅茶苦茶に貫いたようであったが、実は的確に腱を狙っていたので指一本動かせやしない。

 河童の高慢が音をたてて崩れた。


(この……この私がたかが十数年しか生きていない人間に!)


 何百年も前に聞かされた、一時期行動を共にいていた蜘魅の言葉を思い出す。


「若葉と快晴を彷彿とさせる瞳を持つ寄す処人には近づくな。あれは人間ではない。人の皮を被った……風神だ」


 異色の瞳が、銀髪の隙間から河童を捕らえて離さない。


「禁錮」


 そう呟き前に出した左手を握ると、封石が縮まり河童を拘束した。


「ぐっ……」


 両腕の自由が完全に奪われ、もう逃げられない。

 さらに会津は握ったままの左手に、右手を被せて唱えた。


「封印」


 河童にとって絶望の一言を。

 封石が激しく発光し、辺り一帯を照らす。

 河童は空気を切り裂くような悲鳴がだんだん小さくなっていって……緑色の石だけが残された。かつん、と軽い音で地面に落ちたそれは宝石のような輝きは無く、川原に転がっている石に絵の具で色をつけたようなもの。これに河童が封印されているとは、寄す処人以外誰も考え付かないだろう。

 会津は緑色の石を拾うと、胸ポケットから取り出した革製の小さな袋に入れた。この色づいた封石は寄す処警察署で厳重に保管される。それをまた胸ポケットへ仕舞いながら、端で小さくなっているふたりに声をかけた。


「怪我はねぇか?」

「うん! 会津が近くにいてくれたお陰でなんとかなったよ」

「……」

 

 鳴子は会津が助けに来ることを見越していた。陽翔をおぶっていたあの時、河童の位置を知るために術を使っていた最中で会津の足音を拾い、到着するまでの時間を稼ぐため河童と退治したというわけだ。

 とても勇敢だが、会津は渋い顔。


(俺を信頼してくれてるからこその策なんだろうが……身を危険にさらすのは辞めてほしいところだな。言わねぇけど)


 もし鳴子が喰われたら……なんて考えたくもない。この細い指先に傷が付くのでさえ嫌なのに。本音はもう二度とするなと説教したいが、会津が到着する前に無力化してくれていたお陰で、あのすばしっこい河童を封印できたのだから何も言えまい。

 それに、説教したところで鳴子のお人好しが治る訳がないのだ。


(好きだから傷付けたくない、なんて余計なことまで言っちまいそうだ)


 喉まで上がってきた言葉をのみこんだ会津をじっと見つめる少年。その表情には困惑が見て取れた。しゃがんでから揺れる瞳を見つめ返すと、びく、と肩を震わせつつおずおず口を開く。


「お兄ちゃんは誰?」

「警察だ」

「警察……味方なの?」

「ああ。悪い奴はやっつけたから安心しろ」

「……」


 陽翔は何かを考えているようだ。疑わしい、という心の声が顔に現れている。

 無理もない。寄す処警察が着用しているのは出動服だ。制服も持っているが、妖怪との戦闘が主な仕事ゆえ動きやすい方をあえて着ている。

 そんなことは当然知らない少年からしたら、交番で見かける制服とは違うし、摩可不思議な術を使った変な人。印象はこんなものだろう。

 最も、会津の目付きが悪くて怖じ気づいているのが大きいが。

 陽翔は、この男は本当に信頼できる人かどうか言葉で確かめることにした。

 

「……あの変な化け物、人間は食べないって言った。でも……おねえちゃんがいなかったら僕……」


 じわじわ溢れる涙。恐怖と、後悔と……その他色々な感情がごちゃ混ぜになっていた。

 この眼を、会津は身をもってよく知っている


「あの変な化け物は河童と言う。人間の魂を引っこ抜いて食べる恐ろしい妖怪だ。人の肉は喰わねぇってだけで、たくさん人を殺している」

「じゃあ、河童の言葉は嘘だったの? あんなに堂々と言うもん?」

「ああ。嘘をつく生き物ってのは罪悪感がないから、どんな嘘でも本当の事のように言ってみせんだ」

「そう……なんだ」


 ホラー映画よりゾッとする事実に陽翔は目を伏せる。今の陽翔と昔の会津が重なった。

 陽翔の心を侵略していく暗い気持ちを追い払うように、頭へ手を乗せた。


「見抜けなくて当たり前だ、お前は何も悪くねぇ。自分を責めるな。誰も死なずに済んだんだから」

「……ん」


 またじわりと浮かぶ涙。でも、先ほどの絶望感とは違う安堵から来るものだった。


「そうだよ陽翔くん。むしろ自分を誉めないと」


 涙が溢れる前に、鳴子がひょっこり陽翔の顔を覗き込んだ。


「ここに避難してすぐの時、お姉ちゃんの言うこと聞いて待っててくれたでしょ? 突然降ろされて怖かっただろうに。信じてくれて嬉しかったし、強い子だな、かっこいいなぁって思ったよ」

「ほんと? 僕、かっこよかった?」

「うん、すっごくかっこよかったよ! さすがだね」


 鳴子の言葉は、電気を着けるように心を明るくする。陽翔の涙はいつの間にか乾いていた。さすが精神科医を目指す大学生だな、と会津は感心する。

 たくさん誉められてすっかりご機嫌になった頃、三人の背後にパトカーが停まった。


「お疲れ様。鳴子ちゃんも久しぶり」

「あ、仲井さん! 久しぶり!」


 ここら一帯の警備を任されている仲井は鳴子とも旧知の仲。毎週電話で声と近況は聞いているが成長した姿を見るのは数年ぶりだ。

 昔話に花が咲きそうな雰囲気をさりげなく消した仲井は、鳴子の隣でぽかんとしている少年に目を向けた。


「……寄す処人ではない、か」

「よす……? なにそれ」

「説明してもいいけど覚えられないよ。何故なら僕は、君の記憶を消さないといけない」


 陽翔の脳内がはてなマークで埋め尽くされた。記憶をどうやって消すというのか、本気で言っているのか全く分からなかった。

 そんな陽翔を一瞬だけ瞳に映した会津は、不安そうな鳴子を連れて姿を消した。

 ふたりだけの静かな路地で、仲井は感情が読めない糸目を開く。


「ごめんね」


 陽翔の頭に手で触れたその瞬間、仲井の手には写真フィルムのようなものが。長い長いそれには彼が見た風景が写し出されている。

 人の記憶を物理的に表したもの、という解釈であっている。


「うーん……だいたい二時間分くらい切り取ろうか。妖怪がいることを一般人に知られたら色々とまずいんだ」


 陽翔は動かない。光がなくなった目でぼーっと立っているだけ。立ったまま気絶しているようだ。


「人体には影響無いから、安心して。と言ったことすら忘れてしまうんだけどね」


 下校中、河童に会う場面が写し出された記憶のフィルム。そこを、びり、と音をたてながら破り捨てた。

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