第7話

(や、ばい……止めないと……っ)


 一欠片だけ残っていた冷静さをなんとか引っ張り出し、術を止めようともがく。だが焦れば焦るほど勢いを増していくー。


「おい! やめろ!」


 突然、会津の背後からよく通る男の声がした。知らない声だ。


「息を吐くんだ、ゆっくり!」


 そう指示されてハッとした。確かに吸うことばかりに気をとられていたと。混乱しすぎて呼吸の仕方まで忘れていた。

 指示通り息を吐くと強張っていた肩が少しだけ解れた。ほんの少しの変化だが、会津にとってはいつもの自分に戻れる希望を見いだした、大きな一歩だった。暴れ馬のように右往左往していた術も勢いが弱まり、ぼやけていた視界が開けていく。

 会津の周りには今、風の渦がある。台風の中に入っている感じだ。そこから鎌鼬のような斬撃が常に飛んでいる状態。弱まったとは言えまだまだ脅威。幾分か冷静さを取り戻したのだが、暴走状態からの脱却には遠かった。


「焦るな、大丈夫だから!」


 背後で聞いたものと同じ声の主が突然目の前に現れた。黒い繋ぎとキャップを身に付けたガタイの良い男性。

 こんな状況で傷ひとつ無くここまで来れるなんて不可能。いったい何者なんだと会津は更に混乱した。

 

「お前は今暴走してる。こんな現場を見たんだから無理もない。お前の反応は当たり前だから抑えようとしなくていいんだ。受け入れろ、自分を!」


(受け入れる……? 俺を、俺が、受け入れる……)


 理解できるような、出来ないような。回らない頭では霧の中で棒立ちになっている感覚で、混乱に拍車をかけた。

 とにかく暴走を止めたい会津の意思に反して、男めがけて風の斬撃が繰り出される。

 危ないー。会津がそう声を出す前に血飛沫が舞った。


「ぁ…」


 生暖かい鮮血が頬を濡らす。今、自分が何をしたか理解するのには充分だった。


「……俺、おれが……」

「まてまて生きてる! 生きてるから!」


 男はスパイダーマンのように壁に張り付いていた。ギリギリかわせなかった二の腕は服が破れ、赤い筋がたらりと流れている。

 また現れた風の斬撃。それをを避けるとき、一瞬で姿が見えなくなったかと思ったら別の位置へ移動している。瞬間移動術の使い手だとすぐに分かった。

 男は術を駆使して避けながら、暴走状態を納めるための指示を的確に出し続ける。


「自分の気持ちを整理すんだ! お前はなんで泣いてる!? っぶね!」


 一際強い斬撃が、鎌で切り裂いたような跡を壁に残した。

 会津はそっと自分の頬に手をやった。生暖かい水が指先を濡らす。そこでやっと泣いていることを自覚したのだった。

 

(自分の、気持ち……)


 パッと思い付くだけでもたくさんある。

 信じていた河童に裏切られたショック。

 母に嘘をついた罪悪感。

 一番大きいのは、無知な自分への怒り。

 でもなんとなく、それだけではない気がした。

 

(もっと深く考えろ。この招いたこの悲劇を見て、真っ先に浮かんだ感情は? 怒りの底にある感情は何だ?)


 河童の本性を見て、真っ先に浮かんだ感情は。


「悲しい……」


 木の実が落ちるようにぽろりと溢れた言葉。


(そっか、俺は悲しかったんだ)


 ショックも罪悪感も怒りもあくまで副次的なものであり、根元あるのは深い悲しみだったのだ。

 風が徐々に小さくなっていき、やがて消えた。緊張の糸が切れてその場へ倒れこむ前に、男によって抱き留められた。


「頑張ったな」


 そのたった一言が胸の深いところまで流れ込み、涙を誘う。


「っ……うで、ごめんなさ……」

「これくらいすぐ治っから気にすんな」


 肉厚な手で背中をとんとんしてくれる。手のひらから伝わる温もりは、彼の人柄を表しているようだった。

 会津はされるがままにあやされながら、自分の感情を正しく理解するだけでここまで落ち着くものなんだなとぼんやり思った。

 それからすぐにキキ、と路地の入り口でパトカーが停まる。その中からは会津にとって見知った顔の仲井と、中学生くらいの少年が慌ただしく降りてきた。傷だらけの路地と男性を見るなりふたり共目を見開く。


「板野、これは一体?」


 仲井の問いかけに、ガタイの良い男性改め板野は会津の背に手を当てたまま口を開いた。


「河童と悪食の食事現場に居合わせたみてぇです。術が暴走して、あとは見ての通り」


 竜の爪痕のような壁の傷、無数の血痕、二の腕がぱっくり切れてしまっている板野、返り血を浴びた会津。子供がやったとは思えないほど酷い惨状に、仲井は悲痛な表情を浮かべた。


「……とりあえず傷、直そうか」


 そうポツリと呟く白衣を着た少年が板野の前にしゃがみこみ、素手で傷口に触れた。瞬間、ぽう……と桃色の淡い光が傷を照らし、深い傷が数秒後にはきれいさっぱり直っていた。


「さすが院長様」

「大したことないよ」


 謙遜しているが、これは再生術という、術者が手に触れたものならなんでも直せる究極の回復能力である。

 大変珍しい術を目にして、普段の会津なら子供らしい反応を示すのだろうが、今は心が動かなかった。

 大人達はそろって悲痛な表情を浮かべる。


 (まぁ……そりゃそうだよな)


 これを見ても平気なのは、普段から死と隣り合わせの寄す処警察くらいだろう。


「……立てるか?」

「……」

「家まで送るわ。事情聴衆もしなきゃなんねんだけど、言いたくないならそれでいいからな」


 何があったか話すには思い出さなくてはならない。それも根掘り葉掘り聞き出されるのだ。仕事とは言え、子供に対して傷口に塩を塗るなんて良心が許さなかった。


「……」

 

 会津はなにもいわない。ただ、何処か遠い目でひとつ頷くだけ。小さな手を取り、板野はパトカーに乗り込んだ。

 傷跡が多く残る路地に残されたふたり。そのひとりである白衣を着た少年がポツリと呟く。


「本当に、大したことないよ。……心には触れられないもの」


 どうしてそう溢したのか。強く握った拳が充分語っているだろう。

 憂いを帯びたため息を落とすが、今は警察のお手伝いが最優先。壁の傷を直すために気持ちを切り替えたのだった。

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