第5話
会津が目を覚ますと部屋は真っ暗、髪と瞳の色も黒く染まっている。
数時間しか寝ていない感覚だが目はすっきり冴えていた。
枕元に置いているキッズ携帯の電源をつけて時刻を確認すると、十月二十七日二十三時二分。寝始めが十月二十六日二十時頃だったので、大方二十八時間寝ていたらしい。
(うわ……今回は特によく寝たな)
副作用で眠りこける平均時間は24時間前後と言われている。4時間も長く寝たのは大方、学校で着色剤の効果が切れたことと河童と出会ったことによる疲労が招いたことだろう。
会津は布団のなかでぐっ、と伸びをし、朝までどう過ごすか考える。今日はこれ以上寝れないので、ひとりで時間を潰すしかない。
(母さんと姉さんはもう寝てるだろうし、テレビは避けた方がいいな。本でも読むか)
冷気に身を縮こませながらのそのそ起き上がったその瞬間。ガクッと膝が曲がって、崩れたバランスを取り戻す間もなく倒れこんでしまった。
「~っ!」
とっさに両手を着いたが、どんっ、と床に打った膝と手のひらが痛い。痛いのに、びりびりと振動しているような感覚と、乾ききった喉が邪魔して声がでない。ふらふらするし、何となく頭も痛い気がするし……。
着色剤を飲んだ後はいつも腹が減っているのだが今回は特に酷い。空腹の限界値を越えた人間は立つことすら出来ないのだと、会津は今日はじめて知った。
(やべぇ、死ぬ……)
くらくら回転する視界。どうすることも出来ず荒い呼吸を繰り返していた。
ーふと、会津の右側からひと筋の光が。
「……会津?」
電球が放つ淡黄の光を背に、寝たと思っていた母、愛梨が部屋のドアを開けて立っている。会津が床に這いつくばっている姿を見るやいなや、深いため息をひとつ。
「やっと起きやがったかこの野郎。死んだかと思ったわ」
(……ひっでぇ言い方)
昨日の朝より鋭く飛んできた言葉。それに対して苦笑だけで済んだのは、愛梨の言葉が安堵の緑色をしていたからだ。空腹で死にそうになっているものの、とりあえず起きて良かった。そんなとこだろう。
「テメー寝すぎなんだよ。ちょっと待ってろ」
すい、と目線を外しすたすたと階段を降りていった。
と思えばものの数十秒でコップ片手に戻ってくる。
「とりま、水分とっとけ」
差し出されたのは水。
これはありがたい。喉が乾きすぎて張り付きそうだったのだ。
早速口を付けたものの、手に力が入らず水面が揺れるだけ。
「しょーがねぇなあ」
またひとつため息を吐きながら、コップを支えてくれたおかげで飲むことが出来た。長時間水分をとらなかった為、乾ききった喉にするすると流れていく。喉を鳴らす度、萎れたレタスを冷水に浸けるとパリッとなるように、会津の体も活気を取り戻していった。
母はコップを回収したついでに、冷蔵庫から豆腐と大根を取り出した。鍋に水と顆粒だし、醤油と味醂と絹豆腐半丁を入れて火にかける。軽く沸騰してきたら、鍋に直接大根を擦り卸して、お好みで水溶き片栗粉を少々。ひと煮立ちさせたら“豆腐のみぞれ煮”完成である。
断食後は胃腸が弱っているため、空腹の赴くまま固形物を食べると予想以上に負担がかかってしまう。なので重湯や具なし味噌汁などの回復食が好ましいのだが、それだけでは成長期を控えた男子小学生の胃袋は満足しない。どうしたものかと試行錯誤した後、消化に良い大根と豆腐なら負担をかけずに済むのではないかという結論に至った。幸い会津には好評であり、着色剤服用後や体調を崩したときの定番メニューとなったのだった。
椀に盛り付けて、さあ部屋で待つ我が子の元へ届けようと足を向けたら、台所の入り口に既にいた。水を飲んだだけなので本調子ではないはずだが、匂いにつられて降りてきたらしかった。じっとお椀を見つめ腹を鳴らすその様はまるで狼子のよう。
「……椅子に座ってから食べろよ?」
「はい」
素直に返事をして、小走りで椅子に座った。
薬を飲むときもこういう態度をとってくれたらな、と愛梨は苦笑をひとつ。同時に、大人顔負けの言動をとるけど腹を空かせてしまえば年相応な男の子、こういうところは可愛いのだと再確認した。
「いただきますっ」
「はい、どうぞ」
暴速で合掌を済ませスプーンを手に取った。豆腐をそっと掬うとぷるんと揺れて、出汁の香りを纏った湯気が鼻腔を満たす。冷ますために息を吹き掛けてから口に運べば、滑らかな舌触りと大根おろしの甘さが絶妙に絡み合う。とろみを付けているので弱った体でも簡単に嚥下できた。ゆっくりと食道を通りながら内側から温めてくれる優しい味。気付けばほっと息をついていた。
それを見た愛梨が、肘を着きながらにやりと笑う。
「うめぇだろ」
(自分で言うのかよ)
少し呆れたが旨いのは確かなので黙って頷いておく。
愛梨の眼が三日月のように湾曲している。
会津は再び無言で食べ進めながら“目は口ほどに物を言う”が脳内に浮かぶのだった。
お椀一杯分だけでも胃袋にずしっと圧が掛かった気がする。この調子だと朝まで空腹を感じずに済みそうだと、会津は満足げに白湯を啜る。
愛梨は空になった食器を片付け、テーブルを拭きながらぽそりと呟いた。
「寄す処人ってのは大変だな。カラコンも染め粉もオシャレの為に使わねぇし、毎月死にそうなくらい腹空かせるなんて。なんでこんな窮屈な生活させねぇといけないのか分かんねぇよ」
憂いを含む溜め息。
愛梨は異能を持たない。だから着色剤を飲んだことも、自分の色を隠しながら生きたこともない。だが我が子が苦労している様子を見れば、どうにか助けてやりたいと願うのが親心。……願うだけで、根本的な解決策など見つからないのが愛梨はもどかしかった。
だが会津にとっては生きづらいのが普通であり、今更辛いとは思わない。親心子知らず、現在頭に浮かぶのは河童の事。
(なんか、昨日も似たようなこと言われたな)
あの河童は、自分も辛い境遇なはずなのに会津を憂いた。最初は見た目で怯えていたが、性格は親しみやすくて人情味があると感じた。無事逃げられただろうかと憂慮しながら白湯を口に含んだ丁度そのとき、母がふと思い出したように口を開いた。
「そういや、この辺で蜘魅が出たってよ」
「っ! ごほっごほっ……」
「お、おい。大丈夫かよ?」
図ったようなタイミング。会津は心臓がどきりと音を立てたと同時に激しくむせてしまった。すぐに母が椅子を立ち、背中を擦ってくれる。
「どうしたよ。もしかして、蜘魅を見たのか?」
どく、と心臓が縮みあがった。何故こうも的確に痛いところを突くのか。
会津はこの状況から一刻も早く逃れるために必死で頭を回した。
見たどころか喋った、なんて言ってしまえば直ぐ通報されて河童は殺されてしまう。悪い事してないのに問答無用で葬られるのだ。
そう思ったら、本当の事なんて言えなかった。
「いや……見てねぇ」
信憑性がある作り話なんて出来ないので知らんふりするしかない。そう結論付けた。
「ふーん?」
じと、と疑わしい眼差しを向けられた。
母の勘は鋭い。言葉の色が見えているのかと冷や冷やするくらい。
「マジで言ってんな?」
「う……うん。マジだよ」
切れ長の眼が更に吊り上がって迫力が増し増しだ。歯切れ悪く返答した会津はまさに、蛇に睨まれた蛙だった。冷や汗だらだら。温まった体が冷えていく。どくどく音を立てる心臓が、正直に言った方がいいんじゃないかと急いているような。
目を逸らすこと即ち尋問コースまっしぐらな故、喉を鳴らしながらも目線を合わせ続けた。
何分経っただろう。実際は1分と少しくらいだが、会津には倍以上に感じる。
ひとしきりガンを飛ばした愛梨だったが、突然ふっと目力を緩めた。
「……ん。分かった。信じるわ」
「え……」
どこかスッキリしたような笑顔を向けられて、真逆に変わった空気感にポカンと口を開ける。
正直なところ、完全に信用できる程の根拠はなにひとつ無い。だがそれでも、我が子の言い分は信じたいもの。
もやもやしているだろう胸中を完璧に隠すその様に、会津の心に罪悪感がずしっと乗ってきた。
「ま、もし鉢合わせたらすぐ逃げろよ。蜘魅盲魎は人間を襲うために生きてるって聞くし」
「……」
ぴく、と会津の指が震えた。
河童を思い浮かべると、仕方無いとはいえ誤解をされたままなのが癪にさわる。
(母さんにも理解してほしい……なんて、無理な話だよな)
母は郷の民である。父と出会うまで寄す処人の存在すら知らなかった一般人がなぜこの世界に足を踏み入れたのか。
蜘魅に、襲われた経験があるから。
それ以来母にとって蜘魅は人を脅かす化け物であり、自身のトラウマであり。そんな傷を抱えているのに“蜘魅はいい奴なんだ”とかほざいたら……その後は予想したくない。
会津は、ただ無言で頷くことしか出来ないのだった。
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