キャビネット9 「氐人公主と古琴の名手」

 キャビネット9 「氐人公主ていじんこうしゅと古琴の名手」


 ——氐人国は建木けんぼくの西にあり。その人となり、人面で魚の身、足がない。

『山海経』海内南経より


 昔々、海の底に、氐人国という人魚の国がありました。


 氐人国のお姫様は氐人公主と言い、いつか海の底から陸の国に出てみたいと思っていましたが、まだ若かったので、水晶宮の一室で勉学に勤しんでいました。


 世話役の蛟人こうじんは氐人公主に楽しんでもらおうと、一日の終わりに海面から注ぐ月明かりの下で、毎晩、古琴を奏でて聞かせました。


 蛟人は氐人公主が青い空を思えば、まるで鳥が大空に羽ばたくような清々しい楽曲を奏で、広い大陸を思えば、あたかも獣が大地を駆けるような力強い楽曲を奏でました。


 そして、人間の国の王子様である公子の事を思えば、恋心を募らせた少女の純粋で切ない気持ちを、優しく大切に奏でました。


 蛟人が、夜毎、氐人公主の気持ちを琴の調べに乗せて演奏した事で、彼女は独りぼっちの寂しく辛い夜を過ごさずに済みました。


 それどころか、氐人公主がいつからか、蛟人の琴の音に合わせて歌い始めた事で、深海の夜の一時はまるで宴を開いているように、明るく和やかな時間になったのです。


 その時ばかりは、夜の海を見つめる孤独な人間の心も光が差したように温かくなり、何人も身を投げずに済んだと言います。


 けれど、氐人公主はある日、人間の国の公子に対する想いが募り、魔女の力を借りて、美しい歌声を失う代わりに、足を手に入れ、陸に上がってしまいました。


 海の底にたった一人、取り残された蛟人には、その後、氐人公主がどうなったのかは判りません。


 ——もし、恋愛が成就しなければ、海の泡となり、この世から消えてしまう呪いをかけられたのだ、と風の噂で聞いた事はあります。


 とは言え、海の底にいる蛟人には、もうどうする事もできません。


 ——ただ、今でも海の底から誰かを想う琴の音が、時々、聞こえてくる事がありました。まるでどこか手の届かない遠くに行ってしまった誰かの幸せを、いつまでもずっと願っているような古琴の調べ。或いは、海の泡となって消えてしまった恋心を優しく見つめ、労わるような切ない音色。


 最初は、ふと耳にした誰もが驚きますが、気のせいではありません。


 本当に海の底から、古琴の名手が弾くような、素晴らしい琴の音が聞こえてくるのです。


 けれど、どんなに海の底に耳を澄ましたとしても、いつかの夜のように優しく静かな琴の調べとともに、誰かの美しい歌声が聞こえてくる事は、もう二度となかったと言います。

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