キャビネット8 「人魚」
キャビネット8 「人魚」
——人魚、魚身人面の者なり。
『
人魚の娘は、満月の晩、美しい月に惹かれて、よく歌を歌っていた。
月夜に輝く海を軽やかに舞うように泳いでは、細く綺麗な歌声を響かせる。
気分よく歌っていたら、人里近くの岸辺まで来ていた。
「おお、これは珍しい事もあるものだ。人魚か」
彼女が波間から顔を出している事に気付いて感心したように言ったのは、年老いた漁師だった。
「お前の歌声は綺麗だな。きっと、心も綺麗に違いない。人間と人魚は相容れないが、お前の事は誰にも言わんでやろう」
その後は月夜の度に、気兼ねなく歌った。
ある晩、気持ちよく歌っていると、彼女の歌声に惹かれた人間の若者が海に近付きすぎて波に攫われた。
人魚の娘は若者が溺れた事にすぐに気付き、迷わず助けに行った。
海水を飲んで気を失っている彼を抱きかかえ、なんとか岸辺まで辿り着いた。
人間の若者を岸辺に寝かせ、波間から顔だけ出して、心配そうにじっと見つめる。
するとどうだろう、人間の若者は、息を吹き返した。
人魚の娘は、ほんの一瞬、人間の若者と目が合った。
海のように青く、深い瞳だった。
だが、人魚と人間は相容れない。
人魚の娘は人間の若者に何も告げる事なく、海の中に姿を消した。
——満月の晩がまたやって来た。
人魚の娘は、波間から月夜を見上げるばかりで、いつものように歌う事はなかった。
まるで自分が海の中でしか生きられない事を恨むように、ずっと空を見上げていた。
「——人に恋した人魚は哀れだな。想っても想っても、添い遂げられる事はない……その身が、魚身である故に」
年老いた漁師が深い海を見つめ、独り言のように言った。
……私が哀れ? いいえ、そんな事ないわ。だってほら!
人魚の娘は人間の若者の瞳と同じ色をした、青く深い海を見つけた。
……この海は、あの人の心。私はあの人の心の底まで辿り着くのよ。
彼女の泳いで行った後には無数の泡だけが漂い、やがてはそれも消えた。
それから満月の晩、人魚の娘を見かける事はなくなった。
ただ、岸辺を通りかかると、誰かのなんだか嬉しそうな細く綺麗な歌声が、微かに聞こえる気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます