キャビネット3 「九龍城砦の怪」

 キャビネット3 「九龍城砦の怪」


 香港、九龍城砦は、十階から十四階建ての細長く薄汚いビルが狭い敷地にひしめき合う、一度入ったら二度と出てこられない、東洋の魔窟である。


 元々、香港にいる訳ありの人間や、大陸から流れて来た人間が、大勢、暮らしている。


 李化龍りかりゅうも、その一人だった。


 毎日、上半身は裸、下は短パン姿で、九龍城砦の一画にある、小さな饅頭工場で、黙々と働いていた。


 特に、同僚と話す事もない。


 みんな訳ありで、脛に傷を持つ者も少なくなかった。


 大陸にいた頃よりマシな生活を送っているが、決して稼ぎがいい訳ではない。


 一人で暮らす分にはなんとかやっていけるが、所帯を持つ事など夢のまた夢。


 そもそも、将来を考えている相手などいなかったが。


 しかし、密かな楽しみはある。


 香港は飯がうまい。


 大枚を叩かなくても、小銭を握り締めて外に繰り出せば、それなりにおいしいものが食べられるのだ。


 李化龍は今夜も、最近、九龍城砦の外れにできたという、目当ての店に行ってみる事にした。


 店の名前は、『美味燒臘飯店びみちゃーしゅうはんてん』。


『焼臘飯店』というのは、店先で豚の丸焼きをぶら下げ、各種ロースト肉を量り売りしている店である。


 店内に入れば、好きな肉を選び、ほかほかのご飯に乗っけて食べる事ができる。


 香港の人々に愛されている定番のご飯であり、ローストの良し悪しは職人の腕に左右される。


 李化龍は『美味燒臘飯店』の主人はどんな人物だろうと、店に入ってみれば、狭い店内には、すでに、五、六人の先客がいた。


 みんな、自分と同じ仕事帰りの独り身の男といった風体だったが、どこかの肉体労働者らしく逞しい体つきをしていた。


「いらっしゃいませ! 何になさいますか?」


 綺麗な顔立ちをした女が、愛想よく言った。


「ロースト・ダックとチャーシュー、ロースト・ダックは骨つきで」


 彼女は、緑の上着に、紅い裾をつけていた。


「ロースト・ダックとチャーシュー、ロースト・ダックは骨つきですね! 少々お待ち下さい!」


 満面の笑みで繰り返し、溌剌とした様子で、調理に取り掛かった。


 その間も他のお客達から次々と、『しゅう老板ラオバン』、『周老板』と、頻りに話しかけられていた。


 どうやら彼女の名前は、『周』というらしい。


 周が作ったロースト肉は、絶品だった——気付いたら他のお客と同じように、周に何度も声をかけ、ロースト肉をお腹いっぱい食べていた。


 彼女は閉店間際になると、お客に酒を振る舞い、談笑を始めた。


 李化龍は酒は飲めない質だったので口をつけなかったが、雰囲気を楽しんだ。


 至福の時だ。


 おいしいものでお腹は膨れ、綺麗な女が笑顔で話しかけてくる。


 李化龍はしばし、満足感に浸っていた。


 いつの間にか、眠っていた。


 夢の中にいた。


 周が綺麗な顔で、ずっと微笑んでいた。


 次に目覚めた時には、どこかから呻き声が聞こえてきた。


 目を瞬き、身の回りを確かめてみると、薄汚い部屋の片隅で手足を縄で縛られ、冷たい石造りの床に寝転がっている。


 たまに聞こえてくる呻き声に引かれて、ふと壁際を見て、信じられない光景を目にした。


 見れば、さっきまで一緒に飲んでいたはずの肉体労働者の一人が磔にされ、身体中を切り刻まれて、血塗れで項垂れているではないか。


 李化龍は思わず、ひいっと悲鳴を上げた。


 他にも、自分と同じように身動きを封じられている男達が、全部で十人ぐらいいるだろうか。


 ここは作業場らしく、薄暗い室内の中央には木製の作業台が備え付けられ、作業台の上はもちろん、石造りの床や壁際、そこら中に、大小様々な肉切り包丁、鉄の斧や鉈が転がっていた。


 今も李化龍の目の前で鼻歌混じりに磔にした男を切り刻み、細切れにした肉をつまみ食いするように口に放り込み、楽しげに首を切り落としているのは、『美味燒臘飯店』の女老板、周だった。


 周は李化龍の短い悲鳴に気づき、足元に転がる彼を見やる。


「——この世に人肉ほどうまいものはない。酒を飲んだばかりの人間なら尚更だ」


 血塗れの顔で満足そうに言った。


 ——な、何なんだ、これは!? あんた、何なんだよ!!


「……ここは、〈人肉作坊じんにくさぼう〉なり」


 周は相変わらず綺麗で、楽しそうな顔をして言った。

 

「私が作る燒臘に釣られて店にやって来た者は、今度は閉店間際、私に睡眠薬が入った酒を勧められ、眠りに落ちる。その間に〈人肉作坊〉に運ばれ、手足を縛られ、壁に磔にされ、切り刻まれる」


 彼女はいったい、何が面白いのか、ふふふ、と微笑んだ。


「けれど、お前は痩せっぽっちでつまらない。酒もろくに飲めないみたいだし、食べたとしても大して旨くないだろう。さっさとここから立ち去れ」


 彼女はふいに真顔になり、興味がなさそうに言った。


「但し、ここで見た事、聞いた事、誰にも話しちゃいけないよ。話したら最後、お前の命はないからね?」


 と、彼女は持っていた肉切り包丁で、本当に李化龍の戒めを解いた。


 それからどれぐらい経っただろうか。


 李化龍は九龍城砦の外れに恐る恐る行ってみたが、『美味燒臘飯店』は影も形もなかった。


 まるで最初から何もなかったように、ただビルの壁面が広がっているばかりだった。


 脳裏には、周の満面の笑みが焼き付いて離れない。


 緑の上着を着て紅い裾をつけた、綺麗な顔立ちをした女の微笑みが。


 李化龍はまた毎日、上半身は裸、下は短パン姿で、九龍城砦の一画にある、小さな饅頭工場で、黙々と働いていた。


 特に、同僚と話す事もない。


 だが、李化龍は、今夜仕事が終わったら、同僚に、うまい燒臘飯店の話をしてみようと思った。

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