第27話 獅子身中の悪魔

 雫石家から徒歩で十分くらいの場所に、広場と運動施設を備えた公園がある。園内にはケヤキやイチョウが植えられ、あと二~三週間もすれば、淡黄に染まった葉が舞い落ちる光景が見られる。

 伊与は、ベンチに腰掛けて足元の芝生をじっと眺めていた。


『こんな所に一人でおるなんて、襲ってくれと言ってるようなもんだぞ』


 いつの間にか、隣にシュヴァイツァーが座っていた。伊与の方には顔を向けておらず、視線の先はずっと遠くに向けられている。


「……おまえは、どこにでも付いてくるな」

『言ったであろう。もはやおまえと私は運命共同体だ。たとえ地球の裏側まで行こうが、必ず見つけ出す』


 シュヴァイツァーは冗談のつもりかもしれないが、伊与は笑えなかった。口では相棒とか一心同体とか言っているが、やはり取り憑りついただけなのではないかと疑いすら持ってしまう。


『おまえにとって、私は厄介者か?』


 いつも勝ち気なシュヴァイツァーにしては、言い方に臆病さが織り交ぜられていた。


「……なあ、シュヴァ。雫石裕也って名前に聞き覚えがないか?」

『いや、知らんな。おまえと同じ姓だな。おまえの親類か?』

「父親だ。おまえを日本に持ち込んだのは、俺の父さんらしい」

『おお。ならば彼奴のことだな。私が誰の手にも渡らぬようにと船に乗せた……』


 伊与はぼんやりと地面を見ていた目を見開いた。


「!っ 父さんと一緒に乗船したのか? 父さんは生きているのか?」

『いいや。船に乗ったのは私だけだ。彼奴とはそのまま別れた。その後どうなったかは知らぬ』

「……父さんは、シュヴァのレクテューレだったのか?」

『違う。彼奴は魔術を齧った程度の力しか有しておらず、マーギアーですらなかった。単に私の存在を知り、薄汚れた書庫から持ち出しただけだ。彼奴がどうやって私を知ったのかはわからんが、あそこから遠ざけたのは良い判断だったぞ。私の力を欲している者が何人もいたからな。悪魔も醜いが、私欲に囚われた人間も醜いものよ』


 父さんが遠ざけた……。シュヴァの力を欲する人間……。


「七宮さんが言っていた。おまえはこの世に存在しないはずのグリモワールだって。誰がおまえを製作したんだ? おまえの目的はなんだ? なんで俺をレクテューレに選んだ? 俺は魔術を齧ったどころかなにも知らなかったんだぞ」 

『質問が多いのう。彼奴がおまえの父親というのなら、奴の執念が私とおまえを結びつけたのではないか? おまえを見つけた時、なんとなく引っ張られる感覚があった』

「父さんの執念……」


 弱々しく呟きながら、伊与が考えていたのは第三者の作為だった。熱してどろどろに溶かした鉄を型に流し込んで物を形作るみたく、運命を定まった形に固めようとしている者がいる気がしてならない。悪魔や天使がいるなら神も実在していて、自分はそいつの掌で転がされているのじゃないだろうか。


『伊与よ。おまえが独りでいたがるのは、大切な人や愛する人を作って、それが破壊された時に耐えられないからではないか? 失うくらいなら初めから人との関わりなど持たない方が良い。そう考えているからではないのか?』

「なんだよ。いきなり」


 力なく反発してみたが、シュヴァイツァーの言葉は伊与の心の中心に刺さった。ぼんやりとだが、常に自分に付きまとっていた不安の正体を見た気がした。


「……そう、かもしれない。俺の父親は、俺が幼い時になにも言わずにいなくなってさ、結構ショックがでかかったんだ。ひょっとしたら、それが心にずっと引っ掛かっていたのかも」

『なくすのを恐れて、なにも手に入れないか。寂しい考え方だ』

「……父さんは、シュヴァが誰の手にも渡らないようにしたらしいが、その理由はなんだ? おまえには、なにか特別なものがあるってことか?」

「彼女の力が強力過ぎるからよ」


 栞がそばに立っていた。いくつもの疑問をシュヴァイツァーにぶつけていたので、気が付かなかった。彼女の手には缶コーヒーが握られており、一本を伊与に差し出した。


「この娘の力は驚異的なのよ。その存在を知った者にとっては、その力を我が物にするか消してしまわなければならない二択しかないほどにね」

「…………」


 伊与は差し出された缶コーヒーを受け取った。じんわりとした温かさが掌から伝わる。


「だからこそ、あなたが選ばれた。グリモワールの悪魔を使役できる実力を持ちながら、決して自分の欲望のために悪用しない、純粋で善良な心の持ち主であるあなたが。あなたのお父様の執念というのも、あながち的外れじゃないかも」

「純粋で善良……」


 今まで自分のことをそんなふうに定義づけたことはない。ただ、複雑な人づきあいが煩わしく、野心のために神経を削ってまで争うのはくだらないと考えて生きてきただけだ。


「……でも、それなら栞だって、ビブリオテークのレクテューレだって」

「ビブリオテークに属していないことが重要なのよ。シュヴァのグリモワールを製作した人は、ひとつの目的のために彼女をグリモワールに棲まわせたんだわ。そうなんでしょ?」


 栞は、後半は伊与にではなくシュヴァイツァーに聞かせるように喋った。挑むような眼でシュヴァイツァーを睨みつける。


『赤嶺栞。最初から油断のならない女だと思っておったが、こうも真正面から詰問するとは。それは蛮勇というものだぞ』


 シュヴァイツァーの声に凄みが織り交ぜられる。ビリビリと空気を振動させる威圧感は、栞のみならず伊与にまで極度の緊張を強いた。


『私の目的は、世界中に散らばっているグリモワールの悪魔を狩ることよ。私はそのためにグリモワールの住人となった。だが、必要と判断すればビブリオテークに保管されているグリモワールの悪魔どもも滅してくれるぞ』


 ズオッとリュストゥングが姿を現した。シュヴァイツァーのの凄みに圧されて、栞が無意識にグリモワールを開いてしまったらしい。

 リュストゥングは栞の傍らに立ち、シュテルネンリヒトを構える。一気に緊迫が高まり、二人の間の空間が破裂しそうになった。


「やめろッ! シュヴァッ」

「やめなさいっ! リュストゥングッ」


 伊与と栞が同時に制する命令を下した。こんな時に仲間割れなんかされたらたまったものではない。


『ふん。安っぽい挑発に乗っかりおって。そんなことで、いざという時に栞を守れるのか?』

『………………』


 リュストゥングは黙してグリモワールに戻った。余計な問答は時間の無駄と考えたのだろう。彼が立っていた場所に、一枚の落ち葉が舞いながら着地した。


「栞、さっきは……」


 伊与は感情に任せて暴言を吐いたことを謝ろうとした。だが、伊与は間違っていないと言わんばかりに、栞は言葉を被せてきた。


「伊与。あなたの言った通りよ。ビブリオテークの保護なんて無意味だったんだ」

「栞?」

「どんな組織だろうと、規模が大きくなれば一枚岩ではなくなる。どれだけ正当な理由を掲げようと、獅子身中の虫を飼うことになるんだよ。伊与のお父様はこういう事態を予測して、その娘を誰の手にも渡らないようにしたんだ」

「なんの話? なにを言ってるんだ?」

「敵はビブリオテークの中にいる」


 ダーツの的のど真ん中を穿つような言葉に、伊与は思わず腰を浮かせた。


「本当か?」

「ええ。敵は悪魔に取り憑かれたのではなく、正式な儀式を経て契約を交わしたレクテューレだよ。すなわち、ビブリオテークの構成員よ」

「それは確かなのか?」

「ほぼ間違いない」

「……誰かは特定できないのか?」

「無理ね。誰にどのグリモワールが宛てがわれているかは互いに秘密にしている。あの不気味な悪魔を使役しているのが誰なのかはわからない」

「七宮さんに訊けば……。あの人はビブリオテークのトップなんだから知ってるだろ」

「それはできない……」

「なんでっ? 敵の正体がわかれば、じいちゃんの仇を……」

「………………」


 栞は答えなかったが、彼女の苦渋に満ちた表情で、伊与はその心情を悟った。

 栞は、七宮さえも容疑者の範疇に入れているのだ。慕っているであろう七宮でさえ信用できないのなら、ビブリオテークという組織そのものが敵になる可能性だってある。

 その考えに、伊与の血の気が引いた。

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