第26話 残された悲憤

 だが次の瞬間、栞は驚異的な光景を目撃した。黒い球体が伊与に触れる直前、細切れにされて消滅したのだ。

 いつの間に駆け付けたのか、シュヴァイツァーが伊与を背にして立っていた。


「シュヴァッ!」

『まったく、世話の焼ける相棒だ』

「母さんはどうした?」

『おまえの母なら大丈夫だ。有象無象どもには手を出せないよう、結界を張っておいた。それより……』


 シュヴァイツァーは名も知れぬ敵を睨んだ。

 二人の間に引き千切れんばかりの、眼力の刺し合いが展開される。間に立ったら穿たれそうなほど鋭い。

 数秒間、睨み合いが続いた。まるで武術の達人が間合いを窺っているようだ。ただ、特殊な能力を持つ悪魔同士であるため、間合いの広さは人間とは比較にならない。

 母と妹を傷つけられ、祖父を殺された伊与の怒りが、シュヴァイツァーに攻撃的な闘志を漲らせた。

 シュヴァイツァーがピクリと動いた。

 仕掛けるのか?

 一触即発の状況に、伊与の神経も研ぎ澄まされた。

 敵も動いた。だが、攻撃はしてこないでシュヴァイツァーと睨み合ったまま後退した。


「待てっ!?」


 伊与は敵の意外な行動に戸惑ったが、家族を襲われた恨みが決断を鋭くしていた。すかさず追撃へと突き動かした。


「やめなさいっ!」


 駆け出そうとする伊与を、栞の一喝が制止させた。


「なぜだ!? あいつは俺の家族を……」

「追っても無駄よ。追いつけないわ。それに、敵の能力がわからないうちは無闇に仕掛けるのは危険よ」

「でもっ……。あれはじいちゃんと健の仇だ」

「……妹さんは無事よ。車の中で気を失ってるけど」


 忘れていたわけでないだろうが、伊与は驚いたように目を見開かせ、慌てて車に駆け寄った。


「ふう……」


 いきなりの健との別れと戦闘に精神を消耗した栞だったが、落ち込んだり無気力になることは状況が許さなかった。

 あの敵は、自分の情報が漏洩するのを恐れた。つまり、調べれば簡単に正体にたどり着ける立場にいる者。取り憑かれたのではない。やはり、正式なレクテューレだ。

 敵はビブリオテークの中にいる?


「まさか……。そんな……」


 推し進めた結論に栞は慄いた。全身に蜘蛛が這いまわるようなおぞましさが駆け巡り、脳が必死に抵抗して、それ以上の思考を進めようとしない。

 栞は、敵が消えた場所を見上げた。

 空には蒼い光を放つ月が、クレーターまで見えそうなほどはっきりと浮かんでいた。



 伊与が遙を救出している間に、栞はグリモワールを回収しビブリオテークに連絡を入れた。

 敵は組織の中にいる。その推測により少し迷ったが、伊与の祖父を放置しておくわけにはいかない。いつもの処理班にではなく、七宮に直に連絡した。


「……わかりました。では後ほど」


 電話を切り、伊与に話し掛けた。


「七宮さんがすぐにでも来てくれる。今後のことを……」


 だが、遙をベッドに運んだ伊与は、栞の声を無視して青ざめた表情で部屋を出ていった。


「伊与?」


 伊与が向かったのは、扉が閉ざされた部屋だった。

 栞は事情を知らなかったが、この家の中では異彩を放っているとすぐに感じ取った。


「魔術の残り香?」


 伊与は扉を睨みながら、シュヴァイツァーに命じた。


「シュヴァ。このドアを斬れ」


 シュヴァイツァーが顕現し、一瞬で扉を両断した。室内の空気が廊下に漏れ出る。

 何年も使われていないようだが、掃除は頻繁に行われているらしい。漂ってきたのは淀んだ空気ではなかった。

 伊与は電灯を点けると、中に踏み入った。これまで一度も入ったことのない、雫石家の禁断の間だ。

 室内には、見慣れない道具が散見され、本棚を埋め尽くした書物は読めない文字の物ばかりだ。勘は当たった。予想はしていだが、実際に目の当たりにすると、やはり胸を圧迫される感覚があった。


「……伊与のお父さんは、魔術の研究をしていたの? でも、さっきは魔術士の家系じゃないって」

「……そうだよ。じいちゃんも母さんも、遙だって魔術になんか関係のない普通の人さ。でも、父さんは違った。じいちゃんと父さんには確執があったみたいだけれど、きっと魔術に関係することだ」

「伊与のお父さんって、もう亡くなっていたのよね?」

「ああ。母さんは父さんが死んだ後も定期的に部屋の掃除をしていた。父さんが魔術に関わっているのを知ってたんだ。知ってて、俺たちには教えなかったんだよ」

「………………」

「これが、俺がレクテューレに選ばれた理由か。シュヴァは無意識なのかもしれないが、俺に父さんと同じ匂いを嗅ぎ取ったんだ。シュヴァのグリモワールを日本に持ち込んだのは父さんだ」


 机の上に置かれている写真立てに気づいた。手に取って眺める。

 写真の場所は思い出せない。どこかの公園かテーマパークだろうか。奏と伊与、そして、もう朧気にしか思い出せない父親が写っていた。


「父さん……。あんた、なにをしたんだ?」


 写真の中で不器用に微笑む父に向かって、伊与は問い掛けた。



 煌々とした月明かりの下で、三影は空を睨んでいた。


「まさか、失敗するとは……」


 赤嶺栞の周辺を探っていたら、雫石伊与という少年に行き着いた。赤嶺栞が今までのグリモワール探索の任から解かれたのは彼が原因だとわかり、さらに調べてみると、彼もまたレクテューレだと判明した。

 しかも、ただのレクテューレではない。

 立場を利用して、ビブリオテークのデータベースを検索してみた。その結果は驚くべきものだった。雫石伊与のデータなど微塵も記録されていなかった。つまり、自分や赤嶺栞とは違って、正式な試験を通過してレクテューレになったのではない。それにも関わらず、取り憑かれてはおらず主は人間である雫石伊与の方だ。


「そんなことがあり得るのか?」


 決して解けない難問を出された数学者のように、焦燥と苛つく心が神経を蝕んだ。

 それにしても……。

 ヴァルムフリッシュが雫石伊与のグリモワールに拘った理由がわかった。ヴァルムフリッシュの心の乱れが伝わってきたので、ただの悪魔ではないと予想はしていたが、あれほど強力な力を有しているとは……。

 手駒を三人も失ったのは痛かった。グリモワールの解放を目論む我々にとって、あれの存在は脅威となる。

 彼の目的は世界に悪魔を蔓延らせることではない。世の中に魔術を認知させ、その力で人々の生活を豊かにすることだ。それには、ビブリオテークが独占しているグリモワールを解き放ち、すべての魔術士に公平に分け与える必要がある。中には私欲に目が眩んで悪用する者が出てくるだろうが、そんな愚物は我がスクラーヴェで成敗すれば良い。力は均等に分配されてこそ、バランスが保たれる。三影は自分の行動が正義だと信じて疑わなかった。


「……排除しなければ。我が目的に立ち塞がる者は、すべて消滅させてしまわねば」


 三影が独りごちた不穏な言葉は、夜空に溶け込んだ。 空はどんな荒んだ心も汚れた言葉も優しく包み込む。大いなる抱擁に気づかないまま、三影は燃える野望に自らの胸を焦がした。



 雫石家の前に、ビブリオテークの特殊車両が数台停まっていた。物々しい雰囲気にも関わらず、近所から覗き見る者はいないのはリュストゥングが結界を張っているせいだ。

 それまで所員に指示を出していた七宮が、伊与に近づいてきた。


「お祖父様は残念だった。ご遺体は早めにお返しするよう急がせよう。事件になって、世間の注目を集めることにはならないから、安心してほしい」

「安心だと?」


 伊与は険しい表情で七宮に詰め寄った。


「あんたは、安全は保証すると言った。その結果がこれだ。あんた、嘘を言ったのか」

「私はきみの安全を保障すると言ったのだ。そのために赤嶺君に護衛を命じた。まさか、ご家族が襲われるとは……」

「詭弁だっ。いい年をした大人が言い訳をするなっ」

「伊与。そんな言い方……」


 栞が慌てて間に入ろうとしたが、七宮は無言でそれを制した。


「君にどう罵られようが、弁解できない。だが、わかってほしい。グリモワールを管理しなければ、悪魔を世の中に蔓延らせることになる。そうなれば世界は……」

「そんなこと関係ないっ!」


 伊与は喉が裂けんばかりに声を張り上げた。これほど激しく他人に噛みついたのは生まれて初めてだった。


「じいちゃんが死んだっ。殺されたんだっ。なにもかも、こんなわけのわからない本に関わったせいだっ!」


 伊与は、シュヴァイツァーのグリモワールを地面に叩きつけた。子供みたいに喚いた。言いながら、八つ当たりの罵詈雑言だと気づいた。七宮や栞、ビブリオテークは後から関わってきたに過ぎない。グリモワールという厄介払いをしようと頼んだが、受け入れられなかったことへの逆恨みだ。それはわかっていた。しかし、噴出した感情は簡単には治まらなかった。


「……母さんと遙は?」

「彼女たちは、我々が管理している医療機関で保護する。マーギアーも常駐している安全な場所だ」

「完璧な警護で固めてくれ。これ以上、俺の家族になにか起きたら、あんたらを許さない」


 言い捨てて、伊与はふらふらと歩きだした。心を吐き出して抜け殻のように疲弊しきっている後ろ姿を見て、栞の感情が乱れた。


「待って。どこに行くの」

「………………」

「伊与っ」

「……どういった経緯で父さんが魔術と関わりを持つようになったのかはわからないけど、じいちゃんと母さんはそのことを知ってたんだ。俺たちになにも教えなかったのは、こういった危険に巻き込まれるのを危惧していたからに違いない。黙っていることで俺たちを守っていたんだ。それなのに、俺が災いを運んできてしまった。俺が片を付ける」 

「どうやって? あなた一人じゃ……」

「俺がやるんだ」


 あてなどないであろうに、伊与は栞からゆっくりと離れていった。

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