第25話 漆黒の敵

「シュヴァッ! おまえっ!?」


 掴みかからん勢いで迫る伊与を、シュヴァイツァーは窘めた。


『慌てるな。私が斬ったのは小賢しい悪魔だけだ』

「?」

『我がシュテルプリヒを、そこいらのナマクラと一緒にするな』


 奏の体から分離するように、一匹の悪魔が浮き出てきた。全身に包帯を巻いたミイラを想像させる外見だ。

 悪魔の全体が出てくると、奏はその場に崩れ落ちた。


「母さんっ!」


 悪魔は肩から脇腹へと一直線に鮮血を吹き出した。そのままズルリと真っ二つになるのではないかと思えるくらい、激しい血の量だ。

 栞は戦慄した。

 私が……いえ、リュストゥングが止める暇すら与えないほどの驚異的な速さ。しかも、取り憑かれた人間は無傷に悪魔だけを斬った。こんなことができるなんて? もし、こんな怪物が敵に回ったら……。


「ぐわああああーっ⁉」


 外から凄まじい悲鳴が聞こえてきた。


「!」

「表よっ!」


 栞は窓を開けると、家の前の道を見渡した。十メートルほど離れた場所に一台のワゴン車が停まっていた。ここに来る時にはなかったはずだ。


「あの車よっ!」


 栞は窓枠に足を掛けると、躊躇もせずに飛び降りた。


「おいっ!」


 伊与は驚いたが、奏の介抱をしなければならない。追い掛けられなかった。


「救急車を……」


 スマートフォンを取り出そうとしたが、シュヴァイツァーが止めた。


『大丈夫だ。出血しているがたいした傷ではない。じき気がつく』


 伊与からの反応がなかった。小刻みに震えて俯いているだけだ。


『伊与?』


 シュヴァは、母親が無事だったとわかり極度の緊張から脱した反作用かと思った。だが、そうではなかった。

 伊与の顔は、怒りで青ざめていた。


「……こういうのが一番許せない。俺に直に仕掛けなくて、周囲の人たちを巻き込むなんて、ましてや家族を人質にしやがって……」


 シュヴァに、伊与の感情がダイレクトに流れ込んできた。契約を結んだ関係で、伊与の怒りや憎悪がとてつもなく深いとわかる。


「シュヴァ、母さんを頼む。また敵が来たら容赦なく叩き斬れ」


 伊与はそう言い残し、リビングから出ていこうとする。


『おい、待てっ。おまえが行ったところで……』


 しかし、伊与はシュヴァの声など聞こえていないように階段を駆け下りていった。

 たちまち、室内に静寂が訪れた。


『まったく……。案外、直情的なところがあるな。我がレクテューレは。それにしても……』


 シュヴァは秋孝の亡骸の前に屈んだ。「なにが起こった!」と訴え掛けるように見開かれた目をそっと閉じる。


『また、私が災いの火種になってしまったのか……。本当に私がグリモワールの住人となって良かったのか? アーシェよ……』


 そう呟くシュヴァイツァーの声は、泣き声のように切なかった。



 リュストゥングの助けを借りて着地した栞は、ピタリとワゴン車を指差した。


「タイヤよっ! 撃ち抜けっ!」


 リュストゥングのランスが栞の指先と重なった。タイヤを鳴らす急発進で、パニックになっているのが一目瞭然だった。リュストゥングから放たれた光の槍は、正確にタイヤを撃ち抜いた。


「わああああっ!」


 傾きコントロール不能となったワゴン車が、アスファルトを削りながら電柱に激突し立ち往生した。


「リュストゥングッ!」


 近所から何事かと顔を出されたり、警察に通報されてはまずい。栞はリュストゥングに命じて結界を張らせた。無意識に人を遠ざける忌避感の結界だ。


「これで人目を避けられる。さて……」


 リュストゥングは拳で窓を破り、強引にドアを開けた。栞が中を覗くと、後部座席に気を失った少女が横たわっていた。


「この娘が、遙ちゃんね」


 素早く観察し、ケガがないのを確認した。


「うっう……」


 運転席の男が呻いた。

 身構えるまでもなかった。事故で受けたダメージのショックでハンドルに額を乗せて俯いている。助手席には血まみれの男が沈み込んでいた。既に死んでいる。シュヴァイツァーに一刀両断された悪魔のレクテューレに違いない。


「おい」


 栞が声を掛けた。優しくない、攻撃性が孕んだ声だ。

 男はうずくまったままだ。


「無視してんじゃないっ! こっちを向きなさいっ!」


 栞の怒声に背中を大きく跳ねさせた男は、ゆっくりと振り向いた。抵抗する意志がないアピールなのか、両手を遠慮がちに上げながらだ。


「な、なんてこと……しやがる」


 男は目を潤ませ、怯えきっていた。責める台詞も、残された意地によるものではなく、単に言葉を知らないだけだ。

 栞は確信した。

 この男はマーギアーではない。魔術士の家系であることは間違いないが、かなり血筋が薄まった家だ。もしかすると、もう魔術とは一切関わりのない生活を送っており、本人さえも魔術士の家系であるとは知らない可能性がある。

 正式な契約を交わしたのではなく、悪魔に取り憑かれてレクテューレになったケースだ。

 人質を取るとは、すなわち交渉の駒を得ることだ。それは人間の発想だ。悪魔に取り憑かれた者が、交渉の手段を講じるとは思えない。


「あんたは下っ端に過ぎない。人間が主導権を握っているレクテューレが背後にいるはず。誰なの? 名前を言いなさい」


 下っ端と言われ腹を立てたのが伝わってきた。しかし、同時に図星を突かれたことで言い返す気も失せたようだ。


「し、知らない……。俺たちはいつも悪魔同士で連絡を取り合っていたんだ」

「嘘言わないで。仮にそうだとしても、悪魔の知り得た情報はレクテューレに流れ込んでくるはず」

「ほ、本当だ。立場を知られたら、そいつにとっても悪魔たちにとっても都合が悪いらしく、故意に知らされていなかった」


 故意に情報を遮断したり、偽りの報告を信じ込ませる。悪魔が主導権を握る契約なら、たしかに可能だ。契約とは名ばかりで、実際は悪魔の傀儡に過ぎないのだから。


「名前じゃなくてもいい。そいつの仕事や年齢、男か女か。なにかないの?」

「そんなこと言われたってよぉ……」


 リュストゥングがランスを向ける。栞の気迫に反応しての行動だ。

 栞の気に当てられたのか、男から自信なさげな声が絞り出された。


「ただ、そいつが使役している悪魔の名は、聞いたことがある……」

「なんですって?」

「一度聞いただけで、虚覚えだけどな」

「なんて名なの? 言いなさい」

「言う代わりに、身の安全は保証してくれよ。なにしろ、凄まじい力を持つ奴で……」

「いいからっ! 早く言いなさいっ!」

「怒鳴るなよぉ……。たしか、ヴァ……」


 男が悪魔の名を口から出そうとした瞬間、彼の頭部がバコッと崩れた。


「なっ!?」


 リュストゥングが栞を抱えて、一歩後退った。そのままランスを構えて戦闘態勢に入る。


「私より、遙ちゃんをっ」


 栞は指示を出しつつ周囲を警戒した。今のは、敵の能力か? 粉砕されたのではない。崩れたのだ。どうすれば、あんなふうになるのだ?


「栞っ!」


 伊与が血相を変えて駆け寄ってくる。傾いている車体を見て、最悪のケースを想像しているのだろう。妹の無事を伝えようとした時、視界の上方、民家の屋根に不気味な影が蠢くのを捉えた。


「リュストゥングッ!」


 すかさず、栞は攻撃を命じた。

 リュストゥングのランス『シュテルネンリヒト』が強力な一撃を放った。眩い光は闇夜を貫き、敵を噛み砕かんとする。


「健の仇っ! 死をもって償わせてやるっ!」


 栞は勝利を確信した。リュストゥングの閃光は、何人たりとも逃れられない必殺の一撃だ。だが、光の槍は敵を捉えることなく、素通りして彼方へと消えていった。


「あっ?」


 栞には、目の前で起こったことがにわかに信じられなかった。

 リュストゥングが、動いていない標的を外すなんてこれまでなかった。当たる瞬間、光の軌道が歪んだように見えたのは気のせいか? もしかしたら、なんらかの能力で外されたのか? いったい?

 栞が疑問に囚われている隙を突かれ、敵が攻撃を仕掛けてきた。ただし、栞にではなく伊与に対してだ。


「伊与っ! 気をつけてっ!」

「なにっ!?」


 伊与に向かって黒い靄の塊が接近していた。まるで、炭を圧縮してさらに濃くしたような漆黒の球体だった。


「いけないっ。あれに触れたらっ!?」


 リュストゥングに命じて撃墜しようにも、この角度では伊与までシュテルネンリヒトの射程内に入ってしまっている。


「伊与ぅっ!」


 栞の脳裏に瀬音健の死に顔が浮かんだ。目の前でまた人が死ぬ? 初めて経験する恐ろしさに頭が真っ白になった。

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