第24話 卑しの罠

 暗闇に浮かんだ異形の影に伊与は身構えた。そのおぞましい姿が理屈抜きで敵だと思わせたからだ。しかし、強烈な外見に見覚えがある。それに、襲ってくる様子はなく動きが弱々しかった。


「健っ!」


 先に駆け寄ったのは栞の方だった。彼女の一声で、あれが瀬音健のスクラーヴェだと思い出した。


『し、お、り……さん』


 ベデヒティヒから発せられた口調は健のものだった。スクラーヴェを通して彼が喋っているのだ。


「あなた、突入したの? 待機してなさいって指示したでしょ?」

『一匹……、倒しましたよ』

「健……」

『敵は一人じゃ……ありません。徒党を組んでいます。油断しない……で』

「わかった。わかったから、もう喋らないで。あなた今どこ? 伊与の家?」

『……僕のスクラーヴェが……こいつで良かった。あなたの顔がはっきり見える……』

「なに言ってるのっ! しっかりしなさいっ!」

『栞さん。あなたは僕にとって光だった。暗闇を歩くだけだった僕の人生に射した光だったんです。どれだけ……眩くて嬉しかったか……。こいつのこと、よろしくお願いします……。今まで……あ……』


 ベデヒティヒが言えたのはそこまでだった。

 霧が晴れるようにベデヒティヒの全身が徐々に薄くなっていった。


「健っ!」


 栞の悲痛な叫びはベデヒティヒをすり抜けた。

 色彩をなくしたベデヒティヒはついには完全に消え、そこには一冊のグリモワールだけが残された。

 伊与は胸が締め付けられたが、なにもできない。スクラーヴェが消えゆく様子を、ただ見ているしかなかった。


「 くっ!」


 栞はグリモワールを拾うと、雫石家に向かって駆け出した。伊与も慌てて後に続いた。伊与は自分が俊足とは思っていないが、鈍足とも思ったこともない。それでも、栞との差はなかなか縮まらなかった。少女とは思えない脚力だ。

 常に冷静であろうと思っている栞だが、この時ばかりは思考が吹っ飛んだ。護衛するべき雫石伊与を置き去りにし、無我夢中で脚を動かした。

 両親が亡くなり、天涯孤独となった栞にとっては、健は弟のような存在だった。危なげで手を貸してやらなければならないが、それでも守ってあげたいと思える少年だった。

 もうすぐ雫石家だ。そう思える距離まで近づいた時、うつ伏せになって倒れている瀬音健が視界に入った。


「健っ!」


 栞は掌が傷つくのも意に介さず、健の前に跪いた。


「健っ! しっかりしなさいっ! 健ぅっ!」


 しかし、瀬音健は栞の揺さぶりに反応することなく、ただ地面に伏していた。

 その重苦しい様子が、遅れて来た伊与の目に飛び込んできた。栞と健の前で止まろうと減速しかけたが、シュヴァイツァーがそれを許さなかった。


『止まるな。そのまま駆け抜けろ』

「えっ? でもまだ……」

『あやつはもうダメだ。既にこと切れている』

「なんでそんなことがわかる? もしかしたら助かるかも……」

『私にはわかるのだ。早くしないと、おまえの家族も同じ運命をたどるぞ』

「うう、うっ」


 伊与は逡巡した。だが、それは刹那ほどのことで、再び空気を吸い込んで脚に力を注いだ。

 二人の横を通り過ぎる時、心の中で何度も詫びを入れて自宅目指して走り続けた。



 玄関の扉の鍵が掛かっていなかった。


「うっ?」


  伊与は思わず声を出した。生温かい風が通り過ぎたような気持ち悪い空気が充満している。


「母さんっ! 遙っ!」


 戦慄を伴って、伊与の叫びが屋内を駆け巡る。


「じいちゃんっ!」


 反応がなかった。家の中は静かだった。しかも、体が強ばる嫌な静けさだ。伊与の脳裏に、財密の家で経験した恐怖が甦った。

 まさか……。まさか……。

 伊与は靴も脱がずに階段を駆け上がると、胸がムカつく匂いが強くなった。不快に思う間もなく、床に倒れている祖父を発見した。


「じいちゃんっ!」


 駆け寄り秋孝の体を起こした。痩せ細った身体は、意外なほど重たかった。指先にすら生命力が送り込まれていないのを、嫌でも実感した。


「じいちゃん、じいちゃんっ!」


 込み上げてくるものを必死に抑え、祖父を呼び続けた。しかし、秋孝は濁った眼差しで天井を見つめるだけで、伊与の呼び掛けに応じることはなかった。


「こんな……。こんなことって」

「い、よ……」


 奏の声に、伊与は振り返った。

 額が切れているのか、顔面が血で覆われている。


「母さんっ!」


 秋孝を寝かせて奏に駆け寄ろうとした伊与を、栞が割り込んで止めた。健のことで打ちひしがれているのに、自分の役割を果たすべく追い掛けてきたのだ。普段でも鋭角的な視線を放っているが、この時の彼女の視線は触れただけで射貫かれそうだった。

 凄まじい精神力で冷静さを保っている栞だが、逆に上擦っている伊与には栞の心情を慮るだけの余裕がなかった。


「なんだよっ!?」

「なにか……、変」


 奏の助けを求める目がぐるりと回り、充血した白目になった。


「ううっ!?」


 奏は体を伸ばしたままの姿勢で一気に起き上がった。女性、いや、人間には到底不可能な動きだ。

 白目で伊与と栞を凝視し、口元を歪めて歯を見せた。普段の温厚な奏からは想像もつかない凄みのある笑いだ。


「母さん?」

「くっ。惜しい……。アホづら晒して近づいてくれば、喉を掻っ切ってやったものを……」


 死角になっていて見えなかったが、奏の手には刃物が握られていた。いつも料理をする時に使っている洋包丁だ。

 伊与は最悪の想像をした。

 まさか、母さんがじいちゃんを……。

 改めて秋孝の亡骸を見たが、出血はしていない。刃物で刺されたのではない。短く息を吐いたのも束の間、なんの慰めにもならないと目頭が熱くなった。


「雫石伊与。おまえの使役するスクラーヴェは相当厄介だ。だから、こんな手を使わせてもらったよ」

「お……お……おまえっ、母さんになにをしたっ!」

「間違っているぞ。雫石伊与。今の問いは間違っている。おまえが言うべき台詞は、妹はどこだ? だ」

「なんだとっ!?」


 衝撃的な展開に身を置き、パニックに陥っていた。真っ先に考えなければならないことを考えられなかった。

 悔しいことに、伊与は敵が言うべきだと喋った言葉をそのまま言った。


「遙はどうした? 遙をどこにやった!?」

「ん〜んんっ! 相手を思い通りに動かすのは、なんとも気分がいい」

「ふざけるなっ!」

「ふざけてなんかいないさ。次は君になにをしてもらおうかと真剣に考えている。こんなに真剣になったのはいつ以来かな」


 奏の歪んだ顔から、楽しそうな喋り方で挑発してくる。こいつは、正真正銘の悪魔だ。

 歯軋りする伊与の傍らで、栞は一つの懸念に囚われていた。陵辱と殺戮が生きがいの悪魔が、人質を取るなどとまどろっこしい真似はしない。つまり、悪魔の行動を制御できる正当なレクテューレが背後にいるということだ。

 奏は持っていた包丁を伊与の足元に放り投げた。突き刺さりこそしなかったが、尖った刃先がよく掃除されたフローリングを傷つけた。


「雫石伊与。それで自殺しろ」

「な?」

「おまえのグリモワールを奪取するのが目的だから、スクラーヴェを傷つけることはできない。だが、レクテューレであるおまえが死ねば、契約は解除されてグリモワールだけが残る。もっとも労せず効率的なやり方だろう? おまえが妹よりも自分の身を案じるなら、別の手を考えなくちゃならないがな」

「うっうっ……」


 怒りで視界が赤く染まる。あまりの悔しさで体が震える。

 こいつの言う通りにしても、遙が無事帰ってくる保証はない。第一、実行してしまったら、遙の安否を確認する術もない。

 奏の顔が、さらに醜く歪んだ。


「無抵抗のやつをいたぶるのは、すげー気持ちい……」


 勝利宣言とも言える台詞だったが、奏が、いや奏に乗り移っている悪魔が言い終わらないうちに、シュヴァイツァーの大鎌が弧を描いた。

 シュヴァイツァーが攻撃し終わってから伊与がその行動に気がついたくらい、瞬間的な速さだった。


『ごちゃごちゃと耳障りなやつだ。不愉快だぞ』

「ばっ!?」


 伊与は声にならない悲鳴を上げた。悪魔に取り憑かれているとはいえ、本体は紛うかたなき自分の母親なのだ。

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