第23話 月影

「おい? どうしたんだ? まさか俺の家でなにか起きてるのか?」


 電話の相手は瀬音健だった。緊迫した会話の内容から、非常事態が発生していることは容易に想像できた。しかも、それが自分の家で起こっているらしいので、伊与は冷静さを失った。


「落ち着いて。今、健があなたの家の前で待機している。急いで合流するよ」

「家の前で待機って……。それじゃなんの対処もできないじゃないか」

「落ち着きなさいって言ってるでしょ。いくらレクテューレでも、敵が悪魔である以上、迂闊に飛び込むことはできないの。それくらいわかりなさい」

「でも……」


 二人の会話が言い争いに発展しかけていると、いきなり伊与の腰から金色の魔法陣が発生した。魔法陣の光により、伊与自身が光を放っているように見える。


「うわっ!?」


 魔法陣が四散すると、シュヴァイツァーが姿を現した。その現象に栞は驚愕した。


「呼び出しもせずに、スクラーヴェが自分から顕現した? グリモワールも開かずに?」


 栞の驚きなど意にも介さないとばかりに、シュヴァイツァーは厳しい表情で伊与の家を睨んでいる。


「なんだ? どうした? シュヴァ」


 スクラーヴェがレクテューレに呼ばれもせずに現れる。それがあり得ない出来事であると知らない伊与は、シュヴァに早口で質問を浴びせた。


『なにかやばいぞ。用心しろ』

「え?」


 伊与の動揺とは逆に、栞は無言でグリモワールを開きリュストゥングを召喚した。


「やばいってなんだよ? やっぱり俺の家でなにか起きてるってのか?」

『いや、波がそれほど激しくない。ひょっとして、もう起きた後かも……』


 シュヴァイツァーが言い終わらないうちに、伊与は駆け出した。家には祖父と母と、もしかしたら妹もいるかもしれない。


『馬鹿者っ! 用心しろと言っただろうがっ!』


 シュヴァイツァーが影のように付いてくる。その手には、既に彼女の得物である

シュテルプリヒが握られていた。 


「あっ、待ちなさいっ」


 栞も急いで後を追った。



 健は雫石家の前に立った。不安を誘う匂いが濃厚になる。この様子だと、かなり凶悪な悪魔が入り込んでいる可能性がある。楽観できる状況ではない。心が萎えそうになる時、思い出すのは栞と出会った時のことだ。


「はじめまして。赤嶺栞よ。栞って呼んで。なんだか元気ないね」

「あの……、あなたも」

「栞よ」

「……栞さんも、両親に言われてビブリオテークで働いているんですか?」 

「私に親はいないよ」

「え?」

「グリモワールの悪魔と戦って、ね……」


 その一言だけで、栞の両親になにが起きたのか理解できた。


「復讐……ですか?」

「んー……。それもあるのかな。でも、誰かがやらなきゃならないことだから」


 彼女の行動原理には家の隆盛とか個人の損得とかではなく、もっと深く気高いものを感じた。あの時の彼女の翳りある目を見た時、健の中に目的が生まれた。栞を守るのは自分の役目だ。家の興隆なんてどうでもいい。自分の力は彼女を守るために使おう。

 あの時の誓いを思い出すと勇気が湧いてくる。両親を憎み友達もいない孤独な自分に、温かい感情を与えてくれた彼女の役に立ちたい。その誓いを思い出す度に。

 ホルスターからグリモワールを取り出し、スクラーヴェを呼び出した。健のスクラーヴェ『ベデヒティヒ』は、栞のリュストゥングと違って戦闘に特化したタイプではない。だが、秀でた能力を持っていた。


「行け……」


 健の呟きに反応して、爬虫類を人型にしたデザインの体がドロドロに溶けていく。とうとう全身が液状化すると、扉の隙間から中に入り込んだ。


「僕のベデヒティヒは、隠密行動に優れている。敵が気づくことなく、首を掻き斬ってやる」


 健はベデヒティヒを侵入させて、自分は神経を研ぎすませた。

 レクテューレとスクラーヴェは一心同体。互いの感情や考えを感じ取り合える。その点において、ベデヒティヒはその能力が頭一つ抜きん出ていた。ベデヒティヒが見た景色を、ほとんど正確にレクテューレの脳裏に反映させることができる。ここまで明瞭に投影できるスクラーヴェは極めて希有な存在だ。

 夕暮れ時にゆっくりと伸びる影のように、屋内を進んでいく。さっそく、ベデヒティヒが敵を一匹発見した。蝙蝠を連想させる姿をしている。液状化しているおかげで、どんな狭い空間にも潜り込める。健が言った通り、敵はベデヒティヒに気づけないでいる。

 どうやら敵はスクラーヴェだけを送り込んで、レクテューレは別の場所で待機しているようだ。悪魔の方に主導権がある契約ならば、レクテューレはずっと遠くにいるということも考えられる。正式な契約を経ずに関係を結んだレクテューレとスクラーヴェに強い繋がりなどない。自分のスクラーヴェが、今どこでなにをしているのかもわかっていないのではないだろうか。


「取り憑かれただけのふぬけが」


 ベデヒティヒが瞬間的に元の姿に戻った。敵が振り向く暇も与えず、鋭い爪を水平に走らせた。


『グゲッ!?』


 奇妙な声を上げ、蝙蝠に似た悪魔は卒倒した。残っている生命力をすべて使って、バタバタと全身をもがかせる。しかし、抵抗は長く続かない。徐々に力が抜けていき、動かなくなった。悪魔が霧のように消えるのと入れ替えに、一冊のグリモワールが床に落ちた。

 健はベデヒティヒを帰還させ、今度は自らが家に上がり込んだ。敵は排除したが、電灯の光がわざとらしいくらい静かだ。静か過ぎる。


「ひょっとしたら、もう……」


 伊与の顔が頭に浮かび、少しだけ胸に痛みを覚えた。

 二階に上がる前に、抜け目なくグリモワールを拾った。グリモワールの回収こそが、ビブリオテークに所属するレクテューレの最優先事項と叩き込まれているので、自然と体が動いた。このグリモワールの持ち主は今頃絶命しているだろうが、健に罪悪感はなかった。


「ん?」


 人の気配を感じた。再びベデヒティヒを召喚し、液状化して周囲を囲ませる。どんな衝撃も吸収する柔軟な盾だ。

 足音を殺して二階に向かうと、三人が居間に伏していた。聞いた話では、雫石家は伊与を含めた四人家族だ。祖父と母と妹。情報と一致する。

 健は最悪の事態を覚悟した。やはり、躊躇しないで素早く行動に移るべきだったのだ。後悔の念に頭が熱くなる。だが、母親と思われる女性が微かに動いたのを見て、思考は一気に引き戻された。


「生きてる!?」


 健はベデヒティヒの防御を張ったまま奏に駆け寄った。防御の一部を開き、奏を抱き起こした。


「う……」


 奏は小さく声を漏らし、胸を上下させた。やはり無事だ。気を失っていただけだ。なら、他の二人も……。

 光明が見え、健の心から重石が取れた。


「……ありがとう」


 奏の弱々しいがしっかりとした声が、さらに心を軽くした。


「礼なんていいです。それよりも、二人も無事なんですか?」


 遙の容態も確認しようと振り返った。


「いいや。礼は言わせてもらうぞ。防御を開いて入れてくれたのだからな」

「はっ!?」


 健は脇腹に熱さを感じた。それが経験したことのない激痛だと理解するのに、一瞬の間が空いた。


「な、に……?」


 健の脇腹には、ナイフが深々と突き刺さっていた。自分の体から突起物が生えたように見えて、気持ちの悪い違和感を覚えた。

 どこに隠し持っていたのか、奏が背後から突き刺したのだ。


「敵が一人と思い込んだのが最大のミスだ。雑魚を一匹倒して有頂天になってたんだよ。おまえは」

「……馬鹿な。制御されていない悪魔が徒党を組むなんて?」

「その知識の浅さも命取りだ。おまえはこの家に入り込んだ時点で負けが決定していたのだ。おまえのグリモワールは、俺たちが上手く利用してやるよ」

「う、うおおっ!」


 健の周りだけが、一瞬で濃霧に覆われた。沸騰した薬缶から勢いよく吐き出される湯気のように、凄まじい勢いで空間が白く濁る。


「うぬっ!?」


 熱された空気の直撃を受け、奏はたまらず顔を防御した。


「むうう……」


 再び目を開けた時には、健の姿は消えていた。床に広がった血溜まりは窓に向かって引きずられていた。目で追うと、窓が全開になっている。


「……まだこんなことができる体力、いや気力があったのか。未熟なガキだと油断していたのは俺の方だったか。だが、無駄だ。ナイフは確実に急所を突き刺した」


 窓から射し込む月明かりが、健の命運を暗示しているように陰った。

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