第22話 魔術師の家系

 リュックザイテに襲われた日から一週間が経過した。あれ以来穏やかな日々が流れているので、張り詰めた心の糸にもたわみが生じるほどの余裕が戻っている。

 学校の帰りに隆太の見舞いに行った。あと数日で退院できるとのことだ。

 栞はどこにでも付いてくるので、隆太に紹介する羽目になった。


「おい? どういうことだよ? なんでこんな美人がおまえと一緒にいるんだ?」


 彼の興奮振りは傷口が開かないか心配するほどだった。財満のことは言わないでおいた。ビブリオテークが隠密に処理したのなら、わざわざ隆太に事実を教える必要はない。余計なことを知ったら、彼にまで危害が及ぶ。伊与はその方が怖かった。

 入院生活がよほど退屈なのか、隆太のお喋りは止まらなかった。栞には迷惑ではないだろうかと何度か様子を窺ったが、そんなことはなさそうだった。隆太の話術が巧みなこともあったが、同世代の男子とお喋りに興じること自体を楽しんでいる感じだった。

 少し顔を見て帰ろうと思っていたが、瞬く間に数時間が過ぎ去っていた。


「楽しい友達ね」


 もう日も落ちて暗くなった帰路の途中、栞が何気なく言った。嫌味のない、ごく自然な発言だった。


「騒がしい奴だけど、なんとなく気が合ってね。……栞にも、そういった友達いるだろ?」


 それこそ、他意のない一言だったが、栞は微かに目を伏せた。


「……私は、物心ついた時からレクテューレになる訓練を受けて育った。なったらなったでグリモワールを探す日々……。友達なんて作る暇なかった」

「そんな……。なんだって、そんなにグリモワールの回収に拘るんだ?」

「マーギアーの家系に生まれた者の宿命よ。悪魔をのさばらせておくわけにはいかないでしょ」

「だからって、栞一人でなにもかも背負うことはないだろ。ビブリオテークには、他にもレクテューレはいるんだろ?」

「それはそうなんだけど……ね」


 珍しく歯切れの悪い栞に、伊与の心が動いた。妹の遙になにかしてやる時の気持ちに似ていた。


「よかったら、次の日曜にでも出掛けてみないか? どこかに遊びに行こうよ」


 栞は目をぱちくりさせて、口角を片方だけ上げた。


「あら? デートのお誘い? 意外と大胆なんだ」

「ち、違うよ。少しぐらい息抜きした方がいいと思って……」


 実際、デートなんて栞に言われるまで気付かなかった。一度意識しだすと、顔の火照りが止まらなくなる。

 伊与の自宅と、栞のマンションが近くなった。


「それにしても、伊与の家はごく普通ね」

「?」


 伊与には、栞の言ったことが理解できなかった。


「そりゃ……、お化け屋敷やびっくりハウスに住んでるわけじゃないから」

「そうじゃなくて、マーギアーを匂わせるものがなにもないって言ってるのよ。マーギアーの家なら、なにかしらそれを象徴するもの、例えば飾りや魔除けなんかがあるはずだけど」


 伊与は思わず苦笑した。


「そりゃそうだよ。うちはきみのところとは違って、マーギアーの家系なんかじゃないから」


 伊与の発言に、栞はピタリと止まった。


「なに?」

「家族に魔術に傾倒してる人は?」

「いないよ。みんなまとも……あ、いや。そういったものに興味持ってるのはいないな」

「それ……、おかしい」


 伊与は、再び栞の言うことがわからなくなった。羽音のせいで確実にいることはわかっているのに、姿を捉えられない蚊のような苛つきを覚える。


「おかしいって、なにが?」

「伊与の家が魔術と関わっていないって点よ。魔術となんの関係のない者が、グリモワールの悪魔を使役できるはずがない」

「え? なに? なんだって?」


 伊与の心臓が徐々に落ち着きをなくす。鼓動が速くなり、息苦しくなる。


「うちはみんな普通だよ。まさか、俺に隠れて夜中に怪しげな儀式でもやってるって言うのか? あり得ない。ずっと一緒に暮らしている家族……」


 伊与は、途中で言葉を切った。

 いる。家族だが、一緒に暮らしていない者が。幼い時の記憶に僅かに残っている存在が……。

 先程までの穏やかな空気は、あっという間に遠くに吹き飛ばされた。伊与の不安になっている神経をさらに逆なでするかのように、いきなりスマートフォンの着信音が響いた。聞き慣れないメロディだ。伊与のではない。栞のスマートフォンが呼び出されている。栞は鞄からスマートフォンを取り出し、タッチスクリーンを一瞥してから耳に押し当てた。



 ふいに食欲をそそる匂いが健の鼻を掠めていった。この匂いはカレーだ。匂いが漏れ出てきた家からは煌々とした明かりと子供の笑い声も溢れ出て、健にぶつかって散った。

 きっとご多分に漏れず、ここの子もカレーが好物なんだろうな……。

 健の胸には微笑ましさではなく羨む気持ちが広がった。暗い感情が全身に行き渡らないよう、慌てて心を引き締めた。

 健の少年時代は決して楽しいものではなかった。両親は家柄に異常なほどの拘りを持ち、健に過度な期待を寄せて、その教育も厳しいものだった。この場合、運が悪いと言うべきだろうか、健にはマーギアーとしての優れた才能があり、そのことが余計に健から子供らしい生活を奪った。

 友達と遊び、好きなアニメを見て、夕食には美味しいものを母に作ってもらい家族と談笑しながら食べる。幼い時にはほとんどの者が経験している楽しみを、健の記憶には欠片も刻まれなかった。

 若くしてレクテューレの試験に合格することで、両親の期待に応える形となった。両親は歓喜したが、健は自分の気持ちがどんどん冷えていくのを自覚していた。グリモワールを与えられ、レクテューレとして活動するべく様々な教育や研修など多忙な日々が続いたが、その頃には瀬音家興隆の志など塵一つほども残されていなかった。

 正式にレクテューレになった数日後、赤嶺栞という少女を紹介された。健は意外に思った。自分以外に、こんなに若いレクテューレがいるとは思っていなかったからだ。聞けば彼女は健よりも一つ年上だったが、活動を始めたのは十三歳の時からだという。彼女も血の滲むような努力をしたことは想像に難くなかったが、才能があると言われた自分にさえ持っていない資質を有しているのだと嘆称した。


「………………」


 栞についた日から、こんな感情は忘れていたのに……。最近、ふとしたことがきっかけとなり、不快な感情にスイッチが入る。負の感情は悪魔の好物だ。契約を交わしているから安全なのはわかっているが、付け入る隙を与えるようで心が乱れた時は上手く制御するのに必死になる。

 原因はわかっている。雫石伊与の登場だ。彼が現れたことにより、栞の興味がそちらに向けられているのが面白くないのだ。もちろん、興味の対象は彼の持つグリモワールであることは明白だが、心で感じることは頭で考えることみたく、はっきり割り切れない。

 彼女の視線が彼に向いていることに、子供のように嫉妬しているのだ。

 赤嶺栞。彼女のことを思う時は常に微熱が伴う。考えたこともないが、自分は彼女に恋しているのだろうか……?

 今、健はその栞の指示で雫石家に向かっていた。彼の家族に害が及ばないよう、護衛を勤めろということだ。先日、帰路の途中でグリモワールの悪魔に襲われたことは聞いている。そして、襲った者の目的が伊与の持つグリモワールであるとも。

 伊与のグリモワールは得体が知れずビブリオテークでは保管できないらしいが、それでも彼のような素人に預けておくことには賛成できなかった。そのことを栞に言ったが「あなたが口を挟むことじゃない」と跳ね除けられてしまった。栞が伊与を庇っているように聞こえて、それが余計に腹立たしかった。

 嫉妬の対象である雫石伊与の家族の護衛とは複雑な心境になってしまうが、私情を挟んで仕事を疎かにするわけにはいかない。


「うっ?」


 健は足を止めた。自分の内側から湧き出る感情とはまったく別の、胸をムカつかせる空気が流れてきた。


「これは、結界? 栞さんの言った通りだった。雫石の家族に危害が及ぶ可能性があると言っていたが、こんなに行動が素早いとは……」


 スマートフォンを取り出して、栞に連絡した。


『健? なにかあったの?』


 余計な会話は一切せず、単刀直入に訊いてくる。いつものことだが、彼女らしいと思う。


「今、雫石家の前です。連中、来てますね」

『……様子はわかる?』

「外から眺める限りは静かです。まだ事を起こす前ですね。対処します」

『待って。私が行くまで待機していなさい。十分と掛からないでそっちに行くから』


 いつもなら、了解と電話を切るところだが、栞の声の後ろに雫石伊与の声も拾った。焦りが滲んだ声だ。


「雫石と一緒なんですか?」

『余計なお喋りしてる場合じゃないでしょ。家の様子を見張ってなさい』


 栞は返事も待たずに電話を切った。

 先ほどまでの回想と相まって、健の中に消化しきれない気持ちが渦巻いた。

 彼女は僕を軽く見ているのか? まだレクテューレになりたての半人前だと。しかし、それは違う。レクテューレになる前に充分な修行は積んだ。レクテューレの試験に合格した時点で、一人前とみなされても良いはずだ。

 実践で成果を上げないと認めないつもりなのか?


「……やれるさ」


 健は静かな闘志を燃やし、一歩前へ踏み出した。

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