第21話 大鎌を持つ者
シュヴァイツァーの狙い通り、塀の影はなくなり犬の姿をした影だけが残った。悪魔に憑依されているせいか、普通の犬とは違い、猛獣を思わせるシルエットだ。
『影から出せば攻撃できるって? 無駄だぞ。無駄。こいつは文字通り幻影だ。おまえらは俺を捉えることはできない。逆にすぐに倒されるのさ。こんなふうにっ』
リュックザイテは疾風の如き速さで、まっすぐに伊与に向かってきた。
「俺かよっ!?」
とっさのことで体が反応してくれなかった。焦った気持ちだけが横っ飛びしてその場を離れた。
「伊与っ!」
栞が叫んだ。その声よりも早く、シュヴァイツァーが動き伊与の盾となった。
『うおおおおっ!』
シュヴァイツァーが拳を叩き込む。彼女の拳はたしかに影を捉えていた。しかし、打撃の雨など無視して、獰猛な牙をむき出しにした影が迫ってきた。
『うむっ!?』
魔犬の牙がシュヴァイツァーを襲った。彼女は紙一重で避けたが、上腕から血を吹き出した。同時に伊与の腕にも激痛が走った。スクラーヴェが傷つくと、契約者であるレクテューレにも影響が及ぶ。
『私の影を攻撃したか……』
『その通りだ。そっちの攻撃は効かなくとも、俺からは攻撃できる。だから、影を支配している時の俺は無敵なのだ』
「そんな……。それじゃ、万が一にも勝ち目がないじゃないか」
『だからそう言ってるだろっ。さっきの台詞をそのまま返すぜ。人の、いや、悪魔の言うことはちゃんと聞いとけ。マヌケッ』
伊与の弱気にリュックザイテの尊大な態度が覆い被さる。しかし、シュヴァイツァーがその重しを払いのけた。
『いいや。聞く必要はないな。おまえは既に敗北しているのだから』
『なんだと?』
リュックザイテの呟きは、本当に理解できない者が思わず発する疑問形だった。
『おまえの影を引きずり出した時点で、私の仕事は終わりだ。栞、くらわせてやれ』
『馬鹿かっ!? どんな攻撃も効かないと言っただろうがっ!』
「そう……?」
栞は人差し指を下に向け、冷めた目でリュックザイテを睨んだ。まるで従者に命令を下す女主人だ。
「放てっ! リュストゥングッ!」
栞の掛け声と共に、リュストゥングのランスからエネルギーの塊が一閃した。発射された光により、着弾点を中心に周囲の影が消失する。
すべての色彩が白に塗り替えられた。影など存在できないほどの圧倒的な光の渦だ。
『ぐわあああっ!?』
眩んでいた伊与が視界を取り戻すと、一匹の得体の知れないものが蠢いていた。
芋虫を毒々しくしたような体だが、サイズが人間の子供くらいあった。しかも顔は人に近い見た目なので、グロテスクさが際立った。
伊与は、胃の奥から込み上げるものを必死に抑えた。
『それがおまえの本体か。なんとも醜い姿をしているな』
『て、てめえ〜……。影を吹き飛ばすほどの閃光だとう?』
「ワンッ!」
喉の奥から絞り出すように、子犬が吠えた。リュックザイテに影を乗っ取られていた子犬だ。呪縛が解かれたことで、体の自由を取り戻したのだ。
忙しない動きでその場を行ったり来たりしたが、もう一度吠えると駆け出して遠ざかっていった。
『ぐぐぐ……』
遠ざかる子犬を、リュックザイテは悔しげに見ている。
「あんたを始末するのは決定として……」
栞がずいっと前に出た。
「あの方ってのがあんたらをまとめてるのよね? 人間への反抗なんて、一人二人で考えつくことじゃない。自分の利益を第一に考えるあんたらを従えさせるくらいだから、相当の力を持った悪魔のはず。それは誰? 名前を言いなさい」
『………………くっ』
緊迫した空気が濃厚になる中、四〜五歳の女の子が、不安げな足取りで現れた。伊与たちがいる場所とは家屋で阻まれていたため、こんなに間近になるまで接近に気づかなかった。
「ママ……。スコア。どこ行ったの?」
頼りない足取りと同じく、表情も声も不安でいっぱいだった。
視界に入ったのか、鋭敏な嗅覚が嗅ぎつけたのか、一度離れた子犬が駆け戻ってきた。
伊与の心臓が警鐘を鳴らした。
「スコアって、あの犬の名前か? あの犬の飼い主か? 母親とはぐれたのか? まだ幼く精神も単純だから、不穏な雰囲気を感じ取れずここまで近づけたのか?」
笑みでリュックザイテの口が耳まで裂けた。
『幸運は俺の方に流れていたようだなっ! この娘の影を乗っ取ってやるっ!』
壁の隙間に逃げ込むゴキブリを彷彿とさせる速さで、リュックザイテは女の子に突進した。
「きゃあああああっ⁉」
伊与たちが止める間もなく、リュックザイテが影に溶け込んで一体化した。
『はあ〜……』
少女が動けなくなった。驚愕の表情を凍りつかせたまま、時間が止まったようにぴくりともしない。少女から伸びた影が彼女から離れ、幼い姿が瞬く間に禍々しく変身していく。
『くけけっ。さっきのように閃光を放つか? この可愛い女の子を巻き込んでもいいってんなら、撃っても構わないぜ』
「こいつ……」
栞は歯軋りした。リュックザイテは、少女から付かず離れずの絶妙な位置を維持していた。リュックザイテが近づくと、少女も引っ張られる。あまりにも少女に近すぎて、リュストゥングの砲撃だと確実に少女を死に至らしめてしまう。
『おとなしくしょぼくれてろよっ。おまえ、さっき俺を始末するのは決定とかぬかしたな……。始末されるのはおまえだったなっ!』
一撃をくらった恨みからか、リュックザイテは栞めがけて牙を剥いた。
「やめろぉっ!」
伊与が叫んだ。ほぼ同時に、リュックザイテの体が真っ二つに分断された。
『うげえっ!?』
いつの間に手にしたのか、シュヴァイツァーは背の丈ほどもある大きな鎌を構えていた。圧倒的な存在感を放つ彼女の姿は、伊与には神々しくさえ映った。
『なるほど、わかったぞ。伊与。おまえが誰かを守りたいと強く願った時、私の力が解放されるのだな』
『……そんな。影さえも斬るなんて……』
『ふん。なんであろうが、この私に斬れないものなどない』
少女の影から這い出したリュックザイテを、今度は縦に分断した。豆腐を切るより容易くだ。
『ぎゃあああああああああっ!!』
凄まじい悲鳴が上がり、リュックザイテが四散した。宙に青白い光が浮かび、一冊のグリモワールが出現して地面に落ちた。
「す、凄い……」
『………………』
栞は唖然とし、伊与は恐れ戦き、リュストゥングは憮然とシュヴァイツァーを凝視した。平然としているのはシュヴァイツァー本人だけだ。
『自分が襲われている時より、弱き者を助ける時に力を発揮するか。おまえ、いい男だな』
にっと無邪気とも言える笑顔を見せるシュヴァイツァーに対して、伊与の鼓動は喧しいくらい高まっていた。
こいつ……。口だけではない。驚異的な力の持ち主だ。なんだって、こんなとんでもない奴が封印されているんだ?
『ん〜?』
シュヴァイツァーは、無邪気な笑顔そのままに開放された少女や子犬と戯れ始めた。その姿は、そこらへんの女子高生となんら変わらない。
唖然としていた伊与だったが、いつの間にか自分の手にも鎌が握られているのに気付いた。シュヴァイツァーが持っている物よりもずっと小型で、形状もハルバードに近い。
「これは……?」
『クラインも顕現できたか。それはレクテューレが自分の身を守るために現れる、スクラーヴェの得物の小型版といったところだ。私の得物がシュテルプリヒだから、それはシュテルプリヒ・クラインだ。形状がハルバードなのは、おまえが扱いやすいようにだろう』
シュヴァイツァーは淡々と説明しているが、これは明らかに殺傷を目的とした武器だ。平常時なら気持ちが高揚するかもしれないが、実際の戦いを目の当たりにした後では、そんな凶器を手にしているのは恐ろしかった。
『ところで伊与よ』
「なっ、なに?」
伊与の心臓が一際大きく跳ねた。
『さっき、私のことをシュヴァと呼んだな』
「あっ? ……ああ。シュヴァイツァー・ヴィーテルブラッドなんて長ったらしいから、勝手に省略させてもらったんだ。気に障った?」
「いや、逆だ。気に入ったぞ。その呼ばれ方をしたのはいつ以来か……」
「え……」
訝しむ伊与をよそに、シュヴァイツァーは鼻歌を口ずさむほど上機嫌だった。
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