第20話 光と影の間

 下校の際にも、栞は当然のようにくっついてきた。こういう場合、職務に忠実と言えば良いのだろうか。彼女の一途な態度は、伊与の目には愚直にさえ映った。


「なあ、こんな昼間から、しかも大勢の人が往来している道で、敵なんて襲ってこないと思うよ。もうちょっと、まろやかにいかないか?」

「呆れた人ね。先日だって日中の人が往来している道で襲われたじゃない。忘れたの?」

「いや、あの時は財満先生の家に行ったから……」


 反論する材料がなく、伊与の声は窄まった。


「悪魔は結界を張って人を近づけなくさせることができる。どれだけ往来が激しかろうと関係ない。伊与のグリモワールの悪魔には、敵に脅威を与えるなにかがあるみたいね。でなければ、互いに牽制しあってバランスを保っている悪魔が、あそこまで攻撃的になるはずないもの。いつどこで仕掛けてくるか、油断できない」

「脅威? この前の女の子は、身を守るのが精一杯って感じだったけどな……」

「あなたの悪魔の扱いが下手だからよ」

「当たり前だろう? 悪魔を扱うなんて、一介の高校生にできるわけない」


 栞は伊与の抗議など意にも介さないで、道端におとなしくしゃがんでいる子犬に近づいた。利口そうな柴犬だった。首輪を付けているものの、飼い主の姿が見当たらない。

 栞に頭を撫でられ、子犬は嬉しそうに尻尾を振った。栞の行動を意外に思ったが、動物を愛でている割りには笑みは薄かった。


「犬、好きなのか?」

「好き。こんな可愛い動物いないでしょ」

「そのへんにしときなよ。きっと飼い主が近くにいるよ。可愛がったのに、勝手に触ったって叱られたら気分が悪くなる」

「う~ん……」


 栞は名残惜しそうに頭をわしゃわしゃ撫でて、犬から離れた。


「案外、女の子っぽいとこあるんだな」

「馬鹿言わないで。それより気づいてる?」

「なにが?」

「鈍いな。周囲から人がいなくなってるでしょ」

「はっ!?」


 いつの間にか、二人は静寂の中にいた。いや、取り残されていた。今は下校時間。午後三時を過ぎたばかりだ。それなのに、サラリーマンや主婦はもちろん、下校する生徒の姿すら一人もいなかった。


「こ、これって……」

「伊与っ! ぼうっとしてんじゃないっ!」


 栞が叫ぶのと同時に、伊与に向かって一直線に突っ込んでくるものがあった。放たれた矢のような速さで、伊与は反射的にかわすのが精一杯だった。


「うわっ!」 

「伊与っ」


 駆け寄る栞が、伊与の額から血が滴るのを見て驚いた。


「伊与、ケガを? お、襲われたの?」

「う……大丈夫。かすり傷だよ。それより敵は? 速すぎてよく見えなかった」

「あっという間に見えなくなった。一撃離脱ってやつね。グリモワールからスクラーヴェを呼び出して身を守りなさい」


 言いながら栞はホルスターから自分のグリモワールを取り出し、スクラーヴェを召還した。


「来なさいっ! リュストゥングッ!」


 慌てて伊与も追随する。


「出ろっ! シュヴァイツァーッ!」


 グリモワールから金色の光が放たれ、魔方陣が形作られる。グリモワールが宙に消えるのと入れ替えに、あどけないといっても良いくらいの美少女が姿を現した。自分の意思に呼応して召還される存在。実行して尚、我が目を疑う光景だ。

 姿を消した襲撃者をみつけようと、伊与は視線を巡らせた。


「だ、誰もいない……。あの犬以外は、周りには虫一匹みつけられない。……犬?」


 疑問が湧いた。たしか、この結界は強力なものではないと言っていた。なんとなく不快な感覚があり、近づきたくないと思わせる程度だ。犬は人間より精神が複雑ではないから、影響を受けないのか? いや、違う。本能で動く動物だからこそ、不穏な空気には敏感なはずだ。


「あの犬……? なんか変だ。さっきからまったく動かないが、そういうことじゃない。なにかが……。なんだ? 俺はなにに違和感を抱いているんだ?」

「影よ! その犬、影がないっ!?」


 栞が叫ぶと同時に、塀の影から黒い獣が飛び出した。しかし、その獣には奥行きや厚みといった三次元を構成するのに必要な要素がなかった。地面を滑るように、伊与に突進してくる。


「お、狼っ? いや、犬か? まさか、あの犬の影かっ! シュヴァイツァー!」

『犬コロ如きがっ!』


 シュヴァイツァーが躍り出て、地面に向かって何発も突きをくらわせた。彼女から繰り出される突きはとんでもない速さで、マシンガンから吐き出された弾丸みたくアスファルトを抉った。


『むっ?』


 シュヴァイツァーが攻撃をやめると、影は再び塀の影に溶けて見えなくなった。


『……奴め。他の影と同化してしまえば、姿を消すことができる。隠れていたのではなく、さっきから我々の近くで襲う機会を虎視眈々と狙っていたのか』

「感心してる場合かっ。あれだけ叩き込んだのに一発も当たってないじゃないかっ」


 伊与のヒステリックな叱責に、シュヴァイツァーは不機嫌を隠そうともしなかった。


『無礼な。我が拳は一撃たりとも外しておらんぞ。影に取り憑いている間は、通常の攻撃は無効になってしまうようだな』

『グッグッグ……』


 不快な声が頭に響いた。まさに地から這い出るような不気味な声だ。


『思ったより早くバレちまったな。余裕があるから名乗らせてもらうが、俺の名はリュックザイテ。影を乗っ取り意のままに操れる悪魔さ』

『名乗ったところで意味なんかないぞ。数分後には、おまえのことなんか綺麗さっぱり忘れているだろうからな』


 シュヴァイツァーは、相変わらず上から目線で相手を煽った。

 まさか、こいつの能力って挑発することなんじゃ……。

 伊与に不安が広がるが、シュヴァイツァーはお構いなしだ。


『それってハッタリだろ。様子を探ってくるよう言われたが、観察の対象は赤嶺栞、おまえではなくその小僧の方だったか。しかし、どうってことはないな。報告しといてやるぜ。とんだ期待外れだったってな』

『様子を探る?』

『興味が湧いたか? ならば俺と一緒に来い。人間なんかに従僕しててもつまらんだろう? そっちの鎧のやつ、おまえも一緒にどうだ? 俺たちが仕えるべきは人間なんかじゃない。あの方だ。今、あの方の下に同志が集結しつつあるぞ。おまえらも参加しろ』

『痴れ者が……』


 リュストゥングがピクリと動いたが、栞が手振りで抑えた。


『コソコソしながら勧誘しおって。隠れてないで出てこい。ケチョンケチョンにやっつけてくれる』


 シュヴァイツァーは飽くまでブレない。だが、今は不遜な態度が頼もしい。

 

『……つまり、誘いを断るってんだな? 悪魔の誇りを捨てて、取るに足らない人間に飼われるってことだな? 今、この場で俺に殺される覚悟があるってことだな?』

『バカたれ。そんな覚悟などあるわけなかろう。人の言うことは正しく理解しろ。私はおまえをやっつけてやると言ったのだ』

『無理だね。さっきだって、おまえの拳は全然効かなかっただろう』

『ああ。手加減していたからな』


 シュヴァイツァーは、言いながら栞の方を一瞥した。その僅かな仕草は、伊与は気付かなかったが栞には伝わった。

 伊与は小声で注意した。


「おい、シュヴァ。あんまり挑発するな。襲い掛かってくるぞ」

『………………』


 シュヴァイツァーが意外そうな顔をしたので、伊与は変なこと言ったのかなと怪訝に思った。


「なに?」

『いや、なんでもない。それより、挑発するなとは異なことを言う。なにもしなくても、奴は襲ってくるぞ』

「そうかもしれないけど……」

『私は性格上、守るより攻める方が向いておるのだっ』


 言うが早いか、シュヴァイツァーは塀を連打して砕き壊した。リュックザイテが同化している影をなくそうというのだ。

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