第19話 時季外れの転入生
朝の日差しに冷気が織り交ぜられる。嫌でもシャキッとするこの頃であったが、伊与の気分は優れなかった。
グリモワールを手放すことで自分を蚊帳の外に置こうとしたが、事態はますます自分を取り込もうとしている。まるでトリモチの罠に引っ掛かってもがく狸の心境だ。
「なんだか、じいちゃんも機嫌悪いんだよな〜……」
まだ人も疎らな朝の道を駅に向かって歩いていると、いきなり声を掛けられた。
聞き覚えのある声……。嫌な予感を持ちつつ声のした方を振り向くと、すぐ後ろに栞が立っていた。しかも、伊与の学校の制服を着ている。
「栞……。どうしてここに? それにその格好……」
制服を着ている以上、意味するところは一つしかないが、伊与は返ってくるであろう返事を浮かべつつ質問した。
「しかたないでしょ。あなたの護衛を言い渡されちゃったんだから。あなたのところの制服、けっこう可愛いね」
しかたないと言いながらも、栞は満更でもなさそうだった。出会いが特別だっただけに、普段の生活はどうしているのだろう? 学校には通っているのだろうか? などの疑問が今更ながら湧き上がってきた。
「……つまり、俺の学校に転入するってこと? 俺の護衛のために?」
「そう言ってるでしょ。ちなみに住むとこもそこになったから」
そう言って、栞は雫石家の斜向かいにあるマンションを指差した。部屋の位置も伊与の部屋に合わせて三階だ。今まで意識したことなどなかったが、カーテンで遮らなければ互いの室内がよく見える。
「そこまでやるか? と言うより、そこまでやれる行動力を持つ組織ってなんなんだよ」
「ビブリオテークは、世界中にネットワークを持つ組織なの。やろうと思えば大抵のことは実現できるよ。それよりも、グリモワールは持ってるよね?」
「あ、ああ。しっかり入れてある」
伊与は、鞄をぽんと叩いた。
「それじゃ駄目よ。持ってきといて良かった」
栞は、グリモワール・ホルスターを伊与に差し出した。
「なにこれ?」
「グリモワールを収める専用のホルスター。ベルトに通して使いなさい」
「これを身に付けるのか?」
「鞄の中じゃ、襲われた時に咄嗟に取り出せないでしょう」
「そこまで、俺の心配なんかしてくれなくても……」
「勘違いしないで。あなたの護衛なんて任されちゃったけど、本来の目的はそのグリモワールを守り、ビブリオテークで保管して良いものか見極めることなんだから」
「俺を守るのはついでってわけか」
「急ぎましょ。転校初日に遅刻なんて目立つ真似はしたくないから」
制服姿のせいか、悪魔と対峙した時の険はしまいこまれて、華やかさが押し出されている。充分目立っているが、本人はそのことに気づいていないのだろうか。
歩き出す栞についていくように、伊与も歩き始めた。
登校中に痛いほどの視線を浴びたが、学校に着いてからも大変だった。栞はあたりまえのように伊与のクラスに編入された。今までは海外の学校に通っていたという設定になっていた。栞が自己紹介した際には、男子は歓声を上げ女子からはため息が漏れた。
気掛かりだったのは、財満が殺されたことが露ほども話題に上がらなかったことだ。生徒の間はもちろん、担任からもそんな事実は一言も出なかった。ただ単に「財満先生は諸事情により退職されることになった」とだけ知らされた。
教室内には小さな波紋が広がったが、それだけだった。非常勤の教師がいなくなったところで、大騒ぎするほどのことではないということか。
担任にも後ろ暗い素振りはなく、学校側にも事実は伝わっていないことは容易にわかった。栞が言っていたビブリオテークの組織力の強大さを、改めて思い知った。
休憩時間には、栞の周囲にはクラスメイトが集まり様々な質問を投げ掛けられた。栞は無視をすることはなかったが、当たり障りのない返答に終始した。
伊与は触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに遠目で眺めていたが、栞に近づこうと下心丸出しの男子をよそに、彼女から近づいてきた。
なんだ? と思う間もなく栞はクラス全員の前で宣言するように言った。
「一目で好きになりました。私とお付き合いしてください」
「え〜っ!?」
教室が悲鳴に近い叫び声で満たされた。
栞は大胆な女の子らしい台詞を口にしながら、目では「わかってるよね?」と睨んできた。
伊与に抵抗する術などなく、有耶無耶のうちに二人の交際が始まったことにされてしまった。羨望と嫉妬の視線に刺され、出血するのではないかと思った。やつれるほどの疲労感に押し潰されそうになった午前の授業がようやく終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
昼休みの間は、隆太が入院してからは一人で過ごしていた。いつも通り、校庭の片隅に設置されているベンチで弁当を食おうと出ていこうとしたが、栞に呼び止められた。
「なに?」
あからさまに迷惑そうな表情を作る伊与に、栞も負けじと不機嫌な眉をひそめた。
「なに、じゃない。まさか、あなた一人で食事するつもり? こっちはお弁当なんて持ってきてないの」
「知らないよ」
「冷たいのね。私はあなたのために体を差し出す覚悟があるのに」
空気が固まり、クラスメイトの視線が集まった。
「ご、誤解を招く言い方するなっ」
伊与は滑稽なほど狼狽えたが、栞は動じなかった。好奇な視線をも凛として跳ね返している。
伊与は栞の手首を掴んで、教室から出た。ざわざわと騒がしい声が背中を突いたが、無視して急いで教室から離れた。
「どういうつもりだよ」
「私達が交際しているってことにすれば、いつも一緒にいても不自然じゃないでしょ」
「だからって」
「あら、照れてるの? 可愛いとこあるのね」
「注目を集めるのが嫌だって言ってんだ」
不貞腐れながらも、栞に食堂と購買部があると説明した。
「伊与はいつもどこで食べるの?」
「校庭の隅に設置されているベンチで食べる。いつもは隆太と食べるんだけど、今は一人だ」
「なら、私もそうする。購買部でパンを買うから」
そう言い、伊与に購買部まで案内させた。
「今から行っても、ろくなのが残ってないよ。昼休みの購買部は争奪戦だから」
「そうなの?」
しかし、伊与の忠告に反して購買部は空いていた。空いていたと言うより、栞が近づくと、皆が顔を歪ませて遠ざかるのだ。売り手のおばさんは、客がいるのに逃げ出すわけにもいかず我慢しているが、額から汗が噴き出して光っている。
「い、いらっしゃい」
「ん〜と……、これとこれ、これもちょうだい。あ、あと牛乳も」
「は、はい」
おばさんは、まるで重たい石を掴むようにパンを袋に入れていった。伊与は見るともなしに見ていたが、栞が買ったパンはすべて甘い菓子パンだった。
「ありがと」
栞がその場を離れると、購買部には再び生徒の群れが押し寄せた。
「栞。ひょっとして……」
「いいでしょ。少しくらい役得があったって」
伊与は振り返って、再びごった返している購買部を見た。
不可解な出来事であるはずなのに誰も口にする者はおらず、皆が昼飯を獲得することに必死になっていた。
二人はベンチに腰掛けた。
栞はリンゴが乗っかったデニッシュを一口かじり、牛乳パックにストローを挿しながら言った。
「伊与。友達いないの?」
伊与は咀嚼していたおかずを飲み込んだ。休憩時の最大の楽しみなのに、今日はじっくり味わう余裕がなかった。
「いるよ。今入院してる。内山隆太」
「そうじゃなくて、彼以外にってこと」
「そうだな。話はするけど、友達と呼べるのはいないな」
「友達が一人なんて寂しくない? せっかく学校に通ってるのに」
「寂しいって思ったことはないな。長く他人といると鬱陶しくなる」
「私のことも、そう思ってるってことね」
「いや……まあ、一定の距離さえ保ってもらえれば……」
「中途半端ね。人と接するのが嫌なら、どこか山奥にでも引っ込んで一人で生活すればいい。けど、そうしないで家族のいる家で暮らして、学校にも通っている」
「山奥に一人って……、そんなんじゃ生きていけないよ」
「できる。人間、どうしてもそれが必要と思ったなら、なんとか手段を見つけて手に入れるものよ。あなたがそれをしないのは、口では一人がいいとか言いながら、不便な生活より今の安定した生活を選んでいるからよ。嫌いな他人と接してでも」
「そんなこと言ったって……」
言い掛けたが、上手く言葉が紡げなかった。栞の言う通り、今の生活を捨てる発想は一度として持ったことがなかったからだ。
「なにか原因があるんじゃない? 一人でも友達がいるってことは、完全に人嫌いってわけじゃないだろうし」
「考えたこともないな。一人の方が煩わしさが少ないから、なんとなく今のままでもいいやって……」
「ふうん……」
栞はなにか言い掛けたが、開けた口に菓子パンを突っ込んだ。
気になる仕草だ。
「なに?」
「……余計なことだけど、親と友達は大切にした方がいい」
栞の発言は、伊与にとって意外だった。自分以上に乾いた感じを受けていたので、妙に湿っぽく滲み入ってきた。
一方的に訊かれたり言われたりしたので、彼女のことを訊こうとしたが、それができない雰囲気になってしまった。グリモワールの悪魔などに関わってきた栞の人生は一言で語れるものではあるまい。
趣味は? どんな音楽が好みなのか? 休日にはなにをして過ごすのか? どんな形であれ行動を共にするようになった者なら、ごく自然に出てくる会話が喉に引っ掛かって出てこない。彼女に対しては、体重やスリーサイズを訊くくらい不躾に思えた。
泳ぐ視線が舞い散る葉を捕まえた。異常な事態に巻き込まれようが、時間は確実に流れ、季節は移ろう。この数日で、紅葉も深く染まったことさえ気付く余裕が持てなかった。
落ち着いたら、紅葉狩りにでも行きたいな。それまでに、葉は残っているのかな……。
伊与のささやかな願いに応えたわけではあるまいが、ハラハラと黄色く色付いた葉が踊りながら風に泳いだ。
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