第17話 魔術師の牽制

 伊与を乗せた車と入れ違いに、特別仕様の救急車がサイレンを鳴らして入ってきた。その様子を、七宮がブラインドの隙間から覗いていた。


「やっと来たか……」


 窓から離れて、伊与と面会した部屋から出た。誰もいない廊下を歩き、一つの部屋の扉を無遠慮に開けた。


「彼の様子はどうだ?」


 部屋には、血塗れの男性が苦しそうに横たわっていた。顔、腕、脚、胴体。体中から出血している。

 七宮の問い掛けに、懸命に応急手当していた女性が振り返った。


「かなりの数の切創が認められますが、命に別状はありません」

「もう一度確認するが、彼は雫石伊与との契約を解除させようとしただけだね? それ以外に余計な儀式は行っていないのだね?」

「はい。私は補佐役で、ずっとそばにいて見ていました。間違いなく契約解除の儀式しかしなかったと断言します」

「ふむ……」


 ドカドカと喧しい音を立てて、救急隊員が駆けつけてきた。ビブリオテーク専属の特別な医療チームだ。案内役の女性は走ることに慣れていないのか、息を切らしている。


「怪我人はこちらですか?」

「ああ。よろしく頼む」


 運び出される男を横目に、七宮の意識は既に別の方を向いていた。

 契約の解除を拒むほどの結びつき。それでいて取り憑くでもなく、雫石伊与の人格に変化はない。そして、その存在はビブリオテークのデータベースにも載っていない。

 なにからなにまで謎だらけだ。雫石伊与は脅しかと質したが、あのグリモワールを狙う者、あるいは組織が存在するのなら、行方不明になっているグリモワールを回収するチャンスとも言える。彼には悪いが、利用させてもらう。


「グリモワールの回収……。すべてを差し置いても、なにをも義性にしても優先すべきことだ」


 血で汚れた床を見つめながら、七宮は独り言ちた。



 栞はビブリオテークの資料室に向かっていた。伊与の持つグリモワールについて、より詳しく調べようと思ったからだ。七宮が見落としなどするはずがないと信じてはいたが、自分で調べて納得しないことには落ち着かなかった。そういう性分なのだ。

 前から一人の男が近づいてきた。考え事をしながら歩いていたので、気付くのが遅れた。


「お疲れ様」

「三影さん……」


 三影は栞と同じレクテューレだ。ビブリオテークでは彼の方が先輩で年齢も一回り上だ。担当分野が違うのでそれほどの接点はなかった。彼とは時折すれ違う程度だ。当然、会話も挨拶程度で留まり、三影から声を掛けられたことを少し意外に思った。


「先程、赤嶺さんが担当していたグリモワール探索の仕事を引き継ぐよう、指令があったよ」

「……そう、ですか」


 なるほどと納得した。栞は三影のレクテューレとしての実力を知らないし、彼のグリモワールにどのような悪魔が棲んでいるかも聞かされていなかった。ビブリオテークという組織で協力関係を結んではいるが、マーギアーはそれぞれの家系の繁栄をこそ第一に考える傾向があり、全幅の信頼を寄せることはない。細い糸で繋がれた危うい関係だ。微妙な力加減で拮抗しているが、それは互いに了承している。


「なんでも、急を要する仕事が入ったとか……。詮索するつもりはないけど、なにか協力できることがあれば、遠慮なく言ってね」

「ありがとうございます。ご迷惑をお掛けしてすみません」

「迷惑だなんて……。これも仕事だよ」


 ごく普通の会話だが、その裏にはけん制しあう棘が応酬していた。決して態度や表情には出さない。マーギアーの家系に生まれ育った栞が自然と身に着けた処世術だ。

 栞はこのやり取りが嫌いだった。まるで狐と狸の化かし合いで、あとで下卑た行為をしてしまったと嫌な気分になるからだ。


「それじゃ、これで」

「はい。失礼します」


 形だけは礼に失さぬよう、挨拶を交わして別れた。栞は足早に資料室に向かった。


「………………」


 詮索しないと言ったが、三影は突然の指令の理由を知りたかった。

 赤嶺栞……。急な仕事が入ったというのは本当だろうか? だが、降ろされたのではない。彼女が失態を犯したなどという話は聞いていない……。

 三影も歩き始めると、彼のグリモワールが震えだした。


「?」


 振動はますます激しくなり、三影は手で押さえなければならないほどだった。


「どうした? ヴァルムフリッシュ」


 なんだこれは? これでは、怯えて震えているみたいじゃないか。それとも、破壊の衝動を必死に堪えているのか? いったいなにが?

 三影は振り返ったが、もう赤嶺栞の姿はなかった。


「赤嶺栞とすれ違った途端に異常な反応を示した。あの女……。まさかな」


 三影のこめかみに、一筋の汗が伝った。

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