第16話 望もうと望むまいと
「……………………」
「……………………」
沈黙が重たい。栞は生来の性格なのか、自分のホームということもあるのか、嫌味なほど落ち着いている。こういう場合、先に口を開くのは不動心を維持できない方だ。
「……さっき、グリモワールには天使や悪魔を封印してるって言ってたけど、天使を封印なんかできるのか?」
拒否しながらも、既に悪魔なら閉じ込められることを前提に話してしまっている。
「できるよ。と言うより、天使が自ら進んで封印されるのよ。自分の使命を全うするためにね。かなり特殊な事例だけれど」
「あ、悪魔はどうなんだ? グリモワールを持ってれば、悪魔を意のままに扱えるのか?」
「本当になにも知らないのね」
栞はやれやれという感じ丸出しで、腕と脚を同時に組んだ。
伊与は、当たり前だと言いたいのを堪えた。同時に、淑女を演じているのは七宮の前だけだとわかり、そのあからさまさに感心すらした。
「いいわ。さっきは下手に首を突っ込むと危険と言ったけど、中途半端な知識もそれ以上に危ないから……」
そう前置きした栞は、自分のグリモワールを取り出してテーブルに置いた。
伊与のグリモワールと同じくらい古そうだが、表紙に描かれている紋様は違う。伊与の考えを読み取ったのか、栞は体裁について説明した。
「普通の本ならとっくに朽ち果てているけど、グリモワールは封印されている者の魔力の影響で、老朽化を抑えているの」
伊与は合点がいった。二百年前のデザインという財満の見立ては正しかった。ただ、朽ちるのを遅らせる力など想像の外だったから、判断を誤ったのだ。
……彼が死んだことに、改めて心臓が縮む思いだった。独身だったが、恋人はいなかったのだろうか。家族が彼の死を知らされた時、なにを思うだろうか。
考えれば考えるほど、圧迫に潰されそうになる。
「さっき七宮さんが説明した通り、グリモワールを持つには厳しい審査があり、悪魔と契約を結ぶ必要があるの。契約を怠ったり、内容がちゃんとしていないと悪魔に身も心も乗っ取られて、逆に利用されてしまう……。聞いてる?」
「……ああ。聞いてる。ちゃんと聞いてるよ。赤嶺さんも契約を交わしたのか? あの……騎士みたいな悪魔と……」
「もちろん。報酬はグリモワールからの開放を百年繰り上げること。私のことは栞でいいよ」
「それが契約……。でも、悪魔なんて信用できるのか? 契約者を騙して襲ったりするんじゃ……」
「その点なら心配いらない。悪魔は契約に関しては、嘘や偽りは一切介入させない。彼らにも禁忌があって、一度交わされた契約が破られたことは、過去に前例がない」
「そう、なんだ」
「だからよ。あなたが不可解なのは。きちんとした契約もしてないのに、取り憑かれていない。かと言って、悪魔を使役しているわけでもない。ただ単に……振り回されてるって感じで、放置するのは危険だと思ったの」
栞が危険だと言った対象が、自分の身を案じてくれたのか、それともグリモワールが野放しになることなのか判然としなかったし、それを確認しようとも思わなかった。しかし、信じられないことだが、伊与は徐々に栞に惹かれつつあるのを自覚していた。自分と同世代なのに、おとぎ話のような世界に身を投じて微塵も狼狽えない振る舞いに敬意を感じているのか。
言葉の紡ぎが解けた。
夜の帳のように下りてきた静けさの中、伊与は会話を途切れさせまいと迷い子となった言葉を探した。しかし、見つけ出す前に扉がノックされた。こころなし、先程より音が乱れている。
「どうぞ」
栞が応じ、七宮が入ってきた。退室前の柔和な顔とは打って変わって、その表情は引き締まっている。そして、伊与が提出したグリモワールを手にしている。
「七宮さん?」
ただならぬ雰囲気を察した栞は、不安な声を出した。
着席した七宮は、グリモワールをテーブルに置き鋭い視線を伊与に投げた。
伊与も不安になったが、同時に不条理さも感じた。わけのわからない状況で、そんな目で睨まれる筋合いはない。
「……雫石くん。君は、このグリモワールを神保町の古書店で購入したと言ってたね?」
「そうですけど……」
「むう……」
七宮は唸ったきり口を閉ざした。硬い表情のまま、目の前のグリモワールを凝視している。
「あの……、どうかしたんですか?」
栞に問われ、七宮は少し迷ってから重たそうに口を開いた。
「雫石くんが提出してくれたグリモワールだが、データベースに登録されてないんだ」
栞の目が、先程の七宮と同じように見開かれた。
事態を把握できない伊与だけが、緊迫した空気から取り残された。
「……念のためお訊きしますけど、チェック漏れとかは……」
遠慮がちな栞の確認に、七宮は即座に首を振った。
「それはあり得ない。データベースを構築するのに何年も掛け、何百人もの人達が関わっているのだ。チェックだって一回や二回ではない。何十回と繰り返し完成した、信頼できるデータだ」
「それは、つまり……」
「このグリモワールは、この世に存在するはずのない書物だ」
「ちょっと、ちょっと待ってください」
二人から醸し出されるあまりにも重たい雰囲気に、伊与は思わず声を出した。
「何百年も前に製作されたものなら、何冊か知られていないのがあってもおかしくないでしょ。そんなに深刻なんですか?」
「雫石くん……」
静かに発した七宮の声は、諭す響きが含まれていた。
「ビブリオテークは、グリモワールの管理に特化した組織だ。その仕事に怠りはないし、皆、扱っている物の危険性は充分過ぎるほど肝に銘じている。事実、これまで回収したグリモワールで、データベースに記載されていなかったものなど一冊たりとなかったのだ。これは非常事態なのだよ」
そう言われても、伊与にはどうすることもできない。グリモワールはビブリオテークに渡したのだから、これはもう七宮たちの問題と割り切るしかなかった。
「とにかく、その本……グリモワールは、お渡しします。俺はそろそろ帰っていいですか?」
栞が七宮を見た。初めてのケースに、彼女も判断がつかないようだ。
七宮は、すっとグリモワールを伊与の前に押し出した。
「?」
「期待に添えなくてすまないが……、君はもうこっちに片足を踏み入れている。このまま帰って、明日から今まで通りの平凡な生活に戻るのは難しいくらいには、ね」
「七宮さん?」
栞が怪訝に眉をひそめる。伊与は栞以上に疑問符を顔に貼り付けた。
「どういうことです? グリモワールは渡しましたよ。これ以上、俺が介入する余地はないんじゃないですか?」
「これは君にお返しする」
七宮は、さらにグリモワールを伊与に近づけた。七宮が前屈みから姿勢を正すと、グリモワールは伊与の目の前にあり、逆に七宮からは離れている。この位置が、これからの伊与の運命を暗示しているかのように思えた。
「なぜです? こんなもの託されても、俺にはなにもできない。いや、そもそもこれ以上厄介事に巻き込まれるのは嫌なんです」
「本部にも報告したが、それはグリモワールの中でも特殊なものと判断された。他のグリモワールとどんな反応を引き起こすかわからない。ここに置いておくのは危険なのだよ」
「それにしたって……」
「ほんの少しでも魔術の世界に関わった者が、簡単に開放されるとは思わないでほしい」
七宮の無感情な言い方は、伊与の奥底にすとんと落ちた。
「……脅すんですか」
「脅す? 今、脅すと言ったのかね? これは取引きだよ。君が襲われたのは、決して偶然ではない。そのグリモワールに棲む悪魔の影響なのだよ。理由はわからんが、選ばれたのは君だ。君がグリモワールを保管する。その見返りとして、我々は君の身の安全を保証する。栞くん」
「はい」
「君に新しい仕事を依頼したい。雫石くんの護衛だ」
「え?」
栞は驚き、伊与も驚いた。先ほどから二人のリアクションが同調している。
「私が、ですか? 私には所在の知られていないグリモワールを探し出すという仕事が……」
「それは他のレクテューレに引き継がせる」
「でも……」
「栞くん。これはお願いをしているのではない。命令だ。瀬音くんと二人で担当してもらいたい」
七宮は声色を一段落とした。
「……わかりました」
まったく納得していない表情を隠そうともせず、栞は従った。
伊与としてはこれ以上ないくらい居心地が悪かったし、自分を無視して話を進める二人にも不服だった。
「待ってください。俺の意思は? それに護衛ですって? 護衛が必要になる事態が待ち受けていると言うんですか?」
「事実を受け止めてほしいと言っているのだ。君が望もうと望むまいと、状況が君を見逃してはくれない」
七宮の台詞に、数日前に頭に響いた声が重なる。
『急げよ。やつらは待ってはくれんぞ』
首筋に氷を詰めた袋を押し付けられたような感覚。
やつら? 待ってくれない? あれはこの事態を見越しての警告だったのか?
まさか……まさか。
呆然としたまま、来た時と同じ自動車に乗せられ伊与はビブリオテークを後にした。解放されたというより、追い出されたという感じの帰路だった。
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