第15話 ビブリオテーク

 扉が開かれ、栞の姿が見えた。

 伊与は思わず緊張を緩めたが、栞は身を引いて年配の紳士を先に入室させた。

 長く伸ばした髭も、まだ豊かに残っている頭髪も見事に白く、それとは対照的に身を包んでいる衣服は墨汁のように黒い。ロザリオなどはしていなかったが、なんとなくカトリックの神父が頭に浮かんだ。

 伊与は反射的に立ち上がったが、黒衣の紳士はにっこり微笑むと手振りで座るよう促した。顔つきは柔和だが、目は観察者の鋭さを持っていた。伊与が男に対して抱いた第一印象は「あまり深く関わりたくない」だった。

 伊与は改めて座り直し、二人も続いて着席した。


「……君には敬える人がいるかね?」


 いきなりの質問に、伊与は面くらった。


「は?」

「心から尊敬する人がいるかと聞いたのだ」

「はあ、まあ……。自分にとっては、祖父や母がそういった人になると思いますが……」

「素晴らしい。敬うという考えは、人間だけが獲得した英知だ。敬う気持ちは相手を慈しみ護ると同時に、自らを強くする。秩序を保つ人間とただ生きるだけの動物との決定的な違いはそこにある」

「……………………」

「はじめまして。私は七宮颯馬しちのみやそうまといいます」


 よく通る声は清らかな水を湛える湖を連想させた。伊与は大人の言動になんでもかんでも反抗するほど幼くはなかったが、それでもこんな大人がいるのかと虚を衝かれる思いだった。


「……雫石、伊与です」


 状況は把握できず、突然の諭すような話。ペースに引きずり込まれそうだが、相手が名乗った以上、こちらも名乗らないわけにはいかない。伊与が自らの名を口にしたら、七宮と名乗った男は微笑みを深くした。


「栞から話は聞いている。大変な目に遭ったね」

「大変とか……そういう問題じゃないです。人が殺されたんです。警察に連絡は……?」

「彼らにはなにもできない。警察が対処するのは、飽くまで人間が起こした事故や事件だ。悪魔の所業には太刀打ちできない」


 ちぐはぐに並んでいた曖昧な考えに串が通され、無理やり整列させられた。悪魔。伊与自身、なんとなしに浮かべていた単語だったが、他者の口からはっきり聞かされたら、今度は否定する側に回らざるを得なかった。


「悪魔なんて……、いるわけない……」

「信じられないのも無理はない。だが、君はグリモワールによって選ばれてしまった。その時点で取り憑かれるのが普通なんだが、君は理性を保ち続けている。非常に稀なケースだ」


 理性を保つ……。それを確認するために、尊敬という概念の話をしたのかと思った。取り憑かれるという表現は栞も使っていた。彼女を盗み見たが、真っ直ぐな瞳ともろにぶつかり、慌てて七宮に視線を戻した。


「その、なにが起こっているのか、俺にはさっぱりなんですけど……」

「それをこれから説明する。君の常識を越えた話だろうが、受け入れてほしい」


 七宮が語った内容は、たしかに信じられないものだった。

 七宮たちが所属する組織は『ビブリオテーク』という名称だった。本来は図書館を意味する単語らしいが、いつの頃からかその呼称が定着し、そのまま組織名になったとのことだ。

 その名が示す通り、本来の役割はグリモワールをマーギアーに貸し与えることだった。厳選されたマーギアーに更に試験を受けさせ、合格した者にのみグリモワールを貸し出したという。そして、グリモワールを授けられた読み手は『レクテューレ』、使役する悪魔は『スクラーヴェ』と呼ばれた。

 そこまで聞き、伊与は質問を差し挟んだ。


「マーギアーというのは魔術士のことでいいですよね? それに貸し出したって? その……グリモワールはここから貸し出されたものなんですか?」

「その通り。本来、グリモワールは個人での所有は認められておらず、すべてビブリオテークの管理下にある。もっとも、ここは日本支部に過ぎない。本部はヨーロッパのとある町にあり、今言った貸し出しが行われ始めたのも二百年以上前まで遡る。それは現在も受け継がれているが、ある出来事を機に我々は主な活動内容の変更を余儀なくされたのだ」

「?」

「今から百三十七年前、グリモワールに棲まう一匹の悪魔が反乱を起こしたのだ。その悪魔の名がヘルツォークというところから『ヘルツォークの災厄』と呼ばれている」

「ちょっと、ちょっと待ってください」


 伊与は七宮の話を遮った。どんどん進み理解が追いつかない。行きたい方向とは逆のエスカレーターに乗ってしまい、慌てて引き返そうとする気分だ。


「かじった程度の知識ですけど、グリモワールというのは悪魔を召喚する方法を記した書物なんじゃないんですか? グリモワールに棲まうってのはいったい……?」


 七宮は緩慢な瞬きをして、栞を一瞥した。


「……これは、私としたことが……、もっとも基本的な話を伝えてなかったね。すでに知っているかと早とちりしてしまった」

「グリモワールについての説明は私から……」


 栞が申し出た。伊与に対する強気な態度は微塵も見せず、気品を感じさせる喋り方だ。

 こんな振る舞いもできるのだなと、伊与は密かに思った。


「あなたが言った通り、グリモワールは悪魔召喚の指南書として知られている。けど、それは昔のヨーロッパに出回った模造品に対する情報よ。本物のグリモワールは、悪魔や天使を封印した書物なの。入手さえすれば誰にでも悪魔を呼び出すことは可能なのよ。伊与が少女の姿をした悪魔を呼び出せたようにね」


 栞はついてきている? と伺う視線を投げて続けた。伊与は微かに頷いた。


「だからこそ、グリモワールを携帯するレクテューレは、正しい知識と確実な技術を持つマーギアーから選ばれ、厳密な試験を受け契約の儀式を行うのよ」

「そんな危険な物が、なんで古本屋に置かれてたんだ?」

「そこで、ヘルツォークの災厄に戻る」


 話は再び七宮が引き継ぎ、栞は口を噤んだ。


「ヘルツォークの災厄により、ビブリオテークから二百八冊ものグリモワールが紛失し世界中に散らばってしまった。先達の努力のおかげで五十三冊は回収できたのだが、残り百五十五冊は未だ行方不明なのだ。現在の我々の主な役目は、行方の知れないグリモワールを回収することにある。今日回収したもので五十四冊目。さらに雫石くんが提出してくれたグリモワールを加えると、残りは百五十三冊になる」

「はあ……」


 伊与は曖昧な返事しかできなかった。百年掛けて五十四冊は少ないのではないかと思ったが、その特殊性を考えれば案外妥当な線なのか……。

 それにしても……。

 改めて二人の表情をさり気なく覗った。

 今の話って、結構重要事項なんじゃないのか? 企業でいうなら社外秘ってくらいの。俺みたいな只の学生にベラベラ喋っていいものなのか?

 そう考えると、妙に落ち着かない気分になり、深く沈むソファが不安定に感じてきた。

 尻をもぞもぞと動かしていると、扉をノックされた。先ほどと同じく、乾いた音が室内に響く。


「入りなさい」


 七宮が言うと扉が開き、黒いスーツをびっと着こなした女性が入室してきた。

 ペンで描いたと思わせるほど折り目がくっきり表れているスーツ同様、女性の背筋もまっすぐだった。

 ランウェイを歩くモデルみたく優雅に七宮に近づき、そっと耳打ちをした。

 伊与が声も凛々しいのだろうななどと勝手な想像をしていると、七宮の目が見開かれ、そのまま瞳を伊与に向けた。

 伊与は七宮の視線に押されたように姿勢を正した。


「申し訳ないが、少し席を外します。栞、その間お相手してさしあげて」

「……はい」


 七宮はスーツの女性と共に部屋から出ていってしまった。突然、出会ったばかりの女の子と二人きりにされて、これまでとは違う居心地の悪さが覆い被さってくる。

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