第14話 非日常への入り口

 再び全身が緊張で包まれたが、頬だけはだらしなく引きつる。こんな状況なのに、薄ら笑いが浮かんでしまった。

 助けを求めようと目だけで周囲を探したが、シュヴァイツァーと名乗った少女はいつの間にか姿を消していた。そして、気づかない間にポケットに本が収められていた。


「あなた……」

「えっ?」

「そのグリモワールで召喚したスクラーヴェは、なんという名?」

「な? なって?」

「だから名前よ」

「あ、ああ名前……名前ね。あ、伊与。雫石伊与」

「あなたの名前なんてどうでもいい。さっきまでいた女の子の名前を訊いたの」

「たしか……、シュヴァイツァーって言ってたような……」

「言ってたようなって、あなた自分のスクラーヴェの素性も知らないの?」

「その……、スクラーヴェって?」

「いちいち質問を質問で返してくる。ふざけてるの?」

「ちょっと、ちょっと待ってくれ。俺にはなにがなんだか、わけがわからないんだ。君の質問には答えられそうにない」

「栞さん。こいつ……」


 少年の伊与を見る目に嫌悪が宿った。美少年と言えるほどの顔立ちなだけに、冷たさが際立っている。


「……あなたも巻き込まれたってクチか……。よく取り込まれなかったね。普通だったら、身も心も悪魔に乗っ取られて、操り人形にされてるところよ」


 鎧の騎士がランスを下げた。どうやら、少女の意志と連動しているらしい。

 伊与の理解を超えた話だったので、返答のしようがなかった。ただ、今度こそ危機は去ったらしい安心感で、どっと疲労感が滲み出てきた。


「それじゃ、グリモワールを渡しなさい」


 グリモワール……。やはり、これはグリモワールなる魔術書なのか。


「……やっぱり、この本が原因なのか? さっきの女の子は、この本から出てきたのか?」

「好奇心は猫を殺す。巻き込まれただけなら、余計な詮索はしないことね。次に襲われても、助けられる保証はないから。さ、早く渡しなさい」

「あ、ああ。こんな危険なもの、もう関わりたくない。処分しようと思ってたんだ。引き取ってくれるなら大歓迎だ」


 伊与は、少女がグリモワールと呼ぶ本を渡した。


「見たことない紋章ね……。参考までに訊くけど、どこで入手したの?」

「……神保町の古本屋で……」


 言いながら、伊与の頭に麻生の顔が過ぎった。怪物は麻生も襲ったと言っていた。死んではいないようだが、隆太みたいに重傷を負っている可能性も低くはない。


「ん……? 開かない?」


 少女がグリモワールを開こうとしている。しかし、びくともしない。腕が震えるくらい力を込めているが、本そのものに拒絶されているかのように表紙すら捲れなかった。


「おかしい……。これって普通じゃない。あなた、なにをしたの?」


 本を開けない怒りが、伊与に向けられた。よほど力んだのか、頬が赤く火照っている。


「なにも? なにもしてないよ」

「ちょっと、あなた……雫石伊与って言ってたわね」

「そうだけど……」

「伊与。あなたが開いてみなさい」


 ずいとグリモワールを突き出した。


「ただし、少しでも変な動きを見せたら……」


 鎧の騎士が、再びランスを伊与に向けた。角の生えたトカゲ人間も構えて身を低くした。


「しないよ……と言うより、あの娘は俺の意志とは関係なく動いてたんだ」


 いきなり呼び捨てのうえに命令口調かよ……。

 反感は湧いたが、そのことを口にする気にはならなかった。彼女に似合っているというか、ピッタリと当てはまっていると感じたからだ。きっと誰に対してもこんな態度なのだろうと、自分を納得させた。

 伊与はグリモワールを受け取り、開こうとした。しかし、伊与がやっても同様だった。まるで丁寧に糊付けされたみたいに、びくともしない。先日までは普通の本と同様にぱらぱらと捲れたのに。


「……ダメだ。全然開かないよ」


 伊与は諦めて、グリモワールを少女に渡した。彼女のきつい視線に居心地が悪くなる。


「本当だよ。爪が剥がれそうだ」

「誰も疑ってないよ。こんなこと、あり得る?」


 台詞の後半は鎧の騎士に向けられたものだった。


『わからない。少なくとも、自分の知る範囲では初めてのケースだ』


 少女は今度は少年に目で質した。少年は首を横に振った。


「栞さんにわからないもの、僕にわかるわけないでしょう」

「ふうん……」


 少女は、形のいい唇に指をあてがい、しばし思案した。

 伊与の胸中には嫌な予感が広がる。


「伊与。私と一緒に来なさい。このまま帰すわけにはいかなくなった」


 有無を言わせぬ口調。揺らがない瞳。嫌だと言ったら、鎧の騎士に命じて無理やり連れ去るくらいのことはしかねない……。

 伊与は予感が的中したと溜め息を吐きたくなった。そして、こんな非現実的な出来事を受け入れつつある自分の器に、底知れぬ不気味さも感じていた。

 少女は赤嶺栞、少年は瀬音健と名乗った。

 伊与が財満のことを話すと「後処理はこちらでするから問題ない」と謎めいたことを言い「殺された財満という方には同情するけど……」とも付け加えた。

 自分があの本、グリモワールについて相談した結果だと思うと、気持ちが沈んだ。栞は伊与の沈痛な面持ちに気付いているはずだが、なにも言わなかった。ただ一言だけ「奴らは、善人だろうが悪人だろうが関係なく巻き込む災害よ」とだけ言った。

 後処理と聞いて、ついでというわけではないが、麻生の様子も見てくれるよう頼んだ。怪我をしているのなら、早急に救助しなければならない。

 栞は面倒がることなく引き受けてくれて、どこかに連絡をした。

 公園脇の道でしばらく待っていると、黒く厚ぼったい自動車が迎えに来た。大型の高級車だ。傷一つなく、毎日欠かさず洗車しているのがわかるくらい、周囲の景色が映り込んでいる。

 電話一本で迎えを呼べるなんて、栞はどんな立場にいるのだろう。伊与は畏れと好奇心が入り混じった気持ちになった。


「乗って」


 促されるまま、乗車した。健は助手席。伊与と栞は後部座席だ。行き先も教えられないまま、車は滑るように走り出した。

 車で移動した時間は五十分程だった。連れて行かれたのは、四階建ての古い洋館だった。広い敷地を有し、背の高い木が塀に沿って並んでいた。まるで周囲から目隠しされるように植えられている。

 大きな門をくぐると途端に雑音が鳴りを潜め、静謐な空気に包まれた。喧騒とした街中にあっても周囲とは明らかに違った雰囲気を有する神社に似ていた。

 荘厳な外見からは想像できないくらい、内部は近代的だった。エントランスは吹き抜けになっており、天井がとても高い。解放的な造りであったが、どこかしら緊張を強いる感触が充満していた。決してお喋りや咳一つしてはいけないというわけではないが、すれ違う人達はいずれも気の緩みを排している。

 外観を古めかしくしているのは、明らかにカモフラージュだ。なぜそんな細工を施しているのか疑問を持ったが、自分が置かれた状況もわからない伊与は口にすることができなかった。

 伊与は栞から来訪者用のパスを渡された。これがないとロビーにあるセキュリティゲートを通過できないと言われた。紐がついている。首から吊せということらしいが、見渡しても伊与以外にパスを身に着けている者はいなかった。

 いくつもの部屋を通り過ぎたが、どんな目的の部屋なのか、室内でなにが行われているのかなどは、通路からはわからなかった。普段、隆太と肩を並べて歩く学校の廊下とは、まったくの別空間だ。

 足が沈みそうな絨毯を歩き、栞に連れてこられたのは客間だった。天板が品の良い木目調のローテーブルを囲んで、革張りの三人掛けソファ一脚と、お揃いの一人掛けソファが二脚置かれている。窓際に飾られた観葉植物は、少しわざとらしいと感じた。


「ここで待ってて」


 栞と健は、伊与を一人残して行ってしまった。下座はどっちだったかななどと考えながら、しばらく居心地の悪い思いをして待たされた。窓にも壁にも防音処理が施されているのか、気味が悪いほど静かだ。

 ……ひょっとして、騙されたとか? あの二人は善人などではなく、ここも世に仇なす者たちの巣窟とか?

 不安が湧き上がりかけた時、扉がノックされた。


「あ……、どうぞ」


 間の抜けた返事をし、重たそうな扉を見つめた。まるで応接間で面接官を迎える就活生の心境だった。

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