第12話 本から出てきた少女

 隆太の時と同じだ。あれが財満を殺したんだ。

 わけがわからなかった。

 あれがなんなのか。

 なぜ財満が殺されたのか。

 そして、なぜ自分が狙われているのか。

 はっきりとわかるのは、このままなにもしなければ自分はあれに殺されるということだ。

 くそっ。いつだ。どこでだ。自分の行動のなにが原因で、今の事態を招いてしまった?

 伊与は手に持った本に視線を落とした。こいつを捨ててしまえば……?

 息が上がるほど走ったが、妙なことに気づいた。ここまで来るのに、誰ともすれ違っていないし、誰も見ていない。無我夢中で気づかなかった? いや、そんなはずはない。誰かを見つけたなら、それが年端のいかない女の子でも助けを求めたはずだ。

 振り向き、あれが追い掛けてこないのを確認した。走るのをやめたが立ち止まったりはせず、歩きで前進した。心臓の音が喧しいくらいに駆け巡り、呼吸が苦しかった。

 改めて周囲に視線を巡らせた。やはり誰もいない。

 馬鹿な? 東京都の端っこの町とは言え、駅からは二十分も離れていない場所だぞ。ほんの数百メートルを自動車で移動する田舎とは違う。商店街だって駅だって、たくさんの人で賑わっていたじゃないか。この静けさは不自然……と言うより異常だ。


「駅……。駅に戻ろう」


 伊与は、敢えて口に出した。そうでもしないと、この不自然な静けさに押し潰されそうだった。

 商店街に向かって走り出した。来た時に通過した商店街まで出られれば、あとは駅まで戻るのは簡単だ。まだ呼吸が苦しかったが、こんな常軌を逸した状況からは一刻も早く抜け出したかった。

 方向はもうわかるので、迷いながら通った細い道は無視して、突っ切るように向かった。

 商店街にはすぐに出られた。やはり、来る時にはかなり迷ったことを知った。

 人がいた。買ったものをエコバッグに入れて歩いている主婦。犬を散歩させている老人。不機嫌そうに早足で急いでいるサラリーマン。何人もの人が目に入った。

 このまま、駅まで戻れば……。そうだ。警察へ連絡しなくては……。

 少しだけだが余裕が持てた。

 しかし……。

 安心したのは一瞬で、伊与はまたもや理不尽な思いを味わった。

 視野の中にいる人々が、まるで伊与を中心に規制線でも張られているかのように、一様に距離を保っている。

 伊与が歩けばその分遠のき、立ち止まっても一度離れた人はどんどん遠ざかっていく。


「……なんで?」


 疑問はすぐに掻き消された。考える暇もなく、例の禍々しい空気を背中で感じた。

 やばい……。やってきた。

 迷子になった子供のように泣き出したくなった。

 このまま駅まで走り、電車に飛び乗ればなんとかなるだろうか?


『……っちだ』

「えっ?」


 伊与の頭に直接声が響いた。ここ数日で何度か聞いた声だ。夢の中にも出てきた。


『あっちに行け』


 周りを見渡しても、近くに立っている人はいなかったし、あっちと指や矢印で示されたわけではない。しかし、伊与には進むべき方向が明確にわかった。疑おうなんて考えなかった。頭に浮かぶ思惑のまま、駆け出した。


『早く私を呼び出せ。さもなければ死ぬぞ』

「くそっ! 誰だ? 呼び出すってなんだ?」


 破れかぶれになりながら叫んだ。

 公園が見えた。行けと言われた場所はあそこだ。伊与にはそれがわかった。

 迷わず飛び込んだ。昔ながらのブランコやすべり台がある、ありふれた公園だ。住宅地にあるわりには、比較的広かった。

 立ち止まり、振り返った。砂利がザッと音を立てて砂煙が舞う。

 いつの間に追いついたのか、異形の歪みがすぐそこまで迫っていた。


「やばいっ! 近づくんじゃないっ! 誰かっ! 誰か助けてっ!」

『無駄だ。ここら辺には俺の結界が張られている。さっきから、誰もおまえに近づかないだろう?』

「おまえが? おまえの仕業なのか?」

『そうとも。ただ、結界と言っても、たいしたことをしてるわけじゃない。感じたことないか? なんとなくここにはいたくないとか、あそこには近づきたくないとか。説明できないけれどもねっとりと絡みつく嫌な感覚ってやつさ。周囲の人間は、俺から発せられる毒気を本能で察知して近づかないのだ』


 ガクンと来る失意の中、再び例の声が響いた。


『私を差し置いて、周りに助けを求めるとはなにごとだ。アホかおまえは』

「誰だ? 誰なんだよ? おまえを呼べば助けてくれるのか?」

『当然だ。我々はもう一心同体なのだからな。さあ、呼び出せ』

「どうやってっ!?」

『レクテューレとは思えない台詞だな。おまえはもう知っているはずだぞ?』


 謎の声の主が言わんとしていることはすぐにわかった。この本だ。やはり、この本が出来事の鍵を握っている。


「ちくしょうっ」


 伊与は本を開いて叫んだ。


「出ろっ! 出てこいっ!」

『ふん。ようやくか』


 開いた本から光り輝く魔法陣が広がった。目も眩む鮮やかな金色が、複雑な文様を形作っている。本を持つ腕に重さが加わる。魔方陣はますます輝きを増し、伊与はたまらず尻もちをついた。


「うわっ!?」


 異形の歪みの接近が止まった。

 まばゆいほどの光が徐々に薄れ視界が開けた時、手にしていた本は消え、代わりに漆黒の衣装を身にまとった少女が立っていた。


『おお……。久方ぶりの日の光だ』

「な、なんだ? 何者だ?」


 伊与の声に、少女が振り返った。

 深い海の底を思わせる紺瑠璃の瞳に吸い込まれそうになる。目つきはきついが端正な顔立ちは誇り高い意志の表れを思わせた。長い絹糸のような金髪は麗しく、絡め取られそうだ。そして、細く華奢だが胸は豊満でやたらと強調して、抗いがたい妖艶さで迫ってくる。

 伊与は戸惑いながらも、素直に美しいと思った。


『おまえが新しいレクテューレか……。まだガキではないか。ん? 妙な格好をしているな。それに、ここはどこだ? 見慣れない建物がたくさん並んでいるぞ』


 少女は物珍しそうに周囲を見渡した。場違いな呑気さが、今の状況にそぐわない。


「お、お、おまえが、あれを追い払ってくれるのか?」

『あれ?』

「あれだよっ! あの……」


 伊与は言いかけた言葉を飲み込んだ。追い掛けてきた歪みが、明確な姿となっていた。野生の猫を思わせる頭部とチンパンジーのような体。右手には剣を握っている。まったく見たことのない姿形よりも、見たことのあるものが寄せ集まっている怪物は、よりグロテスクに映った。

 でたらめな容姿をした怪物が、少女と対峙していた。


「敵だっ」


 伊与の台詞に、少女は見下すように口角を上げた。


『敵? そんな者がどこにいる? 敵というのは脅威となる者を言うのだ』


 少女の挑発に触発されたのか、怪物は雄叫びを上げて突進してきた。甲高い、耳を塞ぎたくなる奇声だったが、頭に直に響くので防ぎようがなかった。


「危ないっ!」


 伊与は叫んだ。怪物が剣を振りかざすのにも関わらず、少女は余裕を崩さない。


『ふん』


 体を捻り、振り下ろされた剣をかわした……かに見えた。

 剣は少女の胸を切り裂き、鮮血が吹き出した。裂かれた衣服から乳房がのぞき、真っ赤な血と相まって妙に艶めかしい。

 同時に、伊与の胸にも鋭い痛みが走り血が噴き出した。


「うあっ!?」

『おぴゃっ!?』


 少女の口から奇妙な声が漏れた。この声も伊与の頭に直接届いた。


「なんだ? やられてるじゃないかっ!?」

『変だぞ? なんだか動きが鈍い……?』

『クカカ……』


 怪物が大口を開けた。笑っているのか。


『運の良し悪しって絶対にあるよなぁ。紙の束の中に大事な書類が紛れ込んだとする……。頭から捲っていったら、見つかるのはほとんど捲り終わってからだ。同じことが起きて、じゃあ次はケツから捲っていくと、今度は頭の方にありやがる。俺の人生はいつもそうだ。ムカつくよな~……。神様から、おまえなんかゼッテー幸せにしてやんねーって言われてるみてえでよ』


 いきなり饒舌になった怪物に、伊与は異様さで背筋が寒くなった。

 運? 俺の人生? こいつはいったいなにを喋っているのだ?


『奴に言われたから、あてもなく捜索してたら、なんか馴れない気配を発するレクテューレを感じ取ったんだ。誰だかわからなかったから、気配の近くにいた奴を片っ端から襲ってやった。イキのいいガキに、古本屋のジジイ。それに、やたらグリモワールについて調べていた貧相なおっさんだ。だけど、よりにもよって一番ハズレっぽかったおまえがそうだったなんてな。おかげで、三人も罪のない奴に怪我させちまった。いや、一人は勢い余って殺しちまったが……。俺って本当に運がないぜ』

「古本屋の……。おまえ、麻生さんもっ?」


 伊与の声など聞こえていないのか、怪物は喋り続ける。


『つまりよぉ、運命ってのは生まれた時から決まってるってことだ。運の良い奴は努力しなくても金が手に入り、女を抱け、たらふく美味いもんが食える。けど、運の悪い奴は、どんなに努力しても一生貧乏で、童貞で、外食なんて月に一度できるかどうかだ。真面目に生きるなんて馬鹿らしくてやってらんないよなぁ~』

『その台詞は、レクテューレがおまえを通して喋らせているのだな? なんとも薄っぺらい者に拾われてしまったものよ。同情するぞ』


 伊与のことは無視した怪物だが、謎の少女の挑発的は言葉には反応した。


『おまえ……何者だ? おまえのような悪魔、見たことも聞いたこともないぞ』

『ふん。そうだろう。おまえのような下級悪魔がおいそれと会える相手ではないからな。私の名はシュヴァイツァー・ヴィーテルブラッド。本来なら、おまえなんか会話すらできないやんごとなき者だ。頭が高いぞ』


 二人は当たり前のように会話しているが、伊与は混乱しっぱなしだった。

 悪魔がなんだって? あの二人、いや、一人と一匹? とにかく、わけがわからない。俺の頭がどうかしてしまったのか?


『あの程度の攻撃も避けられないで、凄んでんじゃねーぞ。大口叩いたこと、後悔させてやる』


 伊与の戸惑いなど置き去りに、双方の火花は激化していった。

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