第10話 待っていても兎は来ない
伊与は息苦しさを覚え、我に返った。
漆黒の中にたった一人。足元さえ見えず、見上げても明かりとなるものはなにもない。だが、不思議と不安はまったく感じなかった。
そうか。これは夢だ。
そう認識した時、声がした。例の耳からではなく直に響く声だ。
『……かしいやつだ』
「え?」
周囲を見渡しても誰もいない。第一、真の闇の中なので、すぐ隣に誰かがいたとしても視覚できない。いや、ここが夢の中なら或いは……。
『もどかしいやつだと言ったのだ』
目の前にぼうっときた靄が浮き出た。
「ううっ!?」
伊与の毛穴がぶわっと開いた。隆太が襲われた時に目撃した、得体の知れない影と似ていたからだ。
靄は一気に広がり、形を成した。明確ではないが、人の、少女の姿をしているように見えた。
『さっさと目覚めよ。おまえが目覚めなければ、私も解放されぬ』
「だ、誰だ? 解放ってなんのことだ?」
『グリモワールを手にした時点で、私とおまえは繋がったのだ。今さら逃げられはせんぞ』
「グリモワール? グリモワールって……」
『急げよ。やつらは待ってはくれんぞ』
少女らしき影が、闇の中に溶けた。
伊与の目には、見慣れた天井が滲んでいた。まだ薄暗い。枕元に置いてあるスマートフォンで時刻を確認すると、午前五時を過ぎたばかりだった。
息苦しさが現実までついてきている気がして、一度深く息を吸い込んだ。そのままブラウザアプリを立ち上げて、夢の中で聞いたグリモワールなる単語を検索した。たしか、財満が口にしていた魔術書がそんな名だった。かなりの数のサイトがヒットした。
店舗や会社でその名を掲げているものは飛ばして、有名なインターネット百科事典のところでタップした。
それによると、グリモワールとはフランス語で魔術の書物を意味すると記してあった。さらに読み進めていくと、悪魔や精霊、天使などを呼び出して、願い事を叶えさせる手順が記され、儀式を行うのに必要な魔法円やペンタクルやシジルのデザインが記された書物とある。
ペンタクル……。たしか、その単語も財満先生は口にしていた。天使? 悪魔? そんなことが……。
理性は戯言だと跳ね返そうとするが、実際に経た体験がそれを許さなかった。あの時にぼんやりと見た襲撃者は、悪魔と呼ぶに相応しい形容をしていなかったか。
「………………」
やはり、あれか? あれを手にした時から、常に視線を感じてならない。
天使や悪魔などいきなり信じるつもりは毛頭ないが、良くないものを引き寄せるなにかがあるのかもしれない。
雀の鳴き声につられて、伊与はカーテンを開けた。日が昇るのが遅くなったが、それでも既に空は薄紫に染まっていた。
隆太のことは事故ということで伝えられた。教室内は騒然となったが、担任からは事件性を匂わす発言はなかった。ただ、危険な場所に立ち入らない、暗い夜道には気をつけるなど、小学生に聞かせるような注意を受けた。
クラスメイトは、伊与の方をちらちら見ながら囁きあっていた。隆太と一番付き合いが深い伊与に、なにか聞きたそうだった。周囲の目が、口が、こんなにも気持ち悪いと思ったことはなかった。
どいつもこいつも好き勝手な想像をしているのだろう。好奇心を満たすためだけに情報を仕入れたがっている。人の不幸に蜜を塗り食い散らかし、満足したら今度は当たり構わず自分色に染めた噂を吐き出したいのだろう。
だから、独りがいいんだ……。
もどかしさで授業はほとんど頭に入らなかった。待ちわびた放課後、伊与は職員室に顔を出した。例の本を返してもらうためだ。
この数日の常識外れの出来事は、あの本を手にしてから始まっている。返品……いや、あれがヤバいものなら麻生さんに迷惑が掛かる。燃やしてしまうか、重しを括り付けて川に沈めるか……。とにかく破棄した方が良い。
職員室に財満の姿はなかった。今日も来る日なのだが……。
「あの、財満先生を探しているんですが」
近くの席にいた教師に訊いた。三十代後半の女性の教師だ。科学を教えている。栗田という名だが、生徒にその名で呼ぶ者は少ない。マロンタのニックネームで呼ぶ者が殆どだ。だが、さすがに直接本人には言えないので、彼女は自分がマロンタと呼ばれていることを知らない。
「財満先生なら、今日はお休みよ」
「そうなんですか?」
「体調を崩されたようよ。ここのところ涼しくなってきたから、風邪でもひいたのかしら」
「そうですか……」
言いながらも、伊与にはひょっとしたらと思っていた。遙も隆太も、あの本に触れた者が続いて気分を悪くしている。
「財満先生に、なにかご用?」
「あ、ちょっと預けてる物があるので、それを返してもらおうと思って……」
「そう。次に来られるのは明後日だから、それまで待ってもらうしかないわね」
伊与はマロンタの言葉を素直に受け入れられなかった。あの本は一刻も早く回収した方が良いと、心の奥の方が訴え掛けている。
「財満先生の自宅を教えてもらえませんか? 取りに行きます」
マロンタは少し間を開けた。
「……体調が悪いところに来られても、財満先生もご迷惑でしょうから、今日はやめときなさい」
「でも、大事な物なんです」
「ん〜……。今は教師と生徒の間にも色々とあるから……」
目で「わかるでしょ?」と訴えてくる。今は学校の教師を尊敬する生徒などおらず、教師も仕事と割り切って職務に当たっている時代だ。互いに信頼関係を築くには難しい。あまりプライベートな情報の開示は避けたいのだろう。
「……わかりました」
「ごめんなさいね」
たいしてすまなそうな素振りも見せず、マロンタは会話を打ち切った。
徐々に湧き出してくる焦燥と苛つき。消化しきれない思いを抱き、伊与は職員室を出た。
帰宅途中で麻生のことが気になり、伊与は店に電話を掛けた。彼もあの本に触れている。
麻生は出なかった。七回目のコールで電話を切った。あそこの定休日は火曜日だから、今日は営業しているはずだが……?
まとまらない考えが頭の中で右往左往している。
スマートフォンをポケットにしまったが、すぐにくぐもった着信音がした。着信に気づいた麻生が掛けてきたのだと思い急いで取り出した。登録されていない相手から着信があっても、客商売なら掛け直してくるかもしれない。タッチスクリーンを見ると、通話アプリの着信を告げるポップアップが表示されていた。
だが、表示を見た伊与は違和感を覚えた。なんだ? と思ったのは一瞬で、すぐに理由がわかった。設定ではメッセージ通知の内容表示を有効にしている。だから、ポップアップには差出人とメッセージの内容が表示されるはずだ。それなのに、今来た着信には「新着メッセージがあります」としか表示されていない。
「…………?」
開くのはまずい気がしたが、なにか抗い難い誘惑に駆られた。このメッセージは確認した方が良い。わけも分からずそう思った。
自分の勘が指先を動かした。アプリを開くと、表示されたのはとある住所だった。そして、やはりおかしい。トーク画面にしても、差出人が表示されていない。
「これって……」
しばらく考え込んで導き出した答えは、この住所は財満の自宅だというものだった。なんの根拠のないものだったが、間違いないと妙な自信があった。
表示されている住所は、江戸川区M町とあった。最寄り駅はJR小岩駅だ。小岩駅なら錦糸町駅から各駅停車で四つ目の駅だ。それほど遠くないが、まったく馴染みのない町だった。
迷った末、行ってみることにした。
自分は今、明らかに異常な事態に巻き込まれつつある。ただ待っているよりも、行動した方が対策を練りやすいと考えた。
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