第9話 脅威の徒食者
隆太は一命を取り留めた。早くに処置できたのが幸いだったと聞かされた。伊与の腕も七針縫ったが、隆太の怪我に比べれば大したこととは思えなかった。
病院で経験したことは、あまり覚えていない。覚えていないというより、なにもかもが曖昧にぼやけてしまい、上手く記憶に刷り込まれなかったと表現した方がしっくりくる。
隆太の両親が病院に駆けつけたことは覚えている。伊与など眼中に入らなかったようで、隆太に宛がわれた病室に駆け込んでいった。
警察から事情を訊かれたことも覚えている。上手く説明できなかった。突然の出来事だったので、どうしても経緯が不自然になってしまった。ただ、いきなり斬られたことを話した時に、数日前に妹から聞いた話と酷似していると気がついた。
犯人を目撃しなかったのかを再三訊かれたが、見ていないと言うしかなかった。得体の知れない影については、一言も言わなかった。冷静に考えて、そんなことを口走れば頭がおかしいと思われ、証言のすべてが信用されなくなる。好意的に受け取ってくれたとしても、混乱により幻を見たに過ぎないと片付けられてしまうのは確実だった。
言わなかったことがもう一つある。戻った時に見た二人組だ。険しい顔をしていたものの、それは殺意とか攻撃性とは違かった気がした。それに、隆太が襲われた瞬間を見ていなかったのは事実なのだから、迂闊なことは言えないと思った。
詳細については「知らない」「わからない」を押し通した。自分の口から発せられた言葉を、まるで他人が喋っているかのように聞いていた。
結局、警察から「後日改めて質問することが出てくるかもしれない」と協力を要請され、伊与は開放された。
帰る際、隆太の両親に挨拶した。警察と話し込んでいたために、すり抜けるほどの言葉を交わすに留まった。逃げ出すように病院を後にしたが、両親の自分を見る目が厳しかったのは、けっして気のせいではなかったはずだ。
パソコンのモニターと長時間にらめっこをしていると、どうしても集中力が低下してくる。
三影はマウスから手を離して、そのまま眉間を揉んだ。微かな痒みが涙と共に流れ出ていく。
「ふう……」
声には出さずに、長く息を吐いた。デスクワークは体力こそ使わないが、神経を摩耗してなんともいやらしい疲労が蓄積される。実働部隊の一員としてあちこちを駆け巡っていた頃が懐かしかった。
「三影さん。お疲れのご様子ね」
隣の女性が話し掛けてきた。渡辺という名で、三影よりも六年遅く『ビブリオテーク』に入職したが、仕事内容は三影と同じく情報収集が主だ。
「そうでもないんだが……。年かな。長いことモニターを見ていると目が疲れてしょうがない」
「また~。三影さん、全然お若いですよぉ。目が疲れてるなら、目薬お貸ししましょうか?」
「いや、少し休憩を取らせてもらうよ」
「そうしてください。雲とか遠くのものを眺めてるといいですよ」
「最近の子供はなんでもかんでもスマホで済ませてしまうから、パソコンを扱えないというのは本当なのかな?」
「さあ? どうなんでしょうねぇ」
取り留めのない会話を終わらせ、三影は大きく背伸びをしてから席を立った。
休憩室でコーヒーを飲みながら、スマートフォンで最新ニュースをチェックした。
パソコンで目が疲れたのに、休憩しながらスマートフォンを眺めている。矛盾した行為と自覚はあるものの、スマートフォンをしまおうとは思わなかった。
所詮、私も現代人というわけだ……。
熱いコーヒーを嚥下した時、眺めていたスマートフォンが震えながらG線上のアリアを奏でた。三影が着信音に設定しているメロディだ。
紙コップを置き、電話に出た。慌てて置いたので、中身が少し跳ねてテーブルを汚してしまった。
「……私だ」
『掛札だ。あんたが言ってたもんらしいのを見つけたぞ』
「よし。やはり、そいつもグリモワールの悪魔なのか?」
『………………』
掛札からの返事がない。三影は一度スマートフォンを耳から離してスクリーンを見た。
「どうした?」
『それが、よくわからねえんだよなぁ。当たりだとは思うんだけど、確証が得られないんだよ。なんとなく嫌な感じでよ、俺のスクラーヴェが不機嫌なんだよ」
「……仕掛けたのか?」
『ああ。手っ取り早く片づけちまおうと思ってな。だが失敗した。途中で邪魔が入った』
「邪魔と言うことは、そいつもレクテューレなんだな?」
『そうだ。鎧を纏ったような悪魔を従えてた。やり合っても負ける気はしねえが、騒ぎが大きくなるのは得策じゃないと思ってな』
「賢明な判断だ……」
言いながら、三影は邪魔をしたスクラーヴェについて考えていた。
鎧の悪魔……? レクテューレということは、私と同様ビブリオテークの一員である可能性が高い。しかし、同じ組織に属しているとは言え、自分が使役するスクラーヴェについては互いに秘密にしている。スクラーヴェの特性を知られるということは、弱点のヒントを与えることに他ならないからだ。
『どうする? 世間に騒がれるのは怖くないが、ビブリオテークの連中に嗅ぎつけられたら厄介なんじゃないか? 手を引くか?』
三影は少し考えた。掛札は黙って待っている。
「……いや。そのグリモワール、なにか気になる。正体を確かめたい。引き続き調べてみてくれ」
電話口なので当然見えなかったが、掛札の口元が嬉しそうに歪んだ感触が伝わってきた。
『構わないぜ。金の方は? 追加料金は払ってくれるんだろうな?』
「いつもの口座に振り込んでおく」
三影は機を逃さず金をせびる掛札に卑しさを感じたが、同時にその方が良いとも思った。金を要求している間は自分の手足をとして使える。それに、金銭だけの繋がりであれば、こちらまで辿り着く糸は細い。
『確かめる方法は? また仕掛けてもいいのかい?』
「任せる。ただし、足が付かないようにな」
『ひひっ』
掛札は今度は声を出して笑い電話を切った。金なんかよりも、スクラーヴェを使って暴れられるのが嬉しいのが丸わかりだ。卑屈な者ほど、身に余る力を手に入れた途端に増長する。
三影が掛札を見つけたのは一ヶ月ほど前のことだった。
グリモワール単体を探し出すことは困難を極める。だが、レクテューレや
彼は鬱屈した欲望につけいられ、悪魔に取り憑かれた。そんな痴れ者を言葉巧みに誘導し利用するのは、三影にしてみれば容易いことだった。
あの愚鈍な徒食者に任せて大丈夫なのか、ふと不安になった。しかし、所詮は使い捨ての駒だと思い直し、三影は残っているコーヒーを喉に流し込んだ。
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