第8話 友の危難
学校からの帰り道。帰宅組はとっくに姿を消していた。道行く学生は伊与と隆太だけだ。日に日に風が心地好くなり、ちらほらと秋の気配が濃くなっていく。
暑いのが苦手な伊与には、一年で最も嬉しい季節だ。春も気持ちいいが、これから暑くなるんだと思うと素直に楽しめない。その点、秋は年末への入り口だ。ハロウィンやクリスマスなどの楽しい想像が次々と傾れ込んでくる。一緒に過ごす彼女はいないが、それでもお祭りやイベントは心を浮き立たせる。
「なあ、あの本、財満に預けちまって良かったのかよ?」
隆太の声には、少しだけだが苛立ちが織り交ぜられていた。
「なんで?」
「だってよ、もしかしたら物凄い値打ちもんかもしれねえだろ。鑑定家っていうの? そういったのに見てもらった方が良くねえ?」
「まさか……。そんな本だったら、古本屋に無造作に置いてないよ。仮に価値のあるもんだったとしても、教師がパクったりしないよ」
「あいつは教師じゃなく非常勤講師だ。わからねえぞ。人間、欲にかられると信じられないことをするからな」
隆太は、まるで自分のことのように心配していた。伊与には少し意外だった。
「それより、ゲーセン寄るんだろ?」
「……いや、自分から誘っといて悪いけど、また今度にしてくれ。なんだかこの辺りがムカムカしてよ」
隆太は胃の辺りを擦った。
「……じゃあ、今日はもう帰ろうか?」
伊与は言いながら、既視感を抱いていた。
「いや、どこかでさっぱりしたものが飲みたい」
「なら、カフェに行こう」
「カフェか……。それより、自販機でなんか買って公園で休まねえか? なんだか本格的に気分が悪くなってきた」
「おい、大丈夫か?」
「ちょっと……ヤバいかも」
ふいに隆太の声が途切れた。不自然な途切れ方だった。
「どうした?」
伊与が訊くのと隆太が倒れるのは、ほぼ同時だった。
「おい?」
転んだのではないと、すぐにわかった。真下に崩れ落ちて倒れたからだ。
「なんだ? どうした?」
軽い混乱を覚えながら、伊与は屈んで隆太の背中を揺すった。
「うっ!?」
掌に湿った感覚があった。
見てみると、べったりと生暖かい液体で濡れていた。濃厚な赤。それが血だと理解するのに一瞬の間もなかった。
「うわっ!」
驚いてバランスを崩し、尻餅をついた。隆太の背中がざっくりと斬られている。じわじわと滲む血は、瞬く間に範囲を広げた。
「隆太っ!」
突然の出来事に思考が追いつかなかった。自分がなにをすべきなのかとっさに思いつかなかった。
「あ……う……」
意味のない呻き声を漏らしてから、ようやく助けを呼ばなくてはならないと思い至った。
「き……救急車……」
ポケットからスマートフォンを取り出した。まだ混乱が治まらず、救急車を呼ぶのは何番だったか数秒考えた。普段は登録した相手を呼び出すだけなので、番号を押すだけでも戸惑ってしまった。
震える指で不器用にタッチスクリーンを操作し、やっとのことで一一九を押すと、管轄の消防本部はすぐに出てくれた。
『火事ですか? 救急ですか?』
「あ、あの、救急。救急です。血が、友達がいきなり倒れて……」
焦ってしまって、要領を得ないことを口走ってしまった。電話先の相手からの誘導で、なんとか伝えるべきことを整理した。
「場所ですか? えと……」
伊与は街区表示板がないか視線を巡らせた。幸い、民家の門柱に番地まで記された表札を見つけた。
伝えようとした瞬間、うなじの毛が逆立つほどの悪寒を覚え反射的に身を捩った。
前腕をなにかが掠めていった衝撃があり、思わずスマートフォンを手放してしまった。カラカラと乾いた音を立てながらアスファルトの上を滑って、伊与から離れていく。
「あぐっ!」
伊与は腕に熱さを感じた。なにが起きたか理解するより先に、自分も怪我をしたということはわかった。
『ほう……。感じ取ったか』
どこかから声が聞こえた。耳を介さず、直に脳内に入り込んできた。
「ううっ……」
目の前の空間がぐにゃりと歪み、成人男性と同じくらいの大きさの影が滲み出た。成人男性と同じくらいと形容したのは、それが明らかに人とは違う体型をしていたからだ。
ぼんやりとしか見えなかったが、腕が気味悪いほどに長かった。しかも、右腕の方は左腕の倍近くあった。呆然と見ていると、それは握られた刀剣だと気付いた。
あれで斬られたのか?
異形が刀剣を高々と掲げた。胸を貫く殺意に身の毛がよだった。
「うわあああああっ!」
伊与は我知らず叫んでいた。考えるよりも先に体が反応し、駆け出していた。
「なんだあれ? なんなんだよ?」
足がもつれ、呼吸が苦しくなった。どれくらい走っただろう。胸が焼けつくほどに熱くなり、もう走れなかった。
振り返って後方を確認した。得体の知れない怪物は追ってはきていない。
喉がくっついてしまうほどに乾いている。口内に鉄サビの味が広がっていた。口を大きく開けて酸素を貪り、なんとか気を落ち着けた。
「つっ……」
今頃になって斬られた腕が痛くなってきた。隆太ほどではないが、血が滴って指先まで伝っている。
「り、隆太……」
隆太を置き去りにしてしまった。救急車は来てくれているのか? いや、住所までは言えなかった気がする……。
隆太。俺のたった一人の友達……。あの出血では、処置が遅れたら死んでしまうのじゃないか? しかし、戻ればあの凶悪な怪物が……。
助けを呼ぼうにもスマートフォンも置いてきてしまった。
「う〜……」
萎縮する気持ちを叱咤し、伊与は引き返した。不安になる浮遊感があり、まるで自分の足ではないようだ。助けなければならないという義務感で戻っているが、身体は抗っている。そんな感じだ。
現場に戻ると、怪物は姿を消していた。代わりに一組の男女が立っていた。伊与と同年代と思われるが、事件現場だと言うのに妙に冷静だ。怪物より遙かにましだが、二人からは只者ではない雰囲気が漂っていた。
足下に伏している隆太は倒れた時と同じ姿勢のままだったが、先程より血溜まりが広がっていた。
二人が何者なのか分からず、不可解な状況であった。しかし、伊与の直感が二人を隆太から遠ざけた方が良いと訴えた。
「お、おい」
伊与の声に二人が振り返った。二人とも端正な顔立ちをしていたが、少女の方はすべてを射抜くほど目が鋭利だった。
鋭い視線と異常な事態に、伊与の鼓動は再び高まった。心臓の音が相手に聞こえないか心配するくらい息苦しかった。
「そいつから、は、離れろ」
声が震えてしまったが、見栄を張っている場合ではなかった。恥ずかしいとかみっともないという感情は道端に捨てて、二人に近づいた。
少女が少年に耳打ちすると、二人は踵を返して駆け出した。予想外の行動に、伊与も引きずられて走り出した。
「おいっ、待てっ!」
二人は伊与を無視してそのまま行ってしまった。
思わず呼び止めてしまった。しかし、二人が本当に引き返してもどうすれば良いのかわからず、なにもできなかっただろう。
二人が何者なのか気になったが、今は隆太の救助が最優先だ。伊与は転がったままの自分のスマートフォンを拾い、再び救急車を呼ぼうとした。その時、聞き覚えのあるサイレンが近づいてくるのに気づいた。サイレンはどんどん近づいてくる。
もしやと思い、少し電話を掛けるのを待っていると、救急車がこちらに向かっているのが見えた。
「おーいっ、こっち。こっちです」
救急車は両腕を大きく振る伊与の目の前で停まり、救急隊が出てきた。血溜まりに倒れている隆太を見つけると、すぐに後部ハッチからストレッチャーを運び出し、隆太を乗せた。
伊与は救急隊員からいくつか質問されたが、余裕がなくなってしどろもどろの応対になってしまった。だが、隊員の方はてきぱきとした動きで隆太を車両に運んでくれた。事故現場で混乱に陥っている相手の対応に慣れていると思わせる、無駄のない動きだった。
「君も怪我をしてるじゃないか」
救急隊員が、伊与の腕から血が出ているのを目ざとく見つけた。
「いや、これは……」
「君も乗って」
救急隊員に促されるまま、伊与は救急車に乗り込んだ。救急車はすぐにサイレンを鳴らして発車した。車内には見たこともない設備が並んでいたが、それらは伊与の目には一切入らなかった。
苦しそうに呼吸する隆太を見て、伊与まで息苦しくなった。なにもできずに呆然とするしかなかったが、頭の片隅では救急車を要請した時に場所をきちんと伝えていただろうか? と考えていた。
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