第7話 正体不明の黒書

 授業終了を知らせるチャイムがスピーカーから流れ出た。

 教室内は開放感に満たされ、部活に赴く者と帰宅の準備を始める者に分かれる。伊与と隆太は帰宅組だ。

 伊与が部に入らない理由は、チームワークとか集団生活が煩わしかったからだが、隆太は違かった。部活動よりもいろいろなアルバイトを経験していた方が、社会に出てから役に立つというものだった。

 たしかに、高学歴を経て社会に出ても、適応できなくて引きこもりになるなんて人の話も聞く。今のうちから社会に揉まれておくのも良いのかもしれない。

 伊与はふと思う。自分は大丈夫だろうか。愛想が良いとは言えない自分がサラリーマンになったとして、チームを組んで作業したり、飲み会に付き合う姿が想像できない。入社して一ヶ月も経たずに孤立してしまうのではないだろうか。もっとも孤立したところで気にもしないだろうが、生きていくためには金は必要だ……。


「帰りにゲーセンでも寄ってかねえか?」


 いつもの通り、隆太が近づいてきた。


「バイトは?」

「今日はシフトから外れてるんだよ」


 隆太はにんっと歯を見せた。


「いいけど、その前に付き合ってくれないか?」

「ん? どっか行くのか?」

「こいつを財満ざいま先生に見てもらおうと思って……」

「財満に? なんだ、それ?」


 伊与は鞄から本を取り出した。数日前に購入した不思議な一冊。

 麻生は悪戯で作られた同人誌と言っていたが、今ではそんなもんではない気がしていた。表紙やあちこちのページに記された魔法陣や解読できない文字など、手が込み過ぎている。それとは別に、製作者がこの本に込めた思いが伝わってくる気がするのだ。お遊びなんかではない、もっと切実ななにかが。

 隆太に入手した経緯を話し、財満に文字の解読が可能か訊くつもりだと伝えた。


「財満にそんなことできるかぁ?」


 財満幸人ざいまゆきとは非常勤の世界史の教師である。学芸員の資格を持っているにも関わらず、博物館などではなく、高校で教鞭をとっている変わり者だ。

 隆太は伊与が取り出した本を二〜三ページ眺めた。


「おまえ、こんな本も買ってるの? なんかオタクっぽくねえ?」

「なんか吸い寄せられたっていうか、つい……みたいな」

「……いくらしたんだ?」

「百円」

「安いなっ! 俺だったら百円でも買わないけど。あと二十円足して缶コーヒーでも買うけど。でも、これ一文字も読めねーじゃん。財満なんかに解読できんのか?」

「財満先生、考古学の勉強してんだろ。俺たちよりは迫れるんじゃないのか?」

「俺も括りに入れるな」

「隆太なら解読できるのか?」


 伊与に挑発され、隆太は再び本を開いたが、眉間にしわを寄せて唸るだけだった。



 財満は職員室の自分の席にいた。もう四十代に手が届くが独身だ。それが関係しているのかはわからないが、物腰も喋り方も若々しく、学生との会話も柔軟性に富んでいるので、けっして不人気ではない。

 マグカップで緑茶を啜っていたところに声を掛けた。カップには茶色い渋がこびりついており、コーヒーも同じカップで飲んでいることがわかる。


「僕のところに質問があるなんて、珍しいな」


 財満は柔らかい笑顔で二人を迎えた。


「ちょっと先生に見てもらいたい物がありまして……」


 伊与は例の本を取り出し、財満に渡した。


「どれどれ……」


 はじめは、それこそ問題の解き方を教わりに来た生徒に接する態度で応対していた財満だったが、伊与から渡された本を凝視しているうちに、目の奥底が光り眉間には深い彫りが生じた。


「雫石くん……だよね。これ、どこで手に入れたんだ?」

「神保町にある古本屋ですけど……」


 財満は低く唸った。思っていた以上に財満が真剣な表情を見せたので、伊与の口調は、つい言い訳をするようになってしまった。


「あの……その本に書いてある文字が読めればと思ったんですけど……」

「面白いな……」


 財満は、自分の世界に入り込んでしまった。ブツブツと口の中で呟いている。考古学に携わる者の琴線に触れるものが、この本にはあるということか。

 伊与と隆太は、互いに顔を見合わせた。


「先生?」

「……ああ、すまない。つい……」


 財満はばつが悪そうにはにかんでみせた。


「文字が読めたんですか?」

「いや、まったく読めない。けど、不思議な点が多く見られるね」


 財満は、再び本に目を落とし続けた。


「まず、この文字だけど、ヴィンチャ文字やルーン文字を連想させる。似たようなものはいくつか知っているけど、僕の知識の範囲では特定できない。ヨーロッパの古い文化は結構勉強した自負はあるんだけどね」


 自嘲気味な目で二人を見上げる。


「それから、この装丁は十九世紀の、やはりヨーロッパで盛んに施されたものだ。この流れから推し進めると、この本が製作されたのは二百年も前ということになる」

「そんなに古いんですか?」


 伊与は思わず感嘆の声をあげた。周りの教師陣から視線が集まった。

 財満は、掌を伊与に向けた。


「まあ、落ち着いて。飽くまで単純に受け止めればの話だよ」

「どういう意味っすか?」


 隆太も興味が湧いてきたのか、身を乗り出して本の中身を覗き見ている。


「もし、本当にそんな時代に作られたものなら、もっと傷んでいなければおかしい。ページを捲っただけでボロボロ崩れるくらいにね。この本は古ぼけているとは言え、状態は良好だよ。つまり、故意に二百年前に作られたものと勘違いさせる細工が施されていると考えられる」


 伊与は麻生が推理した同人誌説を話した。もっとも、伊与自身は今では同人誌説には否定的になっていた。だからこうして、財満に訊きに来たのだ。


「同人誌か……。いや、それにしては……」


 財満は、意味ありげな眼差しを伊与に向けた。


「雫石くん。もし良ければ、しばらくの間この本を預からせてもらえないだろうか」

「調べるんですか?」

「うん。実に興味をそそられる。これがルーン文字をモデルにしたものなら、解読も可能かもしれない。それに、この魔方陣らしき模様も手掛かりになりそうだ。ルーン文字は日常に使われていた他にも、呪術や儀式に用いられることもあったんだ」

「やっぱり、それ魔法陣ですか?」

「う〜ん……。ペンタクルとか紋章の類だろうね。ひょっとしたら、魔術に関して記された本かもね。昔、ヨーロッパで流布した魔術書があるんだ。グリモワールと呼ばれている。ゲームとか小説とか漫画とかに出てくるの見たことないかい?」


 財満は本をぱらぱらと捲りながら、新しい玩具を与えられた子供みたいに目を輝かせていた。

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