第6話 苦くなったコーヒー

 グリモワール・ホルスターが震えたような気がした。赤嶺栞あかみねしおりは立ち止まって周囲に視線を走らせた。


「なんだろう……。胸がザワザワする」

「どうかしたんですか? 栞さん」 


 隣を歩いていた瀬音健せおとたけるも、つられて立ち止まった。二人揃って、通行の邪魔にならないように歩道の端に寄る。日はとっくに沈んだとは言え、繁華街にはまだたくさんの人の往来がある。


「うん……。なんだか、この子が騒いだ気がして」


 栞はグリモワールを収めてあるホルスターに手を当てた。途端に瀬音の表情が引き締まった。


「なにか異常でも?」

「ううん。もしそうなら、もっと大きな反応があるはず。私の神経が過敏になっているのかな」


 そう言いながらも、栞は鼓動が若干速くなっているのを自覚していた。

 二人は密命を帯びて、とある人物に会ってきたばかりだった。その人物が持っている情報次第では次の行動に大きな動きが生じる面談だった。しかし、いざ聞いてみるとなんの根拠もない与太話だった。期待を寄せていた分、大きく肩を落としての帰り道だった。

 こんなことは何度も経験している。いちいち落ち込んでいられないと自分を奮起させている時での、前触れのないザワつきだった。


「大丈夫ですか? どこかで休憩していきますか?」


 健が大げさに心配してくる。気配りができるのだが、その分真面目過ぎる一面があり、栞は少しだけ鬱陶しさを感じてしまう時があった。とは言え、当てにしていた情報が無駄だったとわかった以上、今日の仕事はおしまいで急いで戻る必要もない。


「そうね。甘い物でも食べていこうか」


 栞の承諾を得て、健は相好を崩した。

 全国的に知られているコーヒーショップに入った。店内は程よく空いていて、席はすんなり確保できた。

 栞はモンブランとアメリカンを注文し、健はイチゴパフェと炭火コーヒーを頼んだ。健は栞より一つ年下で、線が細い。二重瞼で睫毛も長く、女の栞でも嫉妬してしまうくらい整った顔立ちをしていた。そんな健がパフェをスプーンで掬って口に運んでいると、似合い過ぎていて笑いを誘う。


「なんですか?」


 栞の視線に気付いた健が動きを止めた。


「ん。美味しそうに食べるなって思って」

「甘いものは大好物なんで」


 歯を見せる健に、栞はふっと息を吐いた。

 栞と健はグリモワールの読み手だ。ドイツ語で読み物や読書を意味する言葉から『レクテューレ』と呼ばれでいる。二人ともグリモワールを所持しており、悪魔を使役することができる。ただし、健は三ヶ月前に試験を合格したばかりで、初心者の域を出ていなかった。

 どういう経緯があったのかはわからないが、健の経験値を上げるために行動を共にするよう命じられた。栞の仕事に瀬音がくっつくようになってから、はや二ヶ月。最初は厄介なものを押し付けられたと不貞腐れたが、しょっちゅう一緒にいればそれなりに情も湧いてくる。


「ねえ、栞さん」


 パフェを綺麗に平らげ、コーヒーを啜りながら健が言った。


「こんなことしてて、グリモワールって見つかるもんなんですか?」


 ストレートな質問に、栞は口に運ぼうとしていたスプーンを止め、改めて口内に放り込んだ。


「……嫌になった?」

「そっ、そんなことはないですけど」


 健は慌ててカップを受け皿に戻した。少しだけ乱暴な音が鳴った。


「グリモワールはその性質上、極端に情報が少ない。今日みたいにカスを掴まされることなんてしょっちゅうよ。もしかしたら一生巡り合えないかもしれない。でも……」


 栞は言葉を区切ってコーヒーを口に含んだ。少し冷めていた。


「これは誰かがやらなければならないことだし、それができるのは私たちレクテューレだけ。空虚な結果になろうが、先代たちの意思を引き継ぎ続けなくてはならないの」

「わかってます。だから、愚痴とかじゃないんですってば」


 栞の口調が熱を帯びたため、健はますます焦って弁解した。


「でも、結果を出さなければ意味がないってのも確固たる事実です。僕が言いたいのは、地道な聞き込みや調査なんかじゃなく、グリモワールを見つけることができる探知機みたいのがあればいいなってことで……」

「そんなもんがあったら苦労は……」


 言い掛けた言葉は、途中で喉の奥に引っ掛かった。先ほど、栞のグリモワールが微かに騒いだのを思い出したからだ。

 あれは、なにかしらの魔力に反応していた? それも今まで見聞きしたことがないほどの強大な力に?

 馬鹿な。

 浮かんだ考えを即座に打ち消した。

 グリモワールの読み手であるレクテューレと契約を結んだ悪魔『スクラーヴェ』は、一心同体の絆で結ばれている。ある程度の意思の動きや感情の流れも、互いに感じ取ることが可能になる。だからわかる。先ほどのざわめき、あれは慄きだったのではないか?

 自分のスクラーヴェ『リュストゥング』は、悪魔の中でも屈強を誇る戦士タイプだ。それが慄く? いったいなにに反応したと言うのだ? しかし、それ程の存在なら今こうして落ち着いているのはおかしい。少なくとも、今は近くにはいないことの証左だ。反応を示した時、すぐに周囲を捜査すべきだったか……。

 後悔すると同時に、しかしと一方で思う。あれが慄きであったにしろ勇み立ったにしろ、片鱗に触れただけで鼓動が速まるほどの響きを示した以上、深追いは禁物だった。リュストゥングが興奮して、私の魔力では制御しきれなくなりでもしたら、ここいら一帯は大惨事になりかねない。それほどまでに私のスクラーヴェは強力なのだ。


「栞さん。どうかしたんですか?」


 急に無言になった栞を、健は覗き込むように見つめた。


「ううん。なんでもない。そろそろ戻ろうか」


 ごまかしながらも、このことは頭の片隅に留めておいた方が良いと思った。急いで飲み込んだ最後の一口は、美味いとは言い難い苦みを口の中に残した。

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