第3話 音のない声

 御茶ノ水駅から緩やかな坂道を下り、靖国通りを渡った。そこから日本武道館がある方向に進むと、一気に本の街としての表情を見せ始める。伊与は靖国通りから外れて裏道に入り、さらに奥に進んだ。

 ぽつぽつと古本屋が点在する地域となり、他では見られない独特の雰囲気が漂う。いずれも神保町という場所でなければ、三ヶ月と保たないような店舗ばかりだ。本の古さに張り合うくらいに古ぼけていて、悪く言えば古色蒼然、よく言えば趣がある。軽薄な時代の流れなんかに乗らないぞと、頑なに主張している感じが妙にくすぐったい。

 女の子が渋谷や代官山の雰囲気を楽しみながら歩くのと同じく、伊与も町の空気を味わいながら進んだ。最近、涼しくなり始めたのが、散策を一層楽しくさせている。

 昔はもっと古本屋の数が多かった気がした……。そんなことを考え、一軒の店に入った。

 開きっぱなしのシャッターが扉代わりで、店先にはカバーも付いていない文庫本がワゴンに収まって売られている。価格はいずれも五十円とか百円のものばかりだ。周囲にはもっと小綺麗な店が点在しているのに、殊勝に営業を続けている。なにか潰れない秘密でもあるのかと、伊与はここに来る度に可笑しくなった。

 奥の狭いカウンターに座って雑誌を読んでいた店主が、伊与を見つけると相好を崩した。まるでパズルのピースのように僅かな隙間にピッタリと収まっている。手にしているのは、インテリアを扱っている月刊誌だった。


「いっちゃん。いらっしゃい」

「こんにちは」


 神保町に来た時には必ず寄っている店なので、店主とはもう顔馴染みだ。何年も前から気さくに会話しているのに、名前が麻生あそうだと知ったのは、ついこの前だ。

 店内には古本がひしめいており、時を経た本独特の匂いに満たされていた。おそらく、何十年も前の本もあるのだろうが、特に希少本が揃っているわけではない。だが、隠れ家的な空気が好きで、気付いたら通うようになっていた。

 店内には伊与の他には二人の客がいた。二人ともとうに定年退職したであろう高齢者で、いずれも表紙が色褪せた本を熱心に立ち読みをして、眉間にしわを寄せている。一人が顔を上げて伊与をちらりと見たが、すぐに本に視線を戻した。

 伊与は店内を物色した。特に目当ての本があるわけではない。背表紙のタイトルを眺めながら、気になったものを手に取ってぱらぱらと捲る。

 何度か繰り返しているうちに、一人は本を二冊購入し、もう一人はなにも買わずに出ていった。店内には伊与と麻生だけになった。


「なにか面白いもん、みつかったかい?」


 タイミングを見計らって、麻生が話し掛けてきた。


「ん……。この文庫って怪談を集めたやつ?」

「どれ?」


 麻生が手を伸ばすので、伊与は表紙が見えるようにして渡した。店主は中指で眼鏡を上げ、タイトルをまじまじと眺める。


「こりゃあ、怪談というよりも都市伝説ってやつだな」

「都市伝説? でも、その本かなり古いよ。昭和五十四年が初版だって」

「そん時は、口裂け女が社会問題にまでなった年だな。知ってるか? 口裂け女」

「ネットで名前くらいなら見たことあるけど……。社会問題って、そんなに凄かったの?」

「ああ。パトカーの出動騒ぎがあったり、登校拒否になる子供まで出たり、ちょっと異常なくらいだったな」

「へえ……。なんでそんなに広まったのかな? その頃にはSNSなんてなかったんでしょ?」

「噂が噂を呼ぶってやつだ。SNSみたいな便利な交流サイトがなかったからこそ、あやふやな噂が口伝で広がったんだ。内容が曖昧だっただけに、子供たちは余計に信じたんだろう」

「曖昧なのに信じた?」

「そういうもんだって。なにからなにまでわかっちまったもんはあっという間に興味が失せるが、ちょこっと謎が残されてるもんはいつまでも残るだろ? モヤモヤとさ」

「ああ、それはわかる」

「それにしても、口裂け女とは懐かしいな。不便だった分、味わいのある時代だったよ。今は昔ってやつだ。誰も彼もがスマホなんて弄って、日夜新しい情報を仕入れてやがる。いっちゃんも、もっと活用しなきゃ時代に置いてかれるぞ。スマホなら電子書籍とか読めるんだろ?」


 麻生の真面目とも冗談とも取れない発言に、伊与は苦笑した。


「麻生さんがそれ言っちゃ駄目なんじゃない?」

「なあに。この店は俺の代でしまいよ。食ってくのだって、これまでの蓄えと年金でなんとかなる。ボケ防止に続けてるようなもんだ」


 そう言い麻生は笑った。

 伊与も愛想で笑ったが、来年の今頃にはこの店もなくなっているのかなと思い、一抹の寂しさを覚えた。初秋の夕暮れは、寂寥感を一層濃く感じさせる。


「じゃあ、もう帰るよ」

「またおいで」


 麻生に背を向けようとした時、伊与の目に一冊の本が飛び込んできた。白紙の上に黒い点があるみたいに、嫌でも目に入る感じだった。それもいきなりだ。

 サイズは文庫本より一回り大きい。ページ数は結構あり、システム手帳よりさらに厚かった。左右の本に圧迫されながら棚に収まっている。


「さっき見た時、こんな本あったかな?」


 伊与は、破れないように左右の本を広げながら引き抜いた。

 表紙と背表紙には見たことのない文字でなにやら記されていた。この本のタイトルだと思うが、まったく読めなかった。


「どうした?」


 伊与は麻生の問いかけを無視して、ぱらぱらとページを捲った。

 中は文字と図で埋め尽くされていたが、やはり一文字も読めなかった。タイトルと同じ系列の文字のようだが、なにやら古めかしい感じがする。

 なにか神秘的な雰囲気を感じた。文字と一緒に気になったのが、所々に配置された図だった。円の中に模様が収まり、周りを細かい文字で囲われている。真っ先に頭に浮かんだのは、悪魔召喚の儀式に用いる魔法陣だった。


「麻生さん、これ……」


 伊与は怪訝そうに見つめる麻生に、見つけた本を手渡した。


「……こんな本、仕入れたかな」


 麻生は伊与と同じように、ぱらぱらとページを捲り、奥付で眉の角度を上げた。


「この本、変だぞ。発行者も印刷所も、発行された年も記載されていない。かなり昔に作られた同人誌の類じゃないかな」

「同人誌? これが?」

「おうとも。今じゃ同人誌といえば薄っぺらいエロ漫画ばかりがもてはやされてるが、本来は同じ嗜好を持つ者が集まって自腹で作成する本を指すんだ。ジャンルも、詩集とか小説とか多岐にわたる」

「へえ。それは知らなかった」

「同人ってのは同じ志を持った者という意味だからな。今でも出してる人達はいるぞ。サークルとか倶楽部とかでな」

「この本は、どんな人たちが出したのかわかる?」


 麻生は、もう一度ページをぱらぱら捲った。


「さてなぁ。一見すると怪しげな魔術とかオカルト系な感じがするな」

「やっぱりそう思う?」

「そういった趣味の集まりがあって、ふざけて作ったんだろ。同人誌とはいえ、著者も発行日も印刷されてないなんて……仲間内だけに配られたものかもな。小さいから、どこぞで紛れ込んだかな」

「それ買うよ」


 伊与が言うと、麻生は大げさに目を開いた。


「物好きだな。こんな読めもしない本買ってどうすんだよ」

「なんとなく……気になってね。いくら?」


 麻生は背表紙や裏表紙を確認したが、息だけで唸った。値札シールが貼っていなかったからだ。手違いで紛れ込んだのなら、それも当然だった。


「百円でいいよ」

「本当?」

「ああ。置いといても売りもんにならんし、相当傷んでるしな。そんなとこだろ」

「じゃあ……」


 伊与は財布から百円を取り出し、麻生の掌に乗せた。


「袋に入れるかい?」

「そのままでいいや」

「毎度あり」


 手にした本の表紙をもう一度眺めてから、鞄に入れた。麻生が妙に難しい顔をしているのが気になる。


「どうしたの?」

「いやなに……。その本の怪しげな見た目に当てられちまったのか、妙な考えが浮かんでな」

「奇妙な考え? なにさ?」

「ジジイの妄想だと思って聞き流してくれよ。さっきの口裂け女の話だけどな」

「うん」

「今考えると、あれだけ爆発的に流行ったのはやっぱり不自然だ。本物か、そうでないにしても、それに近しいものが実在したのかもしれねえと思っちまってよ」

「口が耳まで裂けた女の人が? おじさん、本気で言ってる?」

「だから聞き流せって。う、ん……」

「どうしたの?」

「風邪でもひいたかな。なんだか急に悪寒が走りやがる……」

「夜は涼しくなったから。今日は早めに閉めちゃって休んだら?」

「たまにはそれもいいか……」

「じゃあ、帰るよ」

「ああ……」


 よほど具合が悪いのか、麻生の返事は素っ気なかった。伊与は店を出る時に振り返ったが、麻生は腕組みをして視線はどこか遠い場所に向けていた。

 その後、靖国通り沿いにある大型の書店に寄った。コミックの新刊をチェックしたり、アウトドアやサイクルスポーツの雑誌を立ち読みした。気がついたら午後六時を過ぎていたので、慌てて書店を出た。これから帰路についたら、家に着くのは七時過ぎだ。夕食を作って待っている母に文句を言われてしまう。

 日が落ちると、途端に空気が冷えてきた。帰りも御茶ノ水経由で帰ろうと坂道を上っていると、心なし鞄がいつもより重く感じた。伊与は、微妙な違和感に鞄に視線を落とした。


『おまえが新しいレクテューレか……』


 伊与は振り返った。

 声が聞こえた気がしたからだ。後ろから来た歩きスマホの男が、迷惑そうに進行方向をずらした。

 特に変わったものは目に付かなかった。歩行者がいて、車が走り、周囲には留まることのない雑音がひしめく日常的な風景だ。

 妙に引っ掛かった。今の声は耳から聞こえたのではなく、後頭部に埋め込まれたように感じた。それに、これだけの往来にも関わらず、自分に対して発せられたのだと確信に近いものがあった。


「……なんか……変な感じだな」


 冷えた風が染みたのか、伊与はブルっと大きく震え、再び歩き出した。

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